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1
名無しの歴史部員 2016/09/04(日)17:15:45.17 ID: .net

教えてや。薬でもやったの?




 

2名無しの歴史部員 2016/09/04(日)17:18:47.65 ID: .net

>>1
老害の典型例。
漢の武帝、梁の武帝、唐の玄宗、呉の孫権、東郷平八郎、武井保雄、水島廣雄など
例には事欠かない。




4名無しの歴史部員 2016/09/04(日)18:05:56.33 ID: .net

男児がなかなか生まれなかったから
精神的におかしくなった

女児にでも後を継がせればよかったのに




7名無しの歴史部員 2016/09/06(火)21:11:56.26 ID: .net

>>4
女児どころか子供さえ出来なかっただろ




9名無しの歴史部員 2016/09/08(木)15:47:45.06 ID: .net

おそらくビタミン不足による脚気では無いかと
推定しています。




10名無しの歴史部員 2016/09/08(木)20:14:46.55 ID: .net

天下取るまでは戦国武将の理想男子といって過言じゃなかったよね




12名無しの歴史部員 2016/09/08(木)23:08:50.11 ID: .net

むしろ秀吉の失敗は秀次事件の際に秀次の義兄、池田輝政に情けをかけて
しまったこと。若い頃なら族滅していた。秀次の正室(処刑)の兄であるゆえ、
秀次の残党に擁立される危険が高く、若い頃の秀吉なら確実に滅ぼしていた。

池田輝政は生きている間は秀吉に恭順するふりをし、秀吉の死後最も早く
秀次の残党を糾合し、秀頼に反旗を翻した。石田三成、増田長盛が警告した
通りになった。




13名無しの歴史部員 2016/09/09(金)09:51:18.07 ID: .net

>>12
>秀次の正室(処刑)
なんでこう思い込んでる人が多いのか?
処刑されてないよ・・・正室
全く持って無罪放免、というより蚊帳の外だよ。
つか、秀吉の天下取りへの池田氏の功績を考えたら処分などありえんよ。
徳川との小牧長久手でも、秀次を逃がして、親兄弟を羽柴のために討ち死にさせてる家だ。
それに池田輝政は秀次の直臣とか近臣ではない。




16名無しの歴史部員 2016/09/30(金)16:36:49.24 ID: .net

>>12
一方で父を殺した家康に肩入れとかダブスタにもほどがある。
結局長いものに巻かれただけ。
頭にあるのは保身のことだけで、それ以外の恨みといった感情はない。




17名無しの歴史部員 2016/10/01(土)08:09:59.07 ID: .net

>>16
実はあのあり得ない婚姻を成立させてしまったこと自体、秀吉のミスだけどね。
最も、あの出鱈目な婚姻は、石田三成の、秀次を追い落とすとき、義兄の池田の
縁で家康を連座させることができる、というものだけどね。
(実際に秀次事件で池田族滅、督姫処刑、家康領地大幅減を主張した)

流石に増田長盛は反対したけど、三成の強硬な推進を覆すことはできなかった。

その他、池田側も、自家が滅びるとき、多くの遺恨を残してやろう、という意図が
あったようだ。流石に家康を巻き添えにして、ただで済まないという読みがあった。




36名無しの歴史部員 2016/10/13(木)00:57:42.69 ID: .net

>>17
秀次事件は三成の仕組んだ罠とする史料はあるの?
輝政と督姫の婚姻は徳川が持ってきた話というのは
当時の池田家家老である伊木が残した記録でも確認できることで
三成なんて全く出てこないんだが…
そして出鱈目ではなく正式な婚姻だわな




14名無しの歴史部員 2016/09/10(土)09:39:42.38 ID: .net

秀次を生かしておけばと、そう思うよ
おそらく秀次健在では加藤・福島など秀吉子飼いは家康にはつかないだろうし




18名無しの歴史部員 2016/10/02(日)19:59:01.58 ID: .net

そりゃ百姓出身なんで階級にうるさかった中世じゃ身分が高い人間から差別されまくっただろうし
苦労して出世して頂点に経ったら今まで我慢してたものが全部出たんだろ
秀次も自分がここまで苦労して築き上げたのに棚からぼた餅で関白にしてやっただけなのに
秀頼から豊臣家奪う可能性考えたらどうしても許せなかったんだろ
実に人間らしくていいじゃないか




