【艦これ】Fatal Error Systems【前半】
まだ、人類が一つにはなれていなかった頃の話。
一つになれるとは決まってもいないけれど。
なぜなら、この世界は……
※『風の色、海の声』で広げた風呂敷畳みにきました。
【艦これ】風の色、海の声
一応、そちらを読まずともなんとかなるとは思います。
あちらが外伝、前日譚。こちらが本編という形です。
地の文多め、というか例によって小説形式です。
そして長くなります。
今回は何度かに分けての投下になりますので、気長にのんびりとお付き合いくださいませ。
たった十年前。
もしくは十年も昔。
海上輸送にその生活の基盤の大半を任せていた人類は、唐突な出来事によって緩やかな滅亡への道を歩むことになった。
深海棲艦。
後にそう呼称される未知の敵によって、人類は海を失ったのだ。
最新鋭の技術を持って作られたあらゆる現代兵器は、その敵の前にほぼ無力だったからだ。
当時の最強国家であった大国ですら、その敵にはどうすることもできなかった。
彼らは最後の切り札を使い敵の一掃を図ったが、敵はそれによって失った数よりもさらに多い数をどこからか生み出す。
キリのない戦いの末に、人類の万策は尽きた。
切り札の多用が、やがて自らの首をも締めることを知っていた人類には、もはや打つべき手など存在しなかった。
そうやって、世界は閉じられていく。
資源のない国は、わずかな量のそれを手に入れるために、釣り合わないほどの危険を冒すことで、かろうじて生きながらえていた。
そんなある日。
資源のない極東の小さな島国に一人の少女が現れる。
七十年以上も前のその国の軍艦の名を名乗った少女は、不思議な力で海面を滑走し、身につけた武器を使って、深海棲艦を屠って見せた。
艦娘と呼ばれることとなる、その少女が現れた日。
それは、人類にとってわずかな希望が見えた日。
――そのはずだった。
一ヶ月に及ぶ航海を終え、あきづき型護衛艦はづきはその母港である横須賀に錨を下ろしていた。
入港すれば、それで乗員たちの仕事が終わりというわけではない。
物資の積み込みや艦の点検項目のリスト化など、やることはたくさんだ。
その作業の大部分を担うのが、砲雷科という戦闘に関わる職種を担う乗員たちだ。兵器システムは多岐にわたるため、関わる乗員の数も多い。戦場にいなければ、それだけの数が当然手隙になるのだ。
たかだか二五〇名ほどの乗員で運用されている護衛艦では、暇を弄ばせてくれるほど人員に余裕などない。
それらを取りまとめる砲雷長という役職にある男もまた、クリップボードを手に甲板へ出てきていた。そして、ぐるりと艦を見渡す。
艦首甲板に据え付けられた六二口径五インチ速射砲の周囲には、空になった薬莢が散乱している。百はあるだろう。これでも一応は片付けが進んでいる。
何せ弾庫にあった砲弾の全てを撃ち尽くしている。幾つかはその途中で海上に落下しているはずだ。これが陸上自衛隊であれば、その捜索に何日もかけるのだろう。
だが、広く深い海でそれをやるのは無理だったし、そもそも今は戦時。薬莢ごときで艦を危険にさらすようなことはしない。ただし、再利用できるものは可能な限り集めて再利用するのが、資源不足の今では当たり前になってもいるのだが。
艦橋の方に視線を移す。
増設分を含めて、全ての機関銃座が似たような状況だ。
乗員がそれらをスコップですくい、帆布でできた回収用の大きなカゴに流し込んでいる。
そして、その背後。
護衛艦の無機質で飾り気のない灰色の艦体に、赤いペンキをぶちまけたような跡が残っている。別の乗員がそれをデッキブラシで擦り落としているが、なかなか落ちない。
さらに力を入れようとデッキブラシの柄を短く持ち替えたせいで、赤いシミに顔を近づけてしまった若い乗員が何かに気づく。
そして顔が一気に蒼白になり、狂ったように泣き叫びながら嘔吐を始めた。
砲雷長はその乗員のそばに行き、救護室で休憩するよう促す。
そして、彼が去った後の壁を見て、その原因を理解する。
赤いペンキのような染みは血だ。
それがどこの部分なのかはわからない。ただ、青白いそれが血の気の失せた人の皮膚であることは間違いない。
その近くに開いた、大人の指が三本ほどは入ろうかという穴には、ちぎれた指が引っかかっている。
決して普通の精神状態で正視できる類のものではない。
平和な国に生まれ育ってきた、まだ年若い乗員にとっては衝撃的な光景だっただろう。
だが、そう思う砲雷長自身もまだ二十八という若さだ。そんな若さで砲雷長などという大役を任されるほどに、人員の損耗は激しい。
はづきの艦体には同様の穴が無数に穿たれ、各所に血糊が残っていた。
敵空母艦載機五十機あまりと駆逐艦四隻。それらとの二十五分間の戦闘でもたらされた被害は、戦死八名、負傷者十五名。いずれも男の部下だ。
だが、これでも被害は少ない方だ。
はづきより少し離れた位置に投錨している、同型艦のきよづきを見る。
さらに艦長以下、乗員の半数が死傷している。
きよづきの戦闘能力は完全に失われ、自力での航行がやっとという有様だ。
だが、敵の攻撃がきよづきに集中したおかげで、はづきの被害が小さく済んだのだ。
明暗を分けたものが一体何だったのか、それは誰にもわからない。
ボディバッグが不足し、艦内からかき集められた毛布に包まれた遺体が後部甲板に集められていく。
そして、そこでパレットに載せられ、クレーンを使って降ろされていくのだ。まるで荷物の様に。
そこには死者に対する気持ちなど見受けられない。
いや。本当はあるのだ。けれどそれを持ち出してしまうと、この現実に耐えられない。
だから、誰もが感情を押し殺し、これを作業としてこなしていくしかないのだ。
ただ、輸送作戦が成功し何十日分かの資源の獲得に成功したと発表されるだけだ。
現実を知っているのはその場に居た者だけ。
敵の攻撃は激化し、行動も巧妙になってきている。
いずれ輸送作戦が立ち行かなくなるのは目に見えていた。
男の全身を無力感が蝕んでいく。
何より、疲れていた。
もともと、戦いの現場に身を置くことを望んでいたわけでもなく、国を守るという義憤に駆られたわけでもない。
全てを失い、ただ食うためにこの道を選び、成り行きでこうなってしまっただけだ。
そんな人間が、多数の命を預かる立場にいるべきではない。
「砲雷長。現時点までの報告書を持って艦長室へ」
そんな無線が流れてきた。
ちょうど良い機会だと、男は艦内へと向かった。
《1》
あきづき型護衛艦はづきの後部格納庫には、台車付きの二十フィートコンテナが二本鎮座していた。
本来であれば、ここには護衛艦の目となり耳となるはずの対潜哨戒ヘリコプターが格納されている。
そもそも護衛艦とは戦うための船だ。貨物船ではない。
にもかかわらず、こんな状況になっている。
(なんとも、おかしな話だね)
時雨はそのコンテナの上でため息をつく。
本来であればこれは輸送船の仕事。
だが機材にトラブルが起きたため、横須賀に戻る護衛艦が替わりにコンテナ輸送をする羽目になったのだ。
それだけ重要で急ぎの荷物ということなのだろうか。
おそらく違う。それだけではないはずだ。
食事と生理現象の解決に向かう以外は、この上で過ごしている。
それが仕事だ。
多分、それを知るものはこの艦にはいない。
誰もそうは思わないだろう。
紺色のセーラー服姿の少女が、このコンテナの監視をしているなど。
乗員たちが作った噂話がその証拠。
曰く。
――兵器メーカーの偉いさんのご息女。
(まぁ、僕がここに来た時に同伴してた人が関係者だからね)
荷物と同じ扱いで構わないから、と。
だが、そんなはずがないだろう。
何も危険な海を通る必要などない。陸上を行った方がはるかに安全で確実、そして早いのだから。
だからその噂はすぐに消えた。
今、ささやかれている噂はまた違うものだ。
曰く。
――深海棲艦に襲われ、唯一生き残ったかわいそうな子。接触があった可能性が高く専門の検査ができる場所へ移送する必要がある。
(なんだか、とても面倒なことになってるんだけど。どうしたものかな)
もう一度、今度は大きく深いため息をつく。
深海棲艦とは何度も遭遇しているし、戦ったことだってある。
ただ、深海棲艦に唯一対抗できる艦娘という存在自体が公にされていない以上、それを持ち出して否定することもできない。
だから、時雨は沈黙を保つ。
その結果。
――あまりに凄惨な現場を見たショックで心を閉ざしている。治療して情報を探るのだろう。
面倒な噂に、余計な信憑性を与えてしまう結果になっていた。
もう一つ言えば、乗艦の際に同伴して来た別のスーツ姿の男が、一風変わった身分証を提示したのが、そんな憶測を呼ぶ致命的な原因になったのだろう。
海上幕僚監部特殊運用支援調査部。
それが正式な名称だが、大抵は『情報部』の一言で呼ばれてしまうような組織だ。
そもそも情報を扱う組織には内向きと外向き、二つの役割がある。
一般的に情報部と言われて誰もが思い浮かべるのは外向きの仕事。すなわち情報の収集とか、対外破壊工作や情報操作など、そう言ったもの。
内向きの仕事というものは、情報の漏えいや叛乱といった内部での不穏な動きの監視、把握、阻止だ。
ただ、この国に新設された情報部は海上自衛隊の一組織に過ぎず、敵である深海棲艦に関わる部分のみを引き受けていた。
対外的には敵情報の収集。
そして、艦娘に関する情報の統制が内向きな仕事だ。
実のところ、時雨はその組織と関係が深い。
別に諜報員というわけではない。あくまでも協力者という形で、だ。
海に出られない人間に代わって、敵の拠点を探し回ったり、動きを監視したり。時には単独で敵と一戦交えることもあった。
(だから、これもそうなんだろうね。きっと)
コツコツと指先で叩いたコンテナの中身は時雨にも知らされていない。
だが、それを推測できないほど愚かでもなかった。
出されている指示はたった一つ。
――このコンテナを横須賀基地まで護衛すること。不測の事態が生起した場合は如何なる手段を持ってしても国を守るべし。
ため息。
中に入っているものが自身の想像通りなら、その指示は最悪の結果を招くかもしれないのだ。
だからこそ、時雨は乗員との接触を避けていた。
決断をするにあたって、情はそれを鈍らせるからだ。
そうしなければならない程、時雨自身が葛藤している証拠でもある。
(なんというか、割り切るっていうのは大変なことだね)
だが、いくら自分がそういう意識で行動していたとしても、周りにそれを喧伝するわけにもいかないのだから、当然、好奇心という名の邪魔は入る。
例えば。
「気分はどうかな?」
コンテナの下の方からかけられた声に、時雨は身を乗り出して覗き込む。
声の主はこの艦の艦長だ。
時折こうして姿を見せては、時雨との会話を試みようとする。
なんでも、似た年頃の娘がいるのだとか。
こうやって意図せずに送り込まれる情報の数々が、時雨の決断を鈍らせていくのだから。
「問題ないよ」
それがわかっていても、邪険に扱うことができないのが、また時雨を苦しめる。
「別に、医務室のベッドを使ってもらったって構わないんだよ?」
「大丈夫だよ。迷惑はかけられないから」
この会話も何度目だろうか。
大抵はこの後、彼の家族のことや陸での何気ない日常など、時雨にとって拷問のようにすら感じる情報が溢れ始める。
「艦長さんがこんなところで油を売っていていいのかい?」
だから、今日は先手を打つ。
「艦が何も問題を抱えてなければ、私に仕事なんてないよ。乗員はみんな優秀だからね」
そう言って微笑んだ。
「だから、こうして艦内を見回る。日課みたいなもんだよ」
そのまま壁際まで歩き、スイッチを操作して格納庫のシャッターを解放した。
ゆっくりと入ってくる外の光が刺さるようで、目を細めてしまう。
そして、格納庫内にこもっていたエンジンオイルと航空機用燃料の匂いが一気に潮の香りと入れ替わっていく。
「そんなところにいても退屈だろう? 今日は天気もいい。嫌じゃなければ、海でも見てみないかね」
時雨にとって海に出ることは当たり前で、見慣れてしまったものだ。
それでも、なぜかその言葉に逆らえなかった。
とにかくコンテナから降りると、艦長の後に続いて後部甲板へ出る。
まず出迎えたのは、梅雨時期だというのに雲ひとつない青空。