20名無しの歴史部員 2016/10/02(日)20:28:18.12 ID: .net

秀頼が生まれずに、関白秀次があのまま後継者になっていたら、豊臣政権は
安泰だったと思う。秀次はすでに成人しており、秀次のもと、豊臣氏の
家臣団が割れることもない。
秀吉が晩年になって、もう余命がほとんどない段階で、秀次を廃嫡して
滅ぼしたのが致命傷だった。




21名無しの歴史部員 2016/10/02(日)21:19:14.19 ID: .net

でも秀次は勝手に怯えて高野山に逃げてダメダメだったじゃん




22名無しの歴史部員 2016/10/02(日)21:22:08.84 ID: .net

秀吉の子供じゃない豊臣家になんの価値があるのって気もするが




25名無しの歴史部員 2016/10/03(月)23:59:56.91 ID: .net

取り巻きからしたら秀吉が認めた後継者であれば血なんてどーでもよかったと思うけど




27名無しの歴史部員 2016/10/06(木)09:46:07.10 ID: .net

秀吉発狂説は徳川幕府が下っ端や外様の武士や庶民に外交や国際交易に興味を持たせない様にする為に吹聴したデマゴーグ
秀吉は名門の信長と違って藤原氏を名乗れなかったので
外交権を藤原氏から完全に奪取する為に関白秀次を抑え蓋にして藤原氏を京に蟄して
自分は朝鮮に出兵して取り敢えず朝鮮王乃至明帝にこれから日本の外交を把握するのは豊臣氏であると認めさせようとした
尤もこれは黒田官兵衛辺りの集兵の為に建てた実行計画で在って秀吉自身は本気で明に取って代わる気で居たかも知れない
秀次は自分は蹴鞠連歌のお遊び職で既に充分一門の役に立って居た情況を理解できず秀頼が長じると秀吉に排斥されると勘違いしてああなった




28名無しの歴史部員 2016/10/08(土)14:34:34.58 ID: .net

だが、秀次の立場からすると、秀頼の誕生によって、自分はやがて粛清される
のではないかと疑心暗鬼になるのも無理はない。
せめて庶子であったならともかく、秀次は秀吉の実子ですらない。自分の立場は
微妙になったと、ふつうは考えるのではないか?
自分が秀次だったとしても、隠居して表舞台から消える以外に助かる道はない
と考えただろう。




29名無しの歴史部員 2016/10/08(土)16:59:57.21 ID: .net

>>28
疑心暗鬼になるし、不安マックスだったろうな
それならそれで秀吉に関白返上して秀頼盛り立てる展開を進言するくらいの頭はなかったのかねえ
プライドが許さないとか、そういうのは恥も極まるとかだったのかねえ
蟄居だなんだとなるより良いと思うけど。
強かならそのうえで別の地位をもらえばいいわけだし。




30名無しの歴史部員 2016/10/08(土)22:46:55.91 ID: .net

信孝を自害に追い込んだり、妻子を処刑したりなど
主家乗っ取りをやったわけじゃん。

因果応報を恐れるのは仕方がなかろう。




31名無しの歴史部員 2016/10/09(日)12:21:50.86 ID: .net

秀次自身は関白を退いて引退し、その子孫は清華家クラスの公家となって、
秀頼の豊臣宗家と一線を画すのがよかったと思う。
武家伝奏のような役目になり、大阪城の秀頼と朝廷のパイプ役になるのだ。
そうすれば、秀次一門を生かすこともできるし、秀次を関白にまで昇進
させたことも無駄にはなるまい。
秀頼の豊臣宗家が紛争に巻き込まれたとき、秀次一門は大きな藩屏となる。
秀吉の死後、徳川家康や前田利家より、身内の秀次のほうが、幼い秀頼の
後見人にふさわしいだろう。

だが、名門武将としての経験もなく、まだ若い秀次はそこまで知恵も回らなかった
だろうし、疑心暗鬼に陥って滅亡するしかなかったのか。
誰か忠告してくれる側近はいなかったのか?




35名無しの歴史部員 2016/10/12(水)23:27:39.11 ID: .net

>>31
>だが、名門武将としての経験もなく、まだ若い秀次はそこまで知恵も回らなかった
>だろうし、疑心暗鬼に陥って滅亡するしかなかったのか。
>誰か忠告してくれる側近はいなかったのか?