「今日は富士が見えるな」
そう言って艦長は右手の方向――はづきの左舷側を指差す。
水平線の向こうにそれが見えた。まだ雪の残る山頂が何もない空に突き出している。
「今、どのあたりなのかな」
「御前崎の沖合四十キロと言ったところだろうね」
それ以外は何もない、ただ広い海が広がっている。
世界がまるで、海だけになってしまったかのように。
おそらく目線の位置が違うからだろう。
ただそれだけなのに、新鮮に見えた。
まるで子供のように周囲を見回す時雨の視界に、少し寂しそうな顔をした艦長の姿が入る。
「陸に上がってしまえば、もしかすると二度と見ることはできないかもしれないものだよ。今のうちに焼き付けておくといい」
深海棲艦が現れ、人が海を恐れるようになって十年以上。
今ではこんな光景を見られるのは命をかけて物資を輸送する船員か、それを守る護衛艦乗りだけだろう。
けれど、彼らにはこの景色を見ている余裕などあるはずがなかった。
隣に立っている艦長でさえ、艦の状態をその目で確認する作業をしているだけだ。海を見てなどいない。
だから、これはとても貴重ものだ。
感謝の言葉が自然に出てくる。
おそらくそれもまた、自分の心を痛めつけるものになるに違いない。
それでも、言わないわけにはいかなかった。
「どういたしまして。チェックにもう少し時間がかかるから、ゆっくり見ていてくれて構わないよ」
「うん。そうさせてもらうね」
波の音。
潮の香り。
海鳥の声。
時雨はそれに身を委ねることにした。
たとえ束の間でも、心が休まる瞬間だったから。
午前十時。
カチャリと、見た目通りの軽い音を立てて金属製のドアノブが回る。
極力音を立てないように、足柄はそっと基地司令執務室の札がかかったドアを開け、室内を覗き込んだ。
部屋の主は、梅雨時期だというのに窓もカーテンも閉め切ったまま、部屋の中央に置かれた応接用のソファの上に寝転がり、静かな寝息を立てていた。
資源不足の影響で電力使用の制限がかかっているのだから、当然エアコンは止まっている。
それでも眠れてしまうほどに疲れているようだった。
だからなのか、海上自衛隊の第三種夏服に身を包んでいるが、その制服が持っているはずの凛々しさなどどこにもない。
あちこちにシワも入り、ヨレヨレになったそれを着込んだ姿は、まるで残業明けのサラリーマンといった風情。
実際に足柄はそれを見たことはないが、時折届く雑誌や新聞などの記事から拾い集めた知識をフル活用して、そんな形容にたどり着いた。
おかげで、肩についた一佐の階級章もどこか色あせて見える。
小さな声で一人ごちてから、窓際へと音を立てずに向かう。
まず、厚手の青い遮光生地のカーテンを開け、外の光を迎え入れる。
窓越しに規模の小さな港が見え、そこには一隻の護衛艦が錨を下ろしていた。
先週帰港したばかりの、むらさめ型護衛艦あきさめ。
この横須賀第二基地に配備された唯一の護衛艦だ。
甲板では、乗員たちが補給や整備といった作業に走り回っているのが見える。
「こんな姿見せられないわね、まったく」
突如として差し込んだ光に、眉根を寄せて不満げな表情をしたまま、器用にもソファの上で寝返りを打つ部屋の主を見て、ため息をつく。
窓を開け放つと、ムッとするほどの潮の香りと、外構の舗装路面で温められた空気が部屋の中に入り込んできた。
「……なんだよ。もう少し寝かせておいてくれよ」
ようやくここで部屋の主が不満の声を上げる。
「一応言うけど、もう十時よ?」
「帰ってきたの、六時だぞ……まだ四時間しかたってないじゃないか」
彼の立場上、もっと上の方からの呼び出しは頻繁だ。
そして呼び出されれば、出向かねばならない。
首都――東京にある海上幕僚監部の建物まで、だ。
横須賀第二基地は、その名に反して三浦半島の突端にある。
その任務は周辺海域の警戒。
他に作られた第二と名のつく基地も似たような役割だ。
「これでも気を使ったつもりなんだけど?」
起こすだけなら、ズカズカと入り込んで体を揺すればいい。
そもそも課業開始時刻から二時間以上も寝坊などさせておかない。
足柄の気性からして、本来であればそうしている。
だから嘘はない。
「文句なら、意味のない会議にあなたを呼び出す側に言うべきね」
「そりゃ、ごもっともだ」
「で、その会議はどうだったの?」
本来であればコーヒーを出すところなのだろうが、輸送路がまともに機能していない以上、手に入るはずもない。
嗜好品の順位ははるかに下だ。
「時期はまだ未定だけど、また輸送船団を出すつもりだよ。今度はさらに規模がデカい」
「調子に乗ったのね」
ため息が出る。
「そこまで言ってやるなよ。この間のが見かけ上はうまく行ったんだし、仕方ないさ」
「……見かけ上は、でしょうが」
その裏で艦娘たちがどれだけ血を流しているのか。
実際、佐世保で秘書艦をしている金剛は、かなり危険なところにまで追い込まれたと聞いている。
「輸送船団に近づく敵艦影、機影はこれを一切認めず――だとさ。笑えるね」
足柄も思わず鼻で笑ってしまう。
実際には艦娘たちが先回りをかけて、すべてを排除した結果でしかない。
それに。
「そもそも、敵が輸送船団を狙ってたのか怪しいところなんだがね」
足柄が知る限り、敵の狙いは佐世保の戦力そのものだった節がある。
戦力投入のタイミング、編成、ルート。手に入る限りの情報すべてがそれを指し示していた。
「上の人たちはなにも?」
「作戦は大成功。前路哨戒が有効に機能して敵が手を出せなかった。そう言うことにしたいらしい」
それでも話をそうしなければならない理由など限られてくる。
「政府の意向ってやつね」
「そう言うこと」
今までの輸送作戦自体も、物資を持ち帰ることはできているのだから、成功と言っても差し支えはない。
ただ、それに付随する被害が拡大の一途をたどっていることで、マスコミや国民からの突き上げが激しい。
その批判をかわすためには、見かけだけでも大成功というストーリーが必要ということだ。
「一応、忠告はしてきたんだけどね」
それは無駄に終わっただろう。本人も首を横に振っているのだから間違いない。
敵の襲来もなく、仕事といえばほぼ椅子に座って書類を承認していくだけの横須賀第二基地司令官とは、その程度の存在だ。
唯一の例外が目の前でお茶をすすっているこの男だ。
いくつかの不幸な出来事が重なってしまったために空いた椅子を、とりあえず埋めるためだけに送られてきたのだから。
「飾り飾りって言うけど、一応提督なのよ? その意見を聞かないなんてね」
ただ、それでもだ。
誰もかれもがその椅子に座れるというわけではないだろう。
それなりの理由や実力があったからこそ、そこにいるはずなのだ。
たとえこの基地の司令官職が安楽椅子であったとしても。
そこに据えるためだけに、三十路を前に破格の地位へ昇進させられたとしても、だ。
「年功序列ってのはそう言うもん――で、その提督ってのはやめてほしいんだけどね。尻が落ち着かなくて困る」
「艦長経験もなしに艦隊司令なんてのがおかしい。第一、佐官だぞ、俺は。そもそも、ここに来る前にやってた砲雷長だって、人材不足のせいだって言うのに……」
乗務していた護衛艦の砲雷長が任務続行不能になってしまったがために、その場で最上級だった彼が臨時で指揮をとった。ただそれだけのことだと、何度も説明を受けている。
それでも、その護衛艦はその後の窮地を無事に切り抜けたし、正式に砲雷長として参加したその後の作戦においても生還を果たしている。
だから、彼自身にそれだけの才覚があったと言うことに違いはない。
そして何より、この国の中でも深海棲艦との戦闘経験が豊富な人間の一人だ。
その意見に耳を傾ける価値は充分にあるはずだと足柄は思う。
「まぁ、その話はいいや――それで。起こされたってことは、頼んでいたものが届いたってことでいいのかな?」
「ええ、前回の輸送作戦に関する金剛の戦闘詳報。写しだけどね」
そう言って、書類袋を手渡す。
「鳳翔さんにまで危ない橋を渡らせて……」
それを見とがめて、足柄は愚痴をこぼす。
「仕方がないだろ。金剛には余計な目やら耳やらがくっついて歩いてるんだから」
一瞬、その言葉の通りの光景を想像してしまい、全身を寒いものが走ってしまう足柄だったが、もちろんそんなわけはない。
監視が厳しいということだ。
流れの中とはいえ、司令官に暴言を吐き、脅迫するような態度をとったのだから仕方のないことだ。
「鳳翔からのこれは礼状ってやつかな。艤装修復の資材提供に感謝します、とさ。機会があればお食事でも、だって。本当にマメな人なんだな」
「間宮が一流レストランの味なら、鳳翔さんのはまさにおふくろの味ね。期待していいわよ、それ」
「そいつは楽しみだ」
「それ、別に佐世保のでっち上げのでも大体はわかるんじゃないの?」
たとえ作戦を立てたのが誰であろうと、沈めた敵の数に変わりはないし、敵の位置に変化があるわけでもない。
一番問題になるであろう、作戦の後半に至っては金剛から大体の経緯を聞いていたし、それは提督が想像していた通りだったのだ。
わざわざリスクを冒してまで、取り寄せる必要などあったのだろうか。
足柄が不思議に思っているのはそこだ。
「大体は、ね。ただ、現場がその時に何を考えたか、何を見たか。俺が必要なのはそっちなんだよ」
そう言った提督からは表情が消えていた。
この男がそういう顔をするのは、何か引っかかることがある時だ。
たった一年とはいえ、側で見てきたのだからそのくらいはわかる。
「敵の別働隊。太平洋を迂回してきたグループだよ」
輸送船団の位置を追撃隊に調べさせ、自分たちは太平洋側から攻撃に入ろうとしていた別働隊。その本当の意図は赤城隊の足止めと、赤城隊に引導を渡すべく迫っていた本隊への補給だろうと足柄は見ている。
金剛たち佐世保の艦娘もそう考えていたようだし、おそらく上層部もだ。
だが、この男は何か別なものを見つけ出そうとしていた。
「何か不審な点でも?」
「些細なことだけどね。タイミングを合わせて突入するだけなら、あの海域に足を踏み入れるのはもう少し遅い方がいいはずだ。それだけ発見されるリスクが減る」
確かにそのせいで鳳翔と瑞鶴の索敵網に引っかかり、奇襲を受ける羽目になっている。
あれがなければ、赤城隊は三個艦隊を相手にして、大きな損害を被ることになっていたのは間違いない。
「だからバシー海峡を哨戒していた艦娘が引き上げた後くらいに、あそこへ侵入するべきなんだよ。そうすれば邪魔は入らない」
「金剛はそれ以前に踏み込んで隠れられれば、と思っていたみたいなんだけど、実のところそれはリスクが大きすぎる。もし見つかれば、最悪それらすべてが戦闘に加入してしまうんだから。そうなったら本来考えていた作戦は達成率が相当に低くなる」
事実、金剛隊は敵を粉砕し、その意図を完全に挫いた。
「だから、それだけのリスクを冒す何かがあったと考えていいんじゃないかなってね」
「具体的には?」
「さてね。それを探すためにこれが欲しかった――赤城隊への攻撃は間違いなく計画の一つだろうと思うけど、同時に何か別のこともしていたんじゃないかなって、今はそんな気がするだけって所だね」
そう言って戦闘詳報に集中し始める提督。
足柄は再びお茶を淹れ、いつものように書類の整理に入る。
「しかし、今日はやけに静かじゃないか?」
提督がポツリと漏らす。
「この時間なら、駆逐艦の子たちが大騒ぎしながら外を走ってるだろ」
体力錬成というやつだ。足柄が艦娘たちに課した日課でもある。
何せ、横須賀はそれほど実戦の機会が多いわけでもない。有り余る体力をそう言う方向で消費させなければ、この基地内の平和が危うかった。
特に駆逐艦娘たちはやたらと活きがいい。
「ああ、そうだった」
そこで一つ連絡事項を思い出す。
「音響ブイのいくつかが稼働停止したの。提督は会議で不在だったけど、放置するわけにもいかないでしょ? それで、由良たちを修理に行かせたのよ」
その言葉を聞いた提督の顔から、再び表情が消えるのを足柄は確かに見た。
「このタイミングで、か?」
頻繁とは言わずとも、これまでも何度か起きた出来事だ。
けれど、提督はそれに何かを感じたらしい。
音響ブイの配置図と書類一式を持ってくるように言いつけられ、足柄は執務室を出る。