むしろ、側近の方が、秀次の引退、一線を退くことを許さなかったのでは?

池田輝政(秀次の義兄、蟄居、謹慎)、浅野幸長(能登に遠流)、木村重?(死刑、族滅)、
前野長康(死刑)、田中吉政(蟄居、謹慎)、中村一氏(蟄居、謹慎)、
山内一豊(蟄居、謹慎)、堀尾吉晴(無罪)、こういった連中が、かえって邪魔になった。




40名無しの歴史部員 2016/10/16(日)21:03:42.78 ID: .net

もともといいやつじゃなかったんだよね。
行動がゴマすり一途。
強い人間に媚びて媚びての反省だった。
本当に上司のことを尊敬なんてまるでしていない口八丁の人間。
なので自分が偉くなると遠慮する必要がなくなるので
素の本性がでてきただけにすぎない。
世間ではボケたっていうがそれだけじゃないと思うよ。




42名無しの歴史部員 2016/10/24(月)01:10:23.81 ID: .net

>>40
いや、多くの将を配下に取り込み、また子飼いも育てた
個人の才覚だけでは天下はとれないので
上だけでなく下も見ていたのは間違いないよ

ただ天下をとると、今度は軍人が邪魔になるのよね
走狗を煮るのは、仕方ない行動なんだよ
優秀な部下をいかに潰すかが最後の大仕事だ




48名無しの歴史部員 2016/11/14(月)11:15:13.22 ID: .net

今で言うアルツハイマーだろうな
激昴しやすくなり、最後は鬱状態




58名無しの歴史部員 2016/11/19(土)11:53:07.91 ID: .net

豊臣滅んだ一番の戦犯ってだれやろ?




62名無しの歴史部員 2016/11/21(月)03:53:52.28 ID: .net

>>58
お茶々




65名無しの歴史部員 2016/11/22(火)06:23:40.85 ID: .net

真田丸見る限りは秀次の被害妄想ってやつだな
プレッシャーって怖い




66名無しの歴史部員 2016/11/22(火)12:18:36.64 ID: .net

>>65 まあ、秀長が家康ほど長命なら日本の歴史もかなり変わってくるだろうな。




67名無しの歴史部員 2016/11/23(水)16:33:17.29 ID: .net

なんだろ

秀吉のような云わば「ぽっと出」なキャラに「更に」弟も優秀とは
たまたまなのか歴史の必然だったのか?と




68名無しの歴史部員 2016/11/24(木)10:29:24.74 ID: .net

>>67
優秀な兄の血を半分引いている。
優秀な兄を見て育った。
優秀な兄の家臣として指導され、経験を積んだ。周りの家臣も優秀で勉強になった。

別に不思議ではないだろう。




70名無しの歴史部員 2016/12/02(金)23:22:54.50 ID: .net

逆に、何ではっきりと切腹させたんだろうな。
秀次だけ邪魔なら毒を盛って、病死と発表してもいいだろうに。

秀次の子たちも、小早川秀秋のように、有力家臣の養子に出しまくる手もあったように思うんだけどな。
秀忠の養子に入れれば、徳川家の中にも豊臣家の家臣を送り込んでスパイ出来ただろうし。




71名無しの歴史部員 2016/12/02(金)23:30:21.03 ID: .net

野心満々の家康に250万石もくれてやる時点で、どうかしてる




72名無しの歴史部員 2016/12/03(土)15:48:27.43 ID: .net

>>71
これは豊臣政権の基本政策ととらえた方が理に適っている。
徳川・蒲生・上杉・伊達・前田(北陸豪雪そのまま)ら外様同輩大大名は、
軒並み加増とはいえ東へ東へと追いやられている。
実際、1590年時点で家康が天下へ・・・などとは万に一つも考えられない。
数字上250万石とはいっても、はっきり言って畿内西国東海地方と比較したら、
超未開地で、東北に至ってはさらにさらにさらにですよ・・・
蒲生は近江の先進地帯→山だらけ海なし会津
上杉は飛び地だらけの120万石で蒲生の尻拭い、越後の港湾利権全没収、佐渡支配有りでも鉱山支配は豊臣
伊達は更に北へ追われて、豊臣改修の岩出山入城
前田も豪雪地帯封じ込め
徳川は敵地あてがい、さらに東関東は難治であり、とりあえず本多と榊原を置いてしのいだ。
当初徳川の意にとりあえず従順なのは西関東(西上野・相模・伊豆・西武蔵)だけだったと思われ到底250万石云々などおぼつかなかっただろう。
徳川は超大規模領国インフラ整備を敢行して民心をとらえ、安定支配に成功した。
逆に、もし関東領内に一揆でもおきれば、確実に減封させられただろう。
国替え直後の徳川に豊臣家に逆らえるような力など全く無いからね。