伊豆半島の沖合は雲ひとつない青空だった。
遮るもののない海の上、刺すような太陽の光がジリジリと肌を焼く。
さらに悪いことに、海面で反射したそれが下からも襲いかかる。
まるでオーブンの中にでもいるような気分だ。
いや、湿気を帯びた空気が体にまとわりついているのだから、もしかすると誰かが言っていた蒸気加熱式オーブンとかいうやつの方が的確かもしれない。
まだ六月だというのに、今からこれではこの先はどうなるのだと、要らぬ心配をしてしまう。
(やっぱり真っ黒になっちゃうよね)
穏やかな波に揺られる小型の遊漁船の上で、軽巡洋艦娘の由良はぼんやりとそんなことを考えていた。
「由良さん、何か考え事ですかー?」
後ろの方から呑気な声をかけてきたのは駆逐艦娘の村雨だ。
いくら薄手の生地とはいえ、あの色でこの状況下では拷問器具のようなものだろう。
実際、村雨は胸当てを摘み上げてパタパタと風を送り込んでいた。
今度こそはため息が由良の口から漏れる。
自分が年頃の女の子の姿をしていることに自覚があるのだろうかと不安になったのだ。
村雨はタダでさえ女性らしさを主張する部分が大きいし、小柄な体格と相まってそれが余計に強調されている。
「ちょっと、村雨。暑いのはわかるけど、はしたない真似はしないの」
羨ましくもあり、妬ましくもある。由良はそんな個人的な感情を少しだけ込めて注意する。
「大丈夫ですよー。さすがに男の人がいる前ではやりませんって」
その存在自体が隠されている由良たち艦娘が接する男など、数は限られている。
その数少ない男たちも、由良たちの素性を知っているだけに、そういう対象としてではなく、畏怖の対象として見ている様だった。
たった一人を除いては。
「でもー、そもそも興味持ってきたの、提督くらいなんですけどねー」
(ああ、やっぱり)
由良は軽いめまいを覚える。
「提督が着任してから半月くらいの時に、それホンモノかって触られちゃいましたー。あはは」
能天気な村雨とは逆に、由良の表情はみるみるうちに怒りに染まる。
「それ、セクハラってやつじゃない! というか、もう犯罪行為!」
「指先でつつかれた程度ですってー」
勝手にヒートアップしていく由良。
敵艦隊への切り込み役でもある水雷戦隊旗艦として、駆逐艦娘たちをまとめる立場というせいもあるのか、気がつけばいつも保護者的な役回り。
外見的にはそれほど年齢差があるわけでもないのだが。
村雨はカラカラと屈託なく笑いながら――
「いやまぁ、そうなんですけどねー。艦娘見るの初めてだから、気になったんじゃないんですかねー」
などと、それほど気にした風でもない。
「そんな理屈が通るわけないでしょうに……」
呆れて頭をかかえる由良に向かって、右手の人差し指を立て、片目を瞑る村雨。
「だいじょーぶです。きっちり海軍式で根性叩き直しておきましたから」
しかしその割には、あまり改善していない気がする。むしろ味を占めたのではないかとさえ思える。
悪戯の種類は様々だが、提督が憤怒の形相をした艦娘の誰かしらに追いかけ回されている姿など、基地内では日常の一部だ。
だが、そんな日々が繰り返されていくうちに、由良の中にこびりついていた『自分たちは兵器』という考え方が希薄になっていた。
それに気がついたのはつい最近だ。
今の提督がやってくる前に比べて、他の艦娘たちにもそれぞれの個性が表れてくるようになっている。
語弊があるのかもしれないが、自分も含めて人間らしくなったと感じる。
それが良いか悪いか、今の所由良にはわからない。
ただ、昔より充実しているのは間違いないし、そんな仲間たちを見ることも嬉しいことなのだと知った。
けれど、方法のいくつかに問題があるせいで素直に感謝するわけにもいかず、悶々とするのだ。
そんな由良の葛藤などどこ吹く風。村雨は何事もなかったかのように話を元に戻す。
気苦労の無意味さを知り、めまいを通り過ぎて、由良の頭は痛みを訴えている。
「……日焼けは嫌だなぁ、ってね」
こめかみを軽く揉み解しながら由良は答えた。
「あー、確かに……」
村雨が空を見上げる。
つられて、由良も同じように顔を持ち上げた。
雲のない空が遥か遠くまで青いままに続き、太陽は憎らしく思えるほどに輝いて、洋上を照らしている。
時折海鳥が空を舞うくらいで、他は何もない。
「今日はずっと晴れだそうですよ」
横合いから声がかかる。
由良が視線を向けた先で大事そうに工具箱を抱えているのは、駆逐艦娘の五月雨。
涼しげなノースリーブの白いセーラー服が目に眩しい。
「あら、梅雨は中休みなのね」
「あはは……私はお仕事してるんですけどね」
梅雨を雅な言葉に言い換えたのが『五月雨』だ。
頓知を聞かせた由良のからかいに、そんな名前をもらった五月雨が優雅さとは懸け離れた、疲れの滲む声を返す。
それもそのはず。
だから冗談を言ったり、どうでもいいことの一つくらい考えてみたくもなる。
「もうすぐで終わるから頑張ってね、五月雨ちゃん」
そう言いつつ操舵室から姿を現したのは工作艦娘の明石。
両手で大事そうに抱えているのは、白い円筒形をした音響探知ブイ――海中の音を拾って不審な移動物体を見つけるための装置だ。
人類はこれを沿海域に設置することで、数の少ない戦力の穴埋めを図っている。
一度洋上に投下されれば、あとは太陽光パネルで充電しながら、長期間に渡って自動的に監視を続け、内蔵されたモーターとスクリューによって、ある程度の海流であっても自分の位置を保持し続けることができるという。
「それ、直りました?」
「直すって言うか……請求できても手間賃くらいなもんよ」
つまらないといったふうに、明石は由良の問いに答える。
「質の悪い電池なんか使ったせいで、しなくてもいい苦労をさせられてるだけなのよねぇ」
明石の見立てでは、蓄電池が電力を異常放電してしまったせいで機能が停止。広い海を宛てもなく漂流することになったようだ。
だから電池の交換さえすれば問題はない。
が、肝心のブイ本体を探すのは骨が折れる。
救難信号でも出ているならまだしも、海流と風向を計算して漂流している範囲を予測しているだけなのだから、その精度などタカが知れている。
本来であれば、新しいものを設置し直してしまう方が手っ取り早いし、効率的なのだ。
だが、資源不足という重い枷はいたるところに影響を及ぼしている。
「あと、いくつ、あるんだっけ!? っと!」
村雨がそんな感じで勢いをつけ、最後の点検が終わったブイを海上に投下する。
「うえぇ……」
屈託のない笑顔で即答する五月雨に対して、村雨はうんざりした顔だ。
それを見て苦笑いをしながら、由良が口を開く。
「夕張の方も、こっちも三つ目。頑張れば勝てるわよ?」
最初の一つを見つけ、電池の交換だけで修理作業が終わることが分かった時点で、もう一つの捜索隊を指揮している軽巡洋艦娘の夕張との競争が始まっていた。
そうでもしなければ、広い海域のどこにあるのかわからないものを探す気力など得られるわけもない。もちろん秘書艦の足柄から許可も得ている。
残り七基のうち、より多く見つけた方が勝ちという簡単なルールだが、向こうには勘の良い駆逐艦娘の夕立と、実直な春雨が一緒だ。由良たちの方が一人多いとは言え侮れない。
「欲しいものを買ってもらえるんですよね?」
そう言って由良を見る五月雨の目は真剣だ。
街に出ることができない艦娘にとって、そこでしか売られていない物は貴重だ。わずかばかりに入ってくる雑誌や新聞の情報を見て、想像を巡らし、ため息をつくくらいに。
「あ、私はさっき決めましたー」
「あら、何にするの?」
一番最後まで迷うだろうと思っていた村雨の声に、由良は少しだけ驚き、その選択に俄然興味がわいた。
五月雨と明石も、じっと村雨を見つめ答えを待っている。
「夕立が言ってた、日焼け止めっていうやつです」
「ああ……『これを塗れば日焼けしないっぽーい』って言ってたやつね」
声音を少しだけ変えた由良の声に、他の三人が噴き出す。
「そうそう、それです。っていうか由良さん、夕立の真似うますぎでしょ」
「ありがと。でも、艦娘に効果あるのかしらね? 夕立のあの語尾だとなんか怪しく聞こえちゃって」
とは言うものの、由良自身は試してみる価値があると思っている。
何よりも、先ほど真っ黒に日焼けした自分の姿を想像してしまい、すがれるものには何でもすがろうという結論に至った。
「疑問系の『ぽい』じゃなかったので、大丈夫だと思いますよ?」
何とか笑いを収めながら、息も絶え絶えに五月雨が言う。
けれど、その関係者だけには理解できる衝撃的な一言に、他の三人が声を失くした。
「えーっと……五月雨には、あの語尾の違いがわかるんだ?」
しばしの沈黙の後、ようやく村雨が声を絞り出す。
「え? あの……わからないんですか?」
「……普通、わからないと思うんだけど」
と、由良。
「私も夕立とは長いこと一緒だけど、わかんない……」
由良の問いかけるような視線を受けて、村雨はお手上げとばかりに両手を広げるジェスチャー付きで答える。
「私もわかんないなぁ」
最後の希望とばかりに、五月雨のすがるような視線を受けた明石も、申し訳なさそうに首を横に振る。
自分や明石はともかく、夕立とは姉妹艦でもある村雨にもわからないのであれば、それはもう五月雨だけが身につけた特殊能力のようなものだと、由良は結論づける。
「よし、五月雨ちゃん。今度から通訳ヨロシクね」
「はい、お仕事増えたー」
「ええっ! なんでっ!? なんでみんなわからないんですか!?」
泣きそうな五月雨の抗議の声に、三人の笑い声がかぶる。
――と。
操舵室の方から、警報音が響く。
耳に残る甲高い電子音は何度聞いても慣れず、いつ聞いても嫌なものだ。
村雨と五月雨が、操舵室に駆け込む明石の背を見ながら息を飲む。
「ほら、ぼやっとしてないで準備して!」
言葉で二人の尻を叩き、由良も明石の後に続いて操舵室へ入る。
明石は幾つかの端末の画面に視線を走らせながら、キーボードを操作していく。
後ろに立つ由良を見ることもなく、明石は目の前のデータを読み上げていく。
「敵ですか?」
音響ブイは衛星回線を通じて、陸上のデータベースと接続されている。
そこには敵である深海棲艦を含めた、様々な艦船の音紋データが記録されており、照合は瞬く間に行われる。
船が発する音には、人の指紋と同じようにそれぞれの特徴があるからだ。
たとえ合致する情報がなくても、比較的似た音を拾い出して推測することも可能だ。
それを踏まえた上での由良の問いに、明石は首を横に振る。
「ごめん、それはわからない。今は接続を切ってるの」
ああ、そうかと由良は思い出す。
万が一に敵に出くわして、出撃せざるを得なくなった艦娘の音紋など拾おうものなら、それを知らされていない人々は上へ下への大騒ぎになる。
おそらく大量の艦艇と航空機を繰り出して、それが何なのかを意地でも調べようとするだろう。
何せ、この国最大の人口密集地域が近いのだから。
だから今は明石が操る端末に送られてくるデータだけが、得られる情報のすべてになる。
「由良さん」
背後からかけられた声に振り向くと、背中に艤装と呼ばれる大戦期の軍艦の構造物を模した装備を背負った村雨が立っていた。
少し形は違うが、似たようなものをその両手に抱えている。由良の艤装だ。
それは艦娘という存在が、その能力を発揮するために不可欠なものだ。
身につけることで、海面に立ち、滑走し、武器を扱い――軍艦のように戦うことができた。そしてそれは深海棲艦に対して、人類の手の内にある唯一と言っていい対抗手段だ。
由良の準備を手伝いながら村雨が言う。
確かに与えられたデータだけなら、その可能性を考えるのが妥当だ。
十五ノットという速力や、陸地から四十キロほどという沿海域を移動していることがその推測の根拠になる。
けれど何よりも、それが単独で行動しているというのが理由としては一番大きい。
深海棲艦は複数での行動が基本だ。その理由はわからないが、所属艦隊が壊滅したとか、偵察任務の潜水艦という特殊な例を除けば、単独行動というのは一例も報告がない。
その最初の例が今だという可能性もないことはないが、それが相手の本拠地の近くというのはできの悪い冗談にも使えない。
こういった場合には大抵、後続の艦隊がある程度離れた位置に控えていたし、もしそれらがいれば別の手段で捕捉され、もっと前に警告が届いているはずだ。
一方、味方である海上自衛隊も深海棲艦に対しての攻撃に効果がほとんどないとわかってからは、単艦での行動を極力控えていたし、もし通過の予定があれば事前に通告がある。
たとえどちらかに急な任務の変更があった場合でも、それだけは抜かりなく行われるはずだ。
だからこういった突発的な遭遇は、深海棲艦の出現以降、値を上げている魚介を獲ることで一攫千金を狙う無謀な漁船であることが多かった。
「でも、最近は燃料の供給もおぼつかないって、補給担当がぼやいてたけど」
明石の言う通りだ。
先日の輸送作戦が久々の大成功を収めたと大々的に報道していたくらいだから、備蓄量はかなり厳しいはずだ。
そんな状況下で出漁できるだけの燃料を確保するなど、ただの漁船にできることなのだろうか。
そこまで考えたところで、由良はコツンと自分の頭を叩く。
疑念は数限りなく浮かぶが、今はそれにかまけている場合ではない。
「とりあえずは静観。発見されたとしても時間的に余裕はあるはず」
相手が長大な射程を誇る戦艦だとしても、この距離では無視できる程度の砲撃精度にしかならない。
その間に由良たちは速やかに撤退し、あとは自衛隊機の出番。
相手が艦載機であれば、人類の兵器でも充分な効果が得られることは実証済みだ。
「もし護衛艦なら素直にブイの修理中ってことで通すね」
「敵だったら?」
「……言う必要ある?」
村雨の問いに、由良の目が妖しく輝く。
いくら人間らしい日常を送っているとはいえ、秘められている艦娘としての本能がなくなったわけではない。
「そうこなくっちゃねー」
村雨もそれを刺激されたのか、嬉々として操舵室を出て行く。
そんな後ろ姿を見ながら、ぽつりと明石がつぶやく。
当然、艦娘である以上、明石にも艤装はある。
だが、工作艦の役目は他の艦娘たちの破損した艤装の修理だ。自身の戦闘能力など艦載機や小型の船を追い払う程度。
だから、明石は戦うことに関してはあまり積極的ではない。
由良たちはそれを充分に理解していたし、それについて不満などあるわけもない。
それぞれに戦う場所が違うだけのことだ。
「実戦となれば久々ですからね。それにあの子たちも自分が役に立つことを実感したいんですよ」
「そういうものなのかしらねぇ」
「そういうものです。明石さんには面倒をかけてしまいますけど」
場合によっては送り出される側よりも精神的に堪えることもあるだろう。
それを表に出すこともなく、ただ一人でそんな戦場に立つ明石は充分に強い。どんな巨砲でも魚雷でも叶わぬほどに。
由良も、他の艦娘たちもそれを知っている。だからこそ明石を信頼し、尊敬している。
「面倒ついでに、もう一つお願いしてもいいですか?」
「うん?」
「夕張たちにも今のプランを伝えて、待機させてください。私は二人と打ち合わせてきます」
「了解。あんまり無茶しちゃダメよ?」
操舵室を後にする由良の背に、明石の言葉が投げかけられる。
由良は少しだけ顔を横に向け、口元に笑みを浮かべながら軽く頷いてみせた。
提督の執務机に大きな海図が広げられていた。
相模灘を中心としたそれには、百数十に及ぶ緑色の印がつけられている。
それが、この海域に配置された音響ブイの位置を示すものだ。
「足柄、トラブルを起こしたブイはどれだ?」
そう促され、足柄は手元の書類と海図を見比べながら、鉛筆で印を書き込んでいく。
「報告があったのはこの八基ね。ご覧の通りバラけてるし、何かの意図があるようには思えないけど?」
どこか一箇所に集中しているわけでも、隣り合って並んでいるわけでもないそれを示し、提督の懸念が無駄なものだと説明する。
けれど提督の顔からは不信が消えることはない。
「明石の見立てはバッテリーの消耗だったか?」
「ええ、そうよ。実際、交換したら元通り」
設置されたブイの製造番号や製造時期、設置された日時などは、そのすべてが記録されていた。もちろんそれは消耗品である電池に関してもだ。
何か製造上のトラブルが起きれば、同じロットのものには同様のそれが起きる可能性があるからだ。記録しておけば対応が効率化できる。
提督は足柄から手渡されたリストと、トラブルを起こしたブイとを突き合わせてチェックしていく。
「それから、ブイの停止が確認された時刻を海図に書き込んでくれるか?」
「はいはい」
実際に稼働が停止した時間と、データとしてこちらが把握した時間とでは時間差ができる。
二時間ごとに行われる稼働状態の報告が行われなかったことが、今回のトラブルの発覚に繋がったのだから。
それで一体何がわかるのだろうかと思いながらも、指示に従う。
「ロットが違うものが四基混じってるな」
「比較的近いロットならそうも言えるんだけどね」
そう言って提督が指し示したデータを見て、足柄もハッとする。
四基すべてのロットが違う。
これを偶然と呼んでいいのだろうか。
迷いを見せる足柄に、提督はさらなる事実を突きつけてきた。
「この時期、この辺りの海流はこうなっているはずなんだ」
もともと護衛艦乗りであり、横須賀に長く勤務していた提督によって矢印が書き加えられていく。
伊豆から相模灘に向かって進み、大島を迂回するように流れ、房総半島へと抜けていくそれは、トラブルを起こした音響ブイの位置とほぼ重なった。
「これって……」
「敵潜が警戒網の内側に浸透してる可能性がある――深海棲艦の障壁と接触すると、電子機器が異常を起こすらしい。具体的に何がとか、どうしてかと聞かれても困るけど。でも、わからないだけに、電力の異常な消費ってのもあり得る話だろ」
「ちょっと待って。どうやって侵入できるのよ? 外側のブイは生きてるのよ?」
足柄が指摘する通り、何重にも形成された警戒網の外縁部に異常はない。
その海域の海流は陸から大きく離れていく方向に流れているのだから、無音潜航で侵入することなど不可能だ。
だから、侵入するにはどうしても自力で航行するしかない。
そうすれば外縁部のブイに探知されるはずだし、それを防ぐためにはブイの機能を停止させる必要がある。
しかし、現実にはそれが起きていないのだから、提督の言う可能性は成り立たないはずだ。
それこそ、いきなり海の中にでも現れない限りは。
「足柄。大事なことを忘れてるよ」
「大事なこと?」
「二週間前に、この航路を大船団が通過してるんだよ」
その言葉で、足柄はまるで雷にでも打たれたような気分になる。
大きな被害もなく、無事に母港へと向かう大船団。意識していたとしても、どこかに必ず気の緩みはある。
そんな大船団の真下に、まるでコバンザメのように潜水艦が張り付いていたとして、誰が気付くと言うのか。
音響ブイにしても、スクリューの音や多少の雑音など、直上の船団が発するそれに紛れてしまえば判別などできるはずもない。
「輸送船団を通したのはそう言うことってわけ」
ギリっと足柄の奥歯が嫌な音を立てる。
「それだけじゃない。その前の輸送船団の大被害も、対抗して前路哨戒が強化されることも――その上で何も起きなければ、こちらの警戒心が緩むことも全部計算に入れてる」
度重なる輸送船団の被害対策に、艦娘による前路哨戒の強化を上申したのは提督だ。
何度にもわたる説得の結果、ようやく通った計画を逆手に取られた格好なのだから、胸のうちは相当に複雑なはずだ。
「どこからついてきたのかしら」
「南西諸島海域……屋久島あたりか。艦娘の哨戒と音響ブイでの監視とが切り替わるのはその辺りだ」
比較的安価に生産できる音響ブイだが、長大な海岸線のすべてを一度にカバーすることは、現在の資源状況では困難だった。
順次増設されていくことは決定されていたが、必然的に要所を狙っての配置となる。特に大小様々な島で構成される南西諸島海域ではなおさらのことだ。
その穴を埋めているのが、多数の艦娘を擁する佐世保第二基地。
だが、彼女たちとて輸送作戦に駆り出されたのだから、どこかに必ず穴は開く。
「それに、この潜水艦隊を連れてきたのは例の別働隊だ。そう考えれば、あの時間帯にバシー海峡へ接近していた理由にも説明がつく。潜水艦隊を分離したあとは、本来の作戦に加入して赤城隊を粉砕する」
船団が近付いてからでは遅すぎるのだ。そうなってしまえば、艦娘たちが海域の哨戒と掃討を始めてしまう。
「もしその前に別働隊そのものが見つかっても、戦闘中の騒音に紛れて離脱すればいい……今回みたいにね」
戦力の不足のため僅かばかりにできる隙。そこへ潜水艦部隊を展開し、潜ませる必要があった。
「けど、その辺の手口は後回し。まずは敵の意図を探る方が先だ」
「情報収集じゃないの?」
敵の動きを知るには、できる限り早い段階から情報を獲得するのが一番だ。そして、それをやるのであれば相手の根拠地に近い方がいい。
今の状況はまさにそれだし、潜水艦はその手の任務に長けている。
「普通に考えるとそうだ。けど、洋上を航行する何かがいたとして、それを壊すようなヘマをするか? 情報を集めるなら、できる限り長期間存在がバレない方が好都合だろ」
提督の言う通りだ。
気がつかないわけがないだろう。
それがなんなのかは知らなくても、隠密行動を旨とする情報収集任務の最中に、自分の存在を知らせるような行動をするはずがない。
「じゃあ、次の船団を狙うとか?」
「確かに目鼻の先で船団が大打撃を受ける様は、政治的に効果があるだろうね……でもこちらが護衛船団方式をとってる以上、次を待つのは無理がある。向こうの潜水艦がどう言う理屈で動いているのかは知らないが、何がしかの消耗資材はあるだろう? それにブイの破壊はやっぱり余計だ」
数の少ない護衛艦の戦力を有効に活用するには、ある程度の輸送船を揃え、船団を仕立てる方が効率的だ。それには相応の準備期間が必要だったし、そのせいで船団が常にいると言うわけではなかった。
だからこそ、いつ通るかわからないそれを待つと言うのは賭けに近い。
下手をすれば、それらが通る前に自分が燃料切れなどと言う、冗談のような結果さえ起こりかねない。
二度目がない作戦を計画するならば、そういった不確定要素はまず最初に排除される。
「ああ、もう! 私にわかるわけがないじゃない!」
それを理由に何度も秘書艦を降りたいと告げているのだが、提督はそれを一向に受け入れてはくれなかった。
「いいから、思いついたことはなんでも言ってくれ。一人で追求できる可能性には限りがあるんだよ」
「そんなこと言ったって……でも、考えてみたら攻撃が目的なのかしらね。由良たちの特務艇は無事なわけだし」
ブイの移動よりもはるかに騒々しい音を撒き散らしているはずの特務艇には何も起きていない。
移動速度が早く狙いがつけづらいと言う理由もあるかもしれない。
ブイを回収するために停船した位置も、潜んでいる場所から離れていれば手は出せないだろう。
「特務艇に手を出さない……けど、ブイにはダメージを与えた……」
提督はぶつぶつと呟きながら、海図をじっと見つめる。
「でもなあ。やっぱり、停船した時が唯一の狙い目かしら。あの程度の船なら魚雷で木っ端微塵、敵発見の報告を入れる間もないはず」
だが、提督は掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「足柄、今なんて言った?」
「あの程度の船なら魚雷で木っ端――」
「違う、その後だよ」
「ちょっと、何よ……近すぎ……」
あまりに接近してくる顔に、余計な感情が芽生えてしまいそうになる足柄だが、提督にはそれを構う気などないようだ。
「いいから、さっきのをもう一度だ」
「えぇと、確か――敵発見の報告を入れる間もない、よ」
上気した顔の足柄を放置して、提督は再び海図に向き合う。
「この海域を航行する予定の船はあるか? 官民問わず、大きなやつだ」
「……朝の時点では何も聞いてない。聞いてたら由良たちに帰投命令を出してるもの」
「なら、まだ間に合う――即応隊は?」
横須賀第二には軽巡阿武隈を長にした、もう一個の水雷戦隊が残されている。もちろん即応隊の名称の通り、緊急時に備えた待機部隊だ。
「艦娘だけなら五分で出られるわよ」
「いや、あきさめに緊急出港準備を。阿武隈をここに呼んでくれ」