73名無しの歴史部員 2016/12/03(土)16:06:21.76 ID: .net

250万石とはいえ当時の関東なんて僻地も僻地だものね。




74名無しの歴史部員 2016/12/10(土)00:01:51.16 ID: .net

でもこんだけまとめて、東に追いやったらいずれは反豊臣でまとまるんじゃね??あたりは頭に無かったのかな
家康が頼朝みたいになる、という




75名無しの歴史部員 2016/12/10(土)10:32:36.83 ID: .net

鎌倉幕府があった位なのにそんなに僻地かなあ?




76名無しの歴史部員 2016/12/10(土)11:28:18.01 ID: .net

>>75
何百年前の話しとんねん…




78名無しの歴史部員 2016/12/10(土)14:20:00.39 ID: .net

>>75
江戸が僻地
小田原とか鎌倉は栄えてたよ
家康は小田原を拠点にしようと考えてたけど、
秀吉が「江戸」と指定したのでそうなった




81名無しの歴史部員 2016/12/10(土)19:52:09.33 ID: .net

>>78
最近の研究ではこの「江戸寒村説」は見直しの必要があると考えられています。
 ✕江戸城の玄関は、舟板3・4枚を並べただけのみすぼらしい城
 ✕城下町も大手門の外側にかやぶきの家が100軒ある程度
 〇小田原合戦の時には、城代だった遠山氏が1000騎で守りを固めていました。(兵士5千名程度)
 〇江戸が16世紀にすでに武蔵東半の一大拠点
 〇後北条氏の武蔵野国の支城網の拠点の1つ。(北に川越、岩付。西に滝山、八王子。南に小机。)
 〇鎌倉街道中道(なかつみち)支線(江戸(浅草)→岩槻→関宿→小山)のルートの基点
 〇海路の拠点(江戸湊、品川湊)




104名無しの歴史部員 2016/12/17(土)00:04:02.72 ID: .net

>>81
塩見鮮一郎の著書にも書いてた。江戸は栄えてたと。
勿論、京・大坂ほどではないにしろ、港湾都市として十分機能し、活気があった。




80名無しの歴史部員 2016/12/10(土)17:45:41.94 ID: .net

まあ、江戸が開発できたのは天下普請で
大名にやらせたからで、徳川独力では無理だっただろう




82名無しの歴史部員 2016/12/11(日)13:24:58.95 ID: .net

後北条氏を滅ぼしたのが間違い
小田原征伐後、減封ぐらいの処置にしておけば東からの対徳川牽制に利用出来た
上杉も越後に留め置けば北からの徳川牽制に使えた

結局、秀吉の大名移封は関東で敵無しとなった徳川を利しただけ




86名無しの歴史部員 2016/12/11(日)21:30:24.81 ID: .net

>>82
まあ、そうだな。
ただ北条は徳川と割と近い関係にあるので、
徳川と隣接する地域に置くと同じ結果になるだろう。




83名無しの歴史部員 2016/12/11(日)17:16:14.07 ID: .net

家康なんかインネン付けてさっさと潰しときゃ良かったんだよ
前田毛利上杉宇喜多に比べ、どう考えても徳川がガンだろ
秀吉は甘い




87名無しの歴史部員 2016/12/11(日)21:36:02.17 ID: .net

>>83
関東で失敗すると見てたのだろう。
北条残党の内乱が起きて秀吉傘下のだれかが掃討に出陣すれば
終わった暁にはそのまま徳川を潰せる。




91名無しの歴史部員 2016/12/12(月)21:49:45.28 ID: .net

>>87
小田原攻めの後、前田利家は自分が降した氏政の弟・氏邦の助命を秀吉に嘆願し、許された。
氏邦が金沢で死去すると、その末っ子が大徳寺の僧となっていたのを呼び出し、
北条庄三郎と名乗らせ、知行1000石と甥・利益(前田慶次郎)の娘まで与えてやった。