了解の声もそこそこに、足柄は執務室を飛び出した。
『艦長、戦闘指揮所。至急お越しください』
時雨の心の休息は、スピーカーからのそんな音声で終わりを告げた。
艦尾にはためく自衛艦旗を見ながら、そろそろ交換時期かなどとぼやいていた艦長もその声に即座に反応して、艦内へと駆け出す。
「すまないが、海を見る時間は終わりだ。戦闘にでもなったら大変だからね」
「わかったよ。格納庫の扉はどうするんだい?」
「操作盤のスイッチを操作すれば――と言ってもわからないか」
自分の頭を軽く叩いて、艦長は自分で操作に向かう。
時雨が飛び込むと、シャッターはすぐに降り始め、再び薄暗い空間に戻ってしまった。
「私はいかなきゃならんが――」
「うん。僕はまたあそこにいるさ」
だが、艦長は首を横に振る。
「戦術運動をすれば艦が大きく傾く。一応固定はしっかりしているつもりだが、万が一コンテナが動いたら危険だ」
「大丈夫だよ。それにそんな状況になれば、僕が艦内にいても邪魔になるだろうしね」
「それはそうなんだが……」
艦長は何やら考え込む。
「呼び出されてるんだから、早く行かないとまずいんじゃないのかな?」
戦闘指揮所からの呼び出しということは、それなりの事態の可能性があるということでもある。
こんなところで何かを考え込んでいる余裕などないはずだ。
「一緒に来なさい」
「邪魔にならず、安全な場所だよ」
艦長はそう言って、時雨の手を掴み駆け出す。
制止する暇も、抗議をする余裕もなかった。
…………
……
分厚い扉を開けると、そこは薄暗い部屋。
いくつかのモニターが刻一刻と移り変わる状況を表示し、何人もの隊員がそれを見つめながら、手元の端末を操作していく。
ここが護衛艦はづきの頭脳、戦闘指揮所だ。
部外者どころか、乗員ですら許可がなければ立ち入れない場所でもある。
そこに時雨は連れ込まれてしまった。
他の乗員が制止するが、艦長がただ一言。
まさか、座学で基本的な知識を学んでいると言うわけにもいかず、時雨は抵抗することを諦めた。
「それで、状況は?」
自分の席に腰を落ち着けた艦長は即座に問いかける。
「二十四キロ先に所属不明の船舶二隻。停船しているようです」
「こちらからの呼びかけには応答がありません」
電測員と通信員が状況を伝えてくる。
艦長はその間に時雨を隣の席に座らせようとするが、それだけはと固辞し、隣に立った。
「――漁船かと思われますが」
そんな時雨に一瞬だけ視線を向けてから、副長が自分の憶測を艦長に伝える。
「副長。お前はもう少し世間の情報を仕入れる努力をした方がいいな」
「は?」
艦長の言葉を今ひとつ理解できなかった様子で、副長が間の抜けた声を出す。
(護衛艦ですら燃料の確保に不自由しているのに、民間の船にそれができるわけがないじゃないか……)
その話は何も高い地位にいる人間や、時雨のように情報に携わる人間でなければ聞こえないと言うような代物ではない。
少なくとも、ラジオのニュースでも聞いていれば手に入るような、ごくありふれた話だ。
そう言った簡単に手に入る情報の中には、国民を統制するための欺瞞情報も混じっているだろう。
でも、それはこの話には関係がない。
それが本当に燃料不足のためなのか、それとも国が何らかの意図で隠しているからか。
燃料が一般に出回っていないという事実には変わりがないのだから。
(たとえラジオを聴けなくても、輸送作戦の頻度や獲得資源量は大体でもわかる立場にいるんだし、現状はわかりそうなものなんだけど)
気づかれぬようにそっとため息を吐いて、副長を見る。
「そもそも、この海域は音響ブイが設置されている海域だ、と、なればあの船の所属と目的も絞られると思う」
「……通信、護衛艦用の周波数で再度呼び出しを」
艦長の言葉でようやく察した副長が、新たな指示を出す。
モニターのひとつの光を浴びたその顔がはっきりと見え、時雨は面食らう。
若かった。
二十代後半から三十代前半といったところだろう。
「副長、今は間違えることで学んでいけ。自分の艦で間違いを犯さないためにな」
「はっ!」
一礼すると、副長は通信員の席に歩み寄り、やり取りを始める。
その背中を不安げに見つめる時雨に、艦長が言葉をかける。
「彼は艦長になるんだよ、きよづきっていう艦のね。今はその勉強中というわけだ」
護衛艦きよづき。
はづきと同型の護衛艦だ。
一年も前に、艦長以下の指揮要員を含む乗員半数以上を喪う大損害を受け、それからはずっとドックの中だ。
資源が限られている現状では、修理が進むわけもない。
それが時雨の知っている情報だ。
もちろん口に出すことはしないが。
「副長はまだ若い、艦長をやるにはもう少し経験が必要なんだがな……」
艦長もまたその若い指揮官候補の背を見つめて呟く。
「それを待てるような状況でもないんでしょう?」
黙って頷く艦長。
「定年間近の私まで現場に引っ張り出すんだ。いよいよ――かもしれんな」
ポツリと呟いた艦長の声はとても小さく、おそらくは誰にも聞かせたくないものだったのかもしれない。
だが、艦長が思わずそう漏らしてしまうほどに、人員の損耗が激しいのだ。
次代の指揮要員となるべき人材は戦闘で次々と失われ、その過程を見続けることで、現在の要員もまた、心を壊され現場を去っていく。
――深海棲艦は人を喰う。
幾度かの戦いの後に流れた噂は事実だ。
その現場を時雨自身、何度も目撃している。
沈みゆく船から逃れ波間を漂う乗組員を、敵はその巨大な口で次々と攫っていくのだ。
あるものは鋼鉄の顎門に噛み砕かれ、あるものは丸呑みに飲み込まれ――だが、深海棲艦がなぜそうするのか、まだ誰にもわからない。
何にせよ、そんな光景を何度も見せられ、耐えられるほどに、人の心は強くない。
もしかすると、それも敵の狙いなのかもしれないと、時雨は思っている。
「艦長、返答です。横須賀第二所属と言っていますが」
「こちらは横須賀基地所属、護衛艦はづき艦長」
『横須賀第二基地所属、特務艇二号です……とは言っても小型漁船を改装して工具を搭載しただけの代物ですが』
スピーカーを通して流れてきた声が若い女性のものであることに、指揮所内が少しだけざわつく。
横須賀第二はこの周辺海域の防備のために作られた基地で、監視機器の保守管理専門部隊が配置されているというのが、表向きに公開されている情報だ。
前線に出ることのない比較的安全な後方部隊だが、海の上に出てしまえばその限りではない。
艦長にも基地司令にも当たり前に女性がいる世の中ではあるし、それはもはや一般的なこととして浸透してはいたが、それでもやはり若い女性を危険な場所に送り込むことには、本能的な部分で抵抗があるのだろう。
だが、もし艦娘が一般的に認知され戦いの場に身を置いていることを知った時にも、彼らは同じ反応をするのだろうか。
時雨はそんなことを思い、次の瞬間には頭を軽く左右に振る。
これは、随分と意地の悪い問いかけだ。
『その通りです。当船の半径十キロ以内を、もう一基漂流中と思われます』
「それはまた大変だな」
捜索範囲は広大だ。何の目印もないままに、小型のブイを探すのは相当に骨の折れる作業だろう。
だが、それだけの苦労をしてでも維持しなければならないほどに重要なものだ。
この先、相模灘を抜ければすぐに浦賀水道だ。万が一にでも東京湾に侵入されてしまえば、この国の中枢に砲弾の雨が降りそそぐことになる。
『いえ、これが任務ですから。そこで、大変申し訳ないのですが、はづきには十五キロ程沿岸よりを航行していただきたいのです――万が一接触してしまうと、ブイが破損してしまう可能性がありますので』
そうなってしまえば、当然ブイは新しいものと交換だ。
始末書を書かされた上に、しばらく嫌味を言われることになる。
おそらくは指揮所の誰もがそれを想像したのだろう。何とも居心地の悪い顔をして、艦長を見ていた。
その視線を苦笑いで受け止め、艦長は決して不可能ではないそれを提案する。
水上レーダーの感度を調整すればいいのだから、それほど難しいことでもない。
『いえ、お気持ちだけで。そちらのような大型艦が何かをしていれば、敵も気になって仕方がなくなるでしょうから』
艦長が感心したように目を細めてため息を一つ付いた。そっとマイクを塞いでから、時雨に向かって呟く。
「若い割に冷静な判断ができる。彼女はいい指揮官になるぞ」
「そうだね」
彼女の正体を知っている時雨にとっては、それは意外でも何でもない。
声の主は軽巡洋艦娘の由良。駆逐艦娘を率いて敵艦隊の中へと突入していく、切り込み部隊の長だ。必要であれば、部下に自滅覚悟の命令を出すことさえ厭わない。
それが水雷戦隊旗艦というものだ。
だが、スピーカーから聞こえてきた声は、軽やかに、弾むように、冗談を言ってクスクスと笑っていた。
時雨はそれに何とも言えない違和感を覚えた。
「なるほど。勝負に水を差すのは無粋だな。了解した、進路を変更して邪魔にならないように通過させてもらう」
『ありがとうございます』
「そうだ――後でどっちが勝ったか教えてくれ。勝者には何か進呈しよう」
『わかりました、楽しみにしております。それでは』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何とかボロを出さずに済んだと、由良は胸をなでおろした。
横では、明石が珍しいものを見るような目で由良を見ている。
「明石さん?」
「別に嘘を言ってるわけじゃないですよ。事実を言うのにためらう必要なんてないですし」
確かに由良は嘘を言っていない。
幾つかの情報を抜いただけで、あとは本当のことを伝えたのだから、問題になることもないだろう。
「うん、まぁ、そうなんだけど……」
釈然としない顔で明石は何かをつぶやいている。
戦闘が本来の仕事とはいえ、それだって敵との駆け引きの上に成り立つものだ。
相手の考えを読み、欺瞞し、有利な状況を作り出す。
実際に砲火を交えるのはそれから。
だから、駆け引きは部下を率いて戦う立場になれば必要とされる技能だ。
先ほど投下したブイの動作確認のために端末を見ていた明石が、画面上の小さな点を指し示す。
それは由良が視線を向けた瞬間に消え、また現れた。
注視していると、はづきの左舷側、一五〇〇メートル程のところで不定期に明滅を繰り返す。
「これだけじゃ、なんとも」
音響ブイから得られるのは、そこで何か音がしているという事実だけだ。
データベースから切り離された状態では、明石の端末に記録されているわずかなデータとの照合しかできない。
具体的に言えば、それが船であるかどうかがわかる程度だ。
それが何の答えも提示しない。
「音が聴ければわかるかも、ですけど」
圧縮されて送られてくるデータを展開、音声に変換してスピーカーから流す。
ノイズに紛れて、水が流れるような音と鈍い金属音がかすかに聞こえ――
その後に続いた音に由良が反応する。
「はづき! 左舷一五〇〇に突発音! 感六! 魚雷!」
『くそっ! こちらでも確認した! 両舷前進一杯、取舵!』
画面上ではづきが大きく左に進路を変えていく。
魚雷に正対し、その間を抜ける教科書通りの操艦だ。
現代の魚雷と違い、自動追尾式ではない敵の魚雷に対抗するにはこれが最善の策だ。
「雷速四十六ノットに到達! 急いで!」
艦尾方向への二発と艦首への一発はすでに軸線を外れているが、艦中央部へ向かう三発はまだ命中コースに乗っていた。
あと三十秒ほどで最悪の事態になる。
『左舷後進一杯! 右舷そのまま!』
はづきは左右の推進力を変えて、強引に艦の進む方向を捻じ曲げる。
画面を通して見ていることしかできないのがもどかしい。
それは由良だけではなく、横にいる明石も、いつの間にか後ろに来ていた村雨と五月雨も同じだろう。
それぞれが祈るような気持ちで画面を注視している。
『艦中央部に接近中の魚雷、速力低下!』
祈りが通じたのか、無線越しに聞こえてくる声が魚雷のトラブルを告げている。
残るは艦尾へと向かう一発だ。それさえかわせば、あとはなんとでもなる。
『総員、衝撃に備え!』
はづき艦長の声が、その望みが薄いのだと告げる。
画面上で二つの光点が重なった。
無線からはノイズだけが流れ、沈黙する。
少しの間をおいて、スピーカーから流れた鈍い音が最悪の結末を知らせてきた。