それを聞いた徳川家康が、利家の長男・利長に意見した。
「北条家はすでに殿下(秀吉)が成敗された家であり、北条が絶えるならそれが自然であり、
末子は出家のまま差し置くのが筋ではないのか。」

利長はその通りに父に伝えた。 聞いた利家も返答する。
「いや、氏邦に関しては殿下が許して拙者に預けたものであり、その限りではない。
であるのに死後に跡目もないのは哀れゆえ、縁者を探したまでのことです。」

その後、家康に父の返答を伝えて、帰った利長を利家は呼びつけた。
「さても、うぬは智謀なき者よ。家康がああ申してきたら、いちいちわしに聞かず、
先ほどの返答ぐらいはその場で返せねばならぬ。

よく考えてみよ、普通に行けば我らと徳川はゆくゆく敵となる。その時のことよ、
関東は昔から恩を忘れぬ義理堅い土地じゃ。
我らが北条を押し立てて旗を揚げさせれば、関八州の大半は味方にできるわ。

好ク謀ル者ハ未ダ兆シナキウチニ慮ル、という言葉もある。
大志を抱く者は必ず心得ねばならぬ言葉ぞ。」

晩年の利家の深慮遠謀が感じられる。
茶坊主斬った時とはまるで違う。




84名無しの歴史部員 2016/12/11(日)20:25:50.31 ID: .net

秀吉は家康の関東転封をめくり、徳川家臣団の知行割についても相当干渉している。




89名無しの歴史部員 2016/12/11(日)22:19:13.41 ID: .net

でも秀吉は朝鮮で勝つことを想定してるからな。
徳川は免除というよりか、これ以上功をたてて
領地増やさせないようにするためかと。




102名無しの歴史部員 2016/12/16(金)08:31:12.24 ID: .net

秀吉は信長の真似をしただけ
家康は違った




108名無しの歴史部員 2016/12/17(土)10:54:36.02 ID: .net

>>102
家康だって源頼朝の真似をしただけだろう
偽家系図まで朝廷に差し出して源氏だと言い張ったし




105名無しの歴史部員 2016/12/17(土)00:27:00.81 ID: .net

んじゃそこを拠点にしろっつった秀吉はアホじゃん
狭隘な鎌倉あたり指定しといたほうが良かったんじゃないの

それとも秀吉が江戸にしろっつったのは創作?




107名無しの歴史部員 2016/12/17(土)09:49:00.53 ID: .net

>>105
84にも書いてあるけど、秀吉は徳川家臣の配置にも相当口出ししている。
家康に対して拠点の城はご自由にというのはあり得ない。
ちなみに小田原城に配置させたのは大久保忠世。

北条氏の時代だったら、上杉氏、古河公方、小弓公方、里見氏に対し
江戸は前線に近いから無理かもしれないけど、ほぼ天下統一しているから
関東で警戒すべきなのは佐竹氏くらい。




106名無しの歴史部員 2016/12/17(土)09:37:01.29 ID: .net

日本を富ませるには最良の場所だったから一概にアホとも言えん

今の東京があるのは秀吉のおかげってわけや




116名無しの歴史部員 2016/12/24(土)13:03:01.41 ID: .net

秀吉は唐入り(朝鮮征伐・明征伐)で、大陸に広大な領地を入手する予定
だったから、家康の250万石の領地は、相対的に小さくなると考えて
いたに違いない。

家康の立場からすると、交通の要衝である東海地方の旧領を奪われたのは、
大打撃だっただろう。たとえ石高は増えても、旧領を奪われて関東へ
追いやられれば、もう抵抗はできない。

唐入りが未達成に終わり、関東の経営に成功した家康が台頭してきた
その後の歴史は、誰にとっても予想外だったと考えられる。




118名無しの歴史部員 2016/12/24(土)21:14:27.51 ID: .net

>>116
秀次事件も重要。どう転んでも秀頼と敵対してくれる、池田輝政、
浅野幸長、最上義光などは、家康にとって物凄い心強かったはず。
これは秀吉の失点なしではあり得なかったからな。




引用元:豊臣秀吉ってなんで途中で頭おかしくなったの?