金属のひしゃげる音と、わずかな振動。
はづきを襲ったのはそれだけ。予想していたような破壊的な爆発も、艦体を引き裂く断末魔の叫びもなかった。
けれど戦闘指揮所の誰も、自分が生きているという実感は持てなかったはずだ。
おそらくは、何も感じることなく一瞬にして別の世界の入り口に送られたのだと、そう思っている。
だから、静寂が支配していた。
全ての明かりが消え、闇に包まれたそこで耳につくのは自分の呼吸の音。
一つ、二つとそれをするうちに、非常用の電源が立ち上がり、室内を明かりが満たす。
ついで目の前のディスプレイや端末が息を吹き返し、様々なデータを表示していく。
「各部の損害を把握! 応急班は即応待機!」
我に返った艦長の命令に、要員たちがそれぞれの端末に飛びつき職務を再開する。
端末から読み取られたデータや、甲板に上がった乗員たちからの報告が矢継ぎ早に入ってくる。
それが蓄積されていくごとに、噛み締めるべき幸運がまやかしに過ぎないものだと時雨は知った。
「吹っ飛んでいた方が、よほど気楽だったかもな……」
艦長の口から出た言葉に、副長も頷く。
高速で艦尾へと向かい、躱しきれなかった魚雷は不発。
それが磁気信管か触発信管かはわからないが、とにかく何らかのトラブルで爆発しなかった。
その代わりにスクリューを二軸とももぎ取っていた。
機関は生きているが、衝撃か何かのせいで不具合が起き、電力の供給が止まっている。その影響でレーダーや通信機器どころか、兵装のほとんどが使用不能。
はづき自体はそれほど旧い艦ではなかったが、それでも度重なる輸送作戦への参加や資材の不足で整備が滞っているはずだ。ちょっとしたことで、どこかに不具合が起きてもおかしくはない。
逃げることも、戦うこともできない。
魚雷を放った相手にとっては、いかようにでも料理できる獲物が目の前に浮かんでいる格好だ。
この先にあるのは最悪の結末だけ。
「電力の回復を急げ。通信を最優先、続いて火器管制だ」
それでも、艦長にはそれをただ座して待つつもりはないらしい。
通信が回復すれば救援を呼べるし、武器が使用できればそれを待つ時間くらいは稼ぐことができるかもしれない。
たとえ救援が間に合わなくとも、敵に一矢くらいは報いたい。そう考えている様だ。
「手隙の者は全員甲板に出て周囲を警戒。五〇口径にも人をつけろ」
そのためにはまず、周囲の状況を把握して、あわよくば敵を見つけること。電子の目が頼りにならない以上、人間の目を使うしかない。
「ブイの回収と修理の真っ最中ですから。少数なら容易に侵入できるでしょう」
「だろうな。上層部ご自慢の防衛網に意外な弱点か」
艦長と副長がそんな会話をしている。
「ここは護衛艦や輸送船が必ず通る。待ち伏せには最適だしな」
だが、時雨にはそう思うことができなかった。根拠を問われても提示できないほどの漠然としたものではあったが、違和感だけは確実に存在している。
ふと視線を上げて未だディスプレイに表示されている、魚雷のコースや特務艇の位置をじっと見つめる。
「どうした?」
その様子が目に入ったのか、艦長が問いかけてくる。
「……変だ」
「単に攻撃が目的なら、特務艇を見逃す理由がない」
時雨の呟きに、艦長と副長が互いの顔を見合わせる。
「特務艇は小さな船だよ。吃水――海の下にある部分も浅いから、魚雷での攻撃には向かないんだ。船の下を通り過ぎてしまう」
副長が至極まっとうな説明を、おそらくは一般人にもわかりやすくしたつもりでしてくれる。
それは確かに正しい。調整できる深度にも限界はある。
けれど。
「魚雷の信管は触発だけじゃない。磁気感知型もあるし、小型船なら時限信管を使って近くで炸裂させるだけでも致命的な一撃にできるよ」
妙に専門的な言葉が出てきたことで、艦長と副長の表情が複雑なものに変わっていく。
「たとえそうでも特務艇は足が早い。魚雷の回避は――」
副長の反論を最後まで聞くことなく、時雨はそれを否定する。
さすがの副長もその態度に鼻白む。
「じゃあ、なんだっていうんだ?」
きつい口調で時雨の真意を正そうとする。
しかし、それに明確な答えを提示できるわけではない。答えを得るにはまだ情報が不足していた。
これ以上は邪魔になるからと、時雨を戦闘指揮所から出すよう抗議する副長を艦長が押しとどめている。
その間も、時雨は不足する情報を獲得するためにディスプレイを見続ける。
そのうちの一つ。敵からの攻撃と回避という、一連の動きを繰り返し表示するディスプレイが目に止まる。
艦中央部に向かった一発と、最初に躱した艦尾への一発。その航跡に乱れがあった。
「……魚雷は炸薬量を減らしていた」
乱れている魚雷の航跡を指でなぞり、時雨はそれを指摘する。
海中を高速で進む魚雷は、そのバランスが重要だ。
偏りがあると、水流の影響で大きく進路を乱して迷走することがある。
それを防ぐために、訓練用の魚雷には炸薬と同じ重さになるように水を入れたり、コンクリートのバラストを入れて調整するのだ。
「調整が甘かったせいで、バランスを崩して迷走したり、不発を起こしたんだ」
「魚雷の件に関してはそれで理解できる。しかし、それをする理由がわからないな」
そういう艦長の目をまっすぐに見つめ、時雨はさらに推論を述べていく。
「たぶん、敵にとって誤算だったのは、修理に来たのが特務艇だったってこと。特務艇の乗員はどんなに多くても十人に満たない。炸薬量を調整してこれを攻撃、航行不能に追い込んだとしても、救援はヘリコプターで充分――でも、これが護衛艦だったら?」
釣り上げと、後部デッキへ着艦しての移乗を同時に進めたとしても数時間は必要だ。
もちろん、その間にも敵潜はそこに存在し、いつでも攻撃が可能という条件下。そんな猶予があるはずもない。
ならば、行動はたった一つ。
「横須賀から別の護衛艦を呼ぶ……」
副長の呟きに時雨が頷き、さらに最悪のシナリオを続けていく。
「その航路に他の潜水艦を潜ませておけば、救援のために出てきた護衛艦隊を叩けるんだ」
指揮所の全員がその最悪のシナリオを思い浮かべたのだろう。
ゴクリと誰かが唾を飲んだ音がした。
「レーダーやソナーを使って敵を先に見つけて回避することで、船団を守るのが護衛艦の仕事。敵が航空機を使っても、それだけが相手ならば護衛艦の兵装も有効に機能する。直接的な脅威ではなくても目障りな存在――確かに私なら最優先の破壊目標にするな」
続けてもう一つの可能性も提示してくる。
「それに、たとえ壊滅できなくても、首都の近くで護衛艦を喪失するような戦闘が起きれば、それだけで国全体が動揺する。戦闘が起きたというだけでも、護衛艦隊は上層部によって首都防衛にかき集められて、輸送路の維持は難しくなる」
「そういうことだね」
戦闘指揮所内の空気が一層重くなる。
自分たちの命の問題ではなく、国全体が大きな危機に陥ったのだから。
「待ってください。一隻や二隻なら音響ブイの監視を抜けて侵入することもできるでしょうけど、護衛艦隊を叩き潰せるような数がどうやって侵入したんですか?」
副長が最後の希望とばかりに、最も重要な問題を提起する。
防衛網を構築している音響ブイは、何層かのラインを形成している。
今、はづきがいるのはその最も内側にあたる部分だが、そこまではかなりの距離がある上、海流頼みの無音潜航では集団で統制された行動を取るのは難しい。
しかしそのような報告はなく、特務艇が二隻で修理を行っていた。
それこそが緊急性のない、いたって偶発的な事象という判断が行われた証拠でもある。
副長はそう言って、最悪のシナリオにある欠点を突いてきた。
だが。
「簡単だよ。他の船を隠れ蓑にすればいいんだ。この間、それができるだけの大船団がここを通過してるんだ」
「だが、そんなことが――」
「できるよ。君たちがそれを証明した……『こんなところに敵が』『ブイがなければ侵入は容易』そう言ったんだ。それが音響ブイの力を過信して、警戒を緩めていたことの証明だよ。警戒を厳重にしなければならないはずの、単独行動中の護衛艦ですらそうなんだから、船団が同じことを考えていても――ううん、もっと緩んでいただろうね」
時雨の指摘は完全に的を射ていた。
「副長。この子の言う通りだ。我々はソナーすら打たず聴音だけで航行していたんだからね」
「何としても通信を復旧させなきゃならないな」
一刻も早くこの可能性を横須賀に伝え、対応を考えなければならない。
「艦長、モールスを音響ブイ経由で特務艇に送っては?」
そんな副長の思いつきは艦長によって即座に却下される。
「ダメだ。敵は作戦の初期段階が成功したと思っているから静かなんだ。もし作戦が看破されたと知れば、この艦を撃沈するだろう。副長の案を使うのであれば夜を待って、乗員を離艦させた上で、だ」
時計を見る。
昼をわずかに過ぎたところだ。
だが、敵はそれほど長くは待ってくれないだろう。
おそらくは日暮れがタイムリミット。
護衛艦の装備する通常兵器に全く効果がないわけではないし、水圧のかかる海中を主戦場にする潜水艦にとっては、そのわずかなダメージでも致命的なものになりかねない。
「せめて特務艇が近づいてくれれば、発光信号が送れるんだがね」
艦長が祈るように呟く。
この状況を打開する手が、時雨にないわけではない。
艦娘としての力を使えば、敵を沈めてはづきを救うことはできた。
だが、その力を揮うことは許されていない。
「しかし、君は一体何者なんだね?」
艦長が思い出したように、そんな問いを投げてくる。
もちろん、答えることはできない。
だから、あらかじめ用意された偽情報の一つでごまかす。
調査をかければ、時雨に関しての情報は今言った通りのものが吐き出されてくることになっている。
「なるほどな……陸も人手不足なのは変わらんか」
艦娘の存在は機密扱い。
それを破れば、最も害を被るのははづきの乗員たちだ。
どこかに監禁されたり、命を奪われると言うことはない。おそらくは監視付きの状態で、戦力不足に喘ぐ佐世保第二に配置転換だろう。
そして、横須賀第二に配置されている護衛艦あきさめと同じように、艦娘たちを戦場へ運ぶための戦闘輸送艦として使われる。
それはもしかすると乗員たちを今よりも大きな危険へと誘うことになる。少なくともあの佐世保の司令官の下では、いくら命があっても足りることはないはずだ。
情報収集に向かう先が南方であることが多いために、時雨は佐世保に籍を置いていた。情報部付きの艦娘という独特な立ち位置のため、直接関わることはなかったが、それでも司令官がどんな人物かくらいかは知っている。
それでも、時雨には決断を下すことができなかった。
このまま絶望するのと、一度希望を見た後に地獄へ叩き落とされること。果たしてどちらがいいかなど、時雨が勝手に決められるものではないのだから。
(本当に、割り切るっていうのは大変だね)
ただの兵器にはあるはずのない感情という存在。それが枷になっている。
切り捨てようとどれだけ努力しても、自身が思っている以上に強固にまとわり付き、行動を縛り付ける。
「通信、復旧します」
だが、今回の苦労はここまでで終わりだ。少なくとも自分が決断することはなくなった。
内心で胸をなでおろす。
『――応答を! はづき、状況を知らせよ!』
「こちら護衛艦はづき。タチの悪い運命の女神に気に入られた」
艦長はそれに冗談を交えて応答する。
指揮所の一部からは、こんな状況にもかかわらず笑いが漏れた。
そうでもしていなければ、これからの長丁場は耐えられない。
『ああ、よかった! しかし、タチの悪い女神とは?』
「艦尾に被弾したが、不発だったようだ。けれどスクリューを損傷、航行不能。同時に電源を喪失、現在復旧作業中だが、完了するまでは戦闘能力もない」
『冗談にしてはかなりキツイですね……とにかく横須賀第二基地へ救援の手配をします。護衛艦あきさめならば緊急出港可能ですから』
「いや、その件で横須賀第二基地司令と話がしたい。取り次いでくれるか?」
『了解。すぐに繋ぎます』
ノイズが少し大きくなる。艦娘たちとの通信に使う秘話装置を通しているのだろう。
やがてその向こうから声が聞こえてきた。
『こちら横須賀第二基地司令。乗員は無事ですか?』
聞こえてきた若い男の声に、なぜか艦長が席を立ち、同時に指揮所内のあちこちから驚きの声が上がる。
「こちらははづき艦長。音沙汰がないと思えば……そこに座るのは私の方が先のはずなんだがね」
驚きを悟られまいと、艦長はあえて不機嫌な口調で言う。
不穏な言葉だが、決して年功序列を問題にしているのではないようだ。
艦長の表情がそう言っている。
時雨にはわからない何かがこの二人の間にあったのだろう。
「彼は一年前まで、この艦の砲雷長だった人だよ」
時雨は納得した。
一度海に出れば、長い間寝食を共にする乗員の間には、不思議と強固な結束が生まれる。もはや家族のようなものだと表現する者がいるほどに。
幾度もの戦いを共に乗り越えてきたとなれば、それはさらに揺るぎないものになっているだろう。
『譲る気はありませんよ? 話したいことは山ほどありますが、その前に厄介ごとを片付けませんか?』
「そうだな。まずは護衛艦あきさめの出航を待つように進言する」
『そう言うと思ってました。その根拠を聞いてもよろしいですか?』
艦長は時雨の組み立てた推論をそのまま伝えた。
無線の向こうはそれを聞いてしばし沈黙する。その可能性がどれほどのものか考えているのだろう。
無線の向こうの司令官が、冷静な思慮のできる人物であることを。
『……失礼ですが、これは艦長のお考えではありませんね?』
クスクスと笑いながらそう言ってきた。
艦長は不満げな顔をしてから口を開く。
「その通り……まったく、お前さんに隠し事ってのは通じんな。たまたま当艦に乗り合わせた情報部員の推測だよ。今もそばにいる」
『なるほど、ではその方に聞くとしましょうか――もし貴官が敵の立場で、相模灘に潜ませた潜水艦への攻撃が始まったとしたら、どうしますか?』
そう問いかけられ、時雨は迷わず即答する。
「作戦は失敗と判断。僕なら最低限の戦果を獲得するために、まずはづきを撃沈。可能ならば特務艇にも攻撃を加えつつ、防衛網の再構築を妨害。音響ブイを破壊しながら離脱するよ」
控えめで落ち着いた声が、一切の感情を排して最悪のシナリオを読み上げていく。
「忘れているようだから言わせてもらうが、お前さんもだよ」
艦長が苦笑いをしながら言う。
確かに司令官という職についている割には若い声だ。
『それはどうも。とにかく自分も彼女と同意見です。普通の手段では手が出せないと言っていいでしょうね』
「時間稼ぎが精一杯だ。こちらの兵装が復旧すれば、何かしらの手は打てるだろうが」
だが、そう言う艦長にはすでにプランがあるのだ。
乗員を離艦させてから、はづきを囮として使うつもりでいる。兵装の復旧を急がせているのはそのためだ。
それさえあれば、多くの乗員を安全な位置まで逃すだけの時間は作れる可能性があった。
時雨もそれしかないと感じていたし、その際には自分が残るつもりでいた。コンテナの処分を確実に行う必要があったし、艦娘である自分ならばその後でも逃げることは可能だ。
どうやって全員を説得するか。そこが問題なだけだ。
そこを横須賀第二の司令官に伝えることができれば、問題は解決できる。ただ、これだけ人がいてはそれすら難しい。
それに。
『艦長が何をお考えか、だいたいの察しはつきます……ただ、それでは護衛艦一隻と少なくない数の乗員に被害が出ます』
横須賀第二司令が言う通り、それで乗員全てを救うことはできない。決して少ないとは言えない規模の被害が確実に出る。
資源の乏しい現状、護衛艦一隻は貴重だ。そしてそれ以上に人命は取り返しがつかない。
それでも全滅よりはマシだったし、護衛艦隊の壊滅という最悪の事態は、はづきという餌をなくすことで防げるのも確かだった。
どちらを選ぶべきか。
答えなど決まっている。
感情というものが邪魔さえしなければ。
だが。
『実は、こちらはすでに作戦を準備して実行段階にあります――若干の手直しが必要な状況になりましたが、艦長とそこにいる情報部員さんに一つだけ約束をしていただければ、誰も、何も失わずに済みます』
横須賀第二司令は時雨の予想を裏切って、まったく別の答えにたどり着いたらしい。
「……約束とは?」
『今起きていること、これから起こること――はづき乗員は誰も、何も見ていない。そもそも敵潜に襲われてもいない。そういう話です』
横須賀第二司令が何をするつもりなのか。
時雨はその言葉ではっきりと悟った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
部屋に入るなり、執務机に寄りかかって立つ提督の姿を目にした足柄は、その顔がまるでイタズラを思いついた子供のようだと思った。
例によって、いつかの機会に読んだ本にあった表現を思い出し、これに違いないと思っただけだ。
やり取りをしていたはずの無線が沈黙している。
いったい何を話していたというのだろうか。
(だいたい想像はつくけどね)
手にした書類を提督に差し出す。
周辺海域に配置された音響ブイと沿岸監視レーダーの一時停止指令書だ。提督の署名が入れば正式な命令として通達され、効力を発揮する。
指令が実行されれば、浦賀水道、相模湾、駿河湾――関東から東海の一部に至る太平洋沿岸部の警戒網の接続が遮断され、その間はそこで何が起きても、誰もわからない。
――横須賀第二基地、第三種即応訓練のため。
理由として記載されているのはそれだけだ。
実際、三ヶ月前に一度実施している。
だから、この命令は何の疑念も抱かれることなく処理され、艦娘たちには行動の自由が与えられることになる。
姿を見られるなという制限はつくが。
『短期間なら確約できるが、長くは無理だ。絶対に漏れる』
はづき艦長の声が無線から響く。
それを聞いて、足柄は自分の推測が間違っていないことを確信する。
相当に難しい決断だろう。
人の口に戸を立てることはできないと、昔から言うのだから。
「それで充分です。少しお待ちください」
それはいたって何事もなく、ごく当たり前のように、何の気負いもなく行われた。
無線の向こうとこちらでは、まったく対称的に物事が決められている。
足柄はそれに少しだけ嫌悪感を感じた。
きっと過去にも繰り返されてきたのであろうそれは、実際に現場に出ている者にとっては、あまりにも残酷な現実だ。
だが、提督にそれを言うつもりはない。
根は優しい人だ。それを指摘してしまえば、命令を下すことができなくなってしまう。
何よりも、本人はすでに知っているはずだ。知った上で抱え込んでいるだけ。
それが司令官職というものだ。
「なぁ、足柄。止めるならここが最後だ――もし失敗すれば、間違いなく俺とお前は南の海で深海棲艦の餌になる」
もちろん答えなど決まっている。
「私はあなたの秘書艦。間違えていない限りその決定に従う。そして、あなたのやりたいことは間違ってないと思ってる。だからどこまでもついて行く――たとえ行きつく先が地獄の果てでも、海の底でもよ」
寂しそうな笑みを浮かべる提督。
できることなら巻き込みたくないと思っているのだろう。
だから。
「これは私が決めたことだから文句は言わせない。それにね、あなたと居ると退屈しないの」
そう言って提督の手から書類を奪い取る。
「それ、どう言う意味だよ。まったく……毎度、秘書艦降りたいって言ってるくせに」
「うるさい。それを拒否したのはあなたなんだから、責任はきっちり取りなさいな」
観念した様子で、提督は通信機を取り上げる。
「由良、夕張。特務艇ではづきに向かえ。七〇〇〇でエンジン停止、指示があるまで惰性で進め。可能な限りはづきを挟むような形でだ」
『由良、夕張、了解。指定位置まで三十分です』
「阿武隈、事前の打ち合わせ通り駆逐っ子たちとヘリで相模灘に展開。タイミングを合わせて敵潜を駆逐しろ。数は不明だが一隻も逃すな」
『了解しました! ご期待に応えてみせます!』
次々と出されて行く指示に、艦娘たちが弾むような声で応答する。
ここまで本格的な作戦行動をしたのは、いったいどれくらい前だろうか。
それぞれが、久々に艦娘としての本能を呼び起こされ、奮起しているに違いない。
足柄はその場に立てないことを悔やむ。
けれど、潜水艦が相手ではそれを発揮することなどできないのだから、ここに残るのは当たり前のこと。
後方待機をしているのは性に合わないが、この場合は仕方がない。
そんな足柄の気持ちを見透かしたのか、提督が言う。
「足柄、艤装を持ってあきさめに乗れ。俺もすぐに行く」
「でも潜水艦が相手じゃ……」
「おいおい、東京湾に突っ込む予定の敵の水上艦隊がいる可能性だってあるんだ。そうなれば、夜戦になるからそのつもりでいろ」
「あ――了解」
自分の力を揮う機会が来るかもしれない。
飛び上がりそうなほどに弾む気持ちを抑え、いつもと変わらぬ調子の声で答える。
どうやら見透かされていたわけでも、気持ちを抑えきれていなかったわけでもないらしい。
苦笑いとともにその事実を告げられ、一瞬で顔が赤くなるのを感じる。
「……隠し事は苦手なの! だから、秘書艦は嫌だって言ってるのよ!」
照れ隠しに少々きつい口調で吐き捨てて、頬を膨らませながら部屋を後にする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『横須賀第二よりはづき。状況はいかがですか?』
二十分ほどの沈黙を破ったのは、無線からのそんな一言だ。
その間に、艦内の応急班は損傷箇所の特定を終え、処置に取り掛かっている。
「今しがたいくつかの兵装が復旧して、システムのチェック中だ。戦闘は可能だろう」
とは言っても、深海棲艦に対して有効な兵装は艦首の単装速射砲と高性能対空機関砲、それと五〇口径の機関銃くらいなもので、それらは相手が海面に姿を見せていなければ意味がない。
それに現代戦の花形、護衛艦の主力である誘導装置搭載の兵器群は深海棲艦には通用しない。
それがどういう理屈かはわからないが、一定の距離まで近づくと誤作動を起こし、あらぬ方向へ飛び去るか自爆して終わりだ。
実質的に護衛艦の攻撃能力など、深海棲艦相手には無力だと言う他はない。
「武器が役に立つかどうかは別だがね」
艦長の言葉はそれを皮肉るものだ。
実際、護衛艦の仕事は高性能な探索装置とヘリコプターを駆使して、敵をいち早く見つけ、回避すること。
砲火を交えるのは、避けられない相手から輸送船団を守るための囮となった時くらいなものだ。
『砲戦は別の機会にしましょう。必要なのはソナーと投射式ジャマー、自走式デコイ――それからIRフレアです。使えますか?』
それを聞いた副長が首を横に振る。
投射式ジャマーはロケットで一〇〇〇メートルほど離れた位置へ飛翔し、着水後は大音響を数分間海中に流す――簡単に言ってしまえば、スピーカーを海の中に放り投げるようなものだ。
この装置自体に移動する機能はないし、攻撃的な機能もない。あくまでも音響探知式魚雷を回避するための防御用兵器。
そもそも、先ほど横須賀第二司令によって列挙されたものは、どれもが防御用のものだ。
そんなもので一体何をするつもりなのだろうか。
「だそうだ。海に放り投げて使うことはできるかも知れん」
『いえ。ある程度距離を取らないと逆に危険です――特務艇はたどり着けないだろうしな……デコイで代用するか』
描いていた計画の変更をさらに求められる結果になり、無線の向こう側で何やら呟いている。
彼が考えていることが自分の想像通りならば、ここが出番かも知れないと時雨は思った。
ただ、それには少しばかり情報が不足している。
『大きさ重さは五インチ砲弾程度、コムボートでも運べる。その手を考えなかったわけじゃないけど、設置したあとすぐにそこを離れなければ攻撃を受ける可能性があるんだよ』
はづきから一〇〇〇メートル離れた位置となれば、場合によっては敵潜の方が近いかもしれない。そうなれば当然戦闘の只中になる上、飛来する機関砲弾や至近弾の爆風ですら、小型の船艇には致命的な一撃だ。
敵にとっては砲弾を使うまでもない相手。体当たりで充分だろう。
「そういうことか……うん、それならなおさら僕がやるべきだね」
なんでもないことを決めるように、さらりと時雨は言ってのけた。
ここが出番だと確信したからだ。
『下手をしたら死ぬぞ?』
「これから横須賀第二がやることは、誰も見ていない、何も起きていない――そうだよね?」
『ああ』
『意味がわからないが?』
「僕は時雨。白露型二番艦の時雨だよ」
『……なるほどね。艦長、ボートとジャマーの用意を。その子にジャマーの設置をやってもらいます』
はづき艦長には事態が飲み込めないようだ。
だがそれが当たり前だ。
艦娘の存在は、ごく限られた一部にしか知らされていないのだから。
『艦長、はづきは最高についてますよ。何しろ、あの”佐世保の時雨”が乗っているんですから』
時雨自身、その謳い文句を久々に聞いた気がする。
ただ、ここで持ち出す話ではないだろうとも思う。
思わず苦笑い。
今は彼のようにいい方向に考えるべきなのだ。
そもそもはづき自身、何度もの戦いを乗り越えてきた艦だ。
そして自分を含め、状況を変えられる手札が揃ってもいる。
だから、この場で幸運を引き寄せているのは、きっとはづきだ。
問題はない。
「艦に艦が乗ってる? 何を言ってるんだ?」
横須賀第二司令の一言は、艦長の混乱を余計に増幅させただけのようだった。
時雨はそれを横目に、後部デッキへと向かう。
今回は全員を救ってみせる。
そう、心に決めて。
何艘もの小型ボートが海面を静かに進んでいた。
隊列も速度もバラバラのまま進むその群れからは、小型のエンジンの音だけが洋上に響いている。おそらくそれは海中にも聞こえているだろう。
時雨はその中の一艘に、砲弾のような形をした投射型ジャマーとともに乗り込んでいる。
そのほかのボートに人影はない。
舵と速度を固定され、意思もなくまっすぐに突き進むだけだ。
『いいか時雨。できるだけ、はづきから離れた位置にジャマーを降ろせ』
念を押すように、無線の向こうから横須賀司令の声が聞こえる。
「うん、わかってる。陸を目指すふりをすればいいんだね」
『その通りだ』
ボートの群れは囮だ。
だから乗員の脱出と判断するだろう。
『敵は確実に陸よりにいる。狙うのは先頭の船だろうが、気は抜くな』
横須賀司令が無線の向こうで断言する。
敵の狙いはあくまでもはづきの乗員をこの場に留め置くこと。そうすることによって救援艦隊の出撃を促し、別に潜んでいる潜水艦がそれらを撃沈するつもりでいる。
それを忠実に実行するならば、はづき乗員の脱出は絶対に阻止しなければならない。
だから、先頭を走る船を沈めることで、それを目撃した後続が引き返すことを狙ってくるはずだ。
『大丈夫ですよ、提督。先ほどの音はこっちの端末に登録しておいたから、攻撃の予兆はつかめますって』
音響ブイにかかりきりのはずの明石の声が割って入る。
作戦の要の一つだという自覚のせいか、言葉の割には声が少し硬い。
音響ブイからのデータも使って、三角測量の要領で位置を割り出さなければ、決定的な一撃を叩き込むことはできない。時雨たち艦娘の使う唯一の対潜兵器である爆雷は、それほど効果範囲が広いものではないのだから。
『明石、聞きもらすなよ?』
万が一にでも討ち漏らせば、この後に待っているはづきの曳航作業が難しいものになる。
提督の言葉はそれを明石に言い聞かせるものだ。
『任せてください――っていうか、性能に関しては私じゃなくて、メーカーに言ってもらえます?』
重圧から逃れようと軽口を叩いてみせる明石。
『それもそうだな……後でレポートあげとけ』
提督もそれを察したのか、さらに冗談めかした口調で返す。
『ええっ!? それも私の仕事なんですか!?』
『……後で工廠にどうぞ。みっちり仕込んで差し上げます』
戦いを前に、なんとも間の抜けた会話が繰り広げられる。
聞いているものは皆、苦笑いをしているに違いない。
『気が向いたらな。こう見えても色々と忙しいんだよ――艦娘の検査なら立ち会いたいけどな』
『また、そんな事言って……結局提督さんは、艦娘にイタズラしたいだけじゃないですか』
由良がさらに割って入る。
『ちょっ――人聞きの悪いことを言うな。はづきの乗員も聞いてるんだぞ? それにあれはスキンシップの一環だ』
慌てる横須賀司令の声に、クスクスと笑う声がいくつも重なる。
時雨が横須賀第二から異動して三年ほど。
これはきっと良い方向の変化なのだろう。
自身の張り詰めていた緊張の糸が適度に緩むのを感じ、時雨はそう思った。
『おしゃべりはここまで。発射管注水音を探知』
明石の声で、空気が一気に締まる。
『時雨、行け。作動は合図を待つように』
「了解」
その数少ない言葉が終わるよりも早く、時雨はジャマーを抱いたまま海へと飛び降りる。
その様子を、おそらくは見ていたであろうはづき乗員たちは、心臓が止まるような思いをしているはずだ。救命胴衣もつけないまま、背中に大きな荷物を背負った少女が海の真ん中に身を躍らせたのだから。
いくらジャマー自体に浮力があるとはいえ、到底支えきれるものではない。普通に考えれば海の底へまっしぐら。
水柱が上がり、時雨の姿がかき消える。
けれど。
タービンの唸る低い音が聞こえ、徐々に晴れていく水煙の向こうに人影が見える。
「機関正常――」
時雨の囁くような声が聞こえてくる。
やがて水煙が晴れると、そこには時雨の姿があった。
髪も服も濡れておらず、何事もなかったかのように、まるでそこは元から地面だったとでも言うように二本の足で立ち、二度、三度と踏みしめて、その感触を確かめている。
そして、その周囲を覆うように、僅かばかりに色のついた――不規則に色を変える、まるでシャボン玉のような半球体が現れ、空間が少しばかり歪んで見えた。
それが障壁と呼ばれる、艦娘たちにとっての装甲だ。
その時雨の言葉が作戦開始の合図になった。
『はづき、アクティブソナーを発信。探知後即座にデコイを射出してください。明石は音響ブイからのデータをはづきに送信。解析後のデータは共有』
データの解析は明石の手元にある端末でも可能だったが、はづきに搭載されているシステムは専用に設計されているだけに、処理速度に大きな差がある。
戦闘の最中ではその差が命運をはっきりと分けるし、何よりも得られたデータを共有する能力に関しては、深海棲艦対策として改修を繰り返し、本当の意味でのミニ・イージスと呼ばれるほどの性能を持つに至ったはづきに分があった。
『はづきCIC、アクティブ用意……発信』
海中を甲高い音が駆け抜ける。
数千メートルを伝わるその音波は、海中にある物体に反射して、エコーとしてはづきに返っていく。
その角度や方向を解析し、即座にその物体に関する情報がはじき出されていく。
もちろん音波の反射は特定の方向だけに向かうものではないから、拡散した反射波を付近に設置された音響ブイも拾う。
『はづきCIC、コンタクト! 方位三四六、距離一八〇〇、深度二十! 続いてデコイ射出!』
報告と同時に、はづきの右舷から魚雷のような形をしたデコイが発射される。
それは護衛艦のスクリュー音を真似た音波を撒き散らす囮。本来は追尾してくる音響探知魚雷を回避するためのものだ。
『時雨、ジャマーを作動させろ』
横須賀司令の静かな声を合図に、時雨は抱きかかえていたジャマーの電源を入れて海上に投棄。着水すると同時に、海中へ様々なノイズを混ぜ合わせた大音響が響き渡り、はづきの放つ音も、デコイの音も埋もれてしまう。
ノイズを分離して求めている音を探し出すには、高性能なコンピューターを使ってもそれなりの時間が必要になる。
そんなものを持たない敵が得た情報は、ノイズが入る前に短時間だけ聞こえた、デコイが放つスクリュー音と位置、移動方向だけのはずだ。
だから、次に敵が取れる手段は潜望鏡深度まで浮上し、目視で確認すること以外にない。
もちろん、横須賀司令はそれも計算に入れていた。
指示に従い、はづきの艦橋後部にある発射筒から、高温で燃焼する金属塊が発射される。本来は熱探知ミサイルを回避するために使われるものだが、同時に多量の煙も生じさせる。その濃密さは数メートル先が見えなくなるほどだ。
さらに、はづきの左右から特務艇二隻が煙幕を展開しながら接近していくことで、長さ五〇〇〇メートルほどに渡って視界を遮ってしまう。
これでは、視覚でも情報を取得することは困難だ。
『由良。やることはわかってるな?』
『もちろんです』
夕張と明石の操る特務艇が交差するあたりで、その二人を除いたすべての艦娘が海面に飛び降りた。
春雨と五月雨はその場に留まり、万が一に備えてはづきを護衛。残りは由良を先頭にして、村雨、夕立の順に並んで敵潜が探知された位置へと向かう。
特務艇の音も艦娘たちの音も、すべてがジャマーによってかき消されているのだから、遠慮する必要もない。揃って最大戦速でまっすぐに海面を突っ走る。
『由良より提督さん。水雷戦隊の展開完了、対潜戦闘を開始します』
そのやり取りを聞きつつ、ゆっくりとジャマーの側を離れ、由良隊との合流に備えていた時雨の視界の端に、嫌なものが見えた気がした。
もう一度。
今度はしっかりと視線を向けた先に、五つの白い航跡が見えた。一定ではないが、ある程度の間隔を保ち、横並びに海中を進んでいる。
潜水艦にとって、最大の武器となる魚雷だ。
それが由良たちに向かって伸びていこうとしている。
けれど、それは敵が犯した致命的な間違いだ。
おそらくは状況を確認するべく潜望鏡深度まで浮上したのだろう。そこで自分に向かってくる艦娘の姿を見て慌てたのだ。
魚雷の間隔は乱れていたし、回避先を覆うような扇状の射線でもないのがその証拠。
この状況下では、何もせずに深く潜って身をひそめるべきだった。
魚雷を放ったことで、己の位置を晒し、逃走するための時間をも無駄にしたことになる。
『雷跡確認。どうせ苦し紛れだから無視する』
由良はそう言って、まっすぐに突き進んでいく。
けれど。
「由良さんたちはそのまま進んで」
時雨はそう言って、その射線に交錯する進路をとって加速する。
『時雨ちゃん!?』
その行動を見た由良がその意を図りかねて叫ぶ。
何もせずとも由良たちはこの攻撃を回避できるからだ。
あっ、と無線の向こうで由良が息を飲むのがわかった。
自分たちの後方に、身動きが取れないはづきがいる可能性に気付いたのだ。
惰性や海流で移動したはづきの位置は煙幕の向こうでわからない。可能性は低いが、当たらないとも言い切れなかった。
そうなった時、五本の魚雷を春雨と五月雨の二人で対処するのは難しい。はづきとの距離もそれほど離れているわけではないのだから。
(三本……できれば四本はここで止めなきゃ、ね)
全速力で射線の前に躍り出た時雨は、背中の艤装から小さな容器を連続で投下し、そのまま突き抜ける。
魚雷が時雨の残した航跡と重なる直前。
鈍い炸裂音が海中に響き、海面が盛り上がり、続けて一度くぼむ。
そして、次の瞬間に大きな水柱が屹立する。
時雨の目はそれを見ていない。
見ているのは海中に刻まれる航跡だ。
沸き立った海面を抜けた先に、まだ二本の航跡が見える。
『すごいっぽい!』
夕立が何かのアトラクションでも見ているかのような感想を漏らして、はしゃいでいるのが目に入った。
すでに時雨は舵を切り返して、魚雷の進行方向にもう一度割り込みをかけている。
機関を限界まで回して、目一杯にまで加速。
背中の艤装からは悲鳴のような甲高い音が聞こえている。この状態を長く続ければ機関が破損して、航行不能になる可能性もあった。
それが万が一魚雷の射線の上で起きたなら、時雨の命運はそこで尽きる。
それならそれで、はづきへ向かう魚雷が一本減るだけ。その程度の考えでしかない。
すれ違いざまに、由良と村雨が引きつった顔をしているのが見えた。時雨のやっていることが相当の無茶だと理解しているのだろう。
「由良さんたちはそのまま敵潜に」
時雨の真似をしようと、爆雷の準備を始めた二人を制して、再び爆雷を投下する。
敵潜を確実に沈めるために、由良隊は爆雷の無駄な消費を抑えるべきだ。
それに。
もう一度天を衝くような水柱が上がり、航跡の一つがそこで断たれた。
残ったもう一本を追うことは流石に無理だ。
けれど、その先には春雨と五月雨が待ち構え、時雨がやって見せたのと同じ方法で爆雷を投下していく。
そちらを最後まで見ることなく、時雨は先ほど投棄したジャマーに向かう。
「時雨より各員。ジャマーを回収するよ」
予定より早いが問題はない。作戦上はもう用済みだ。
作動時間が数分とはいえ、敵潜を探すにはむしろ邪魔になるだろう。
敵には動力を使って逃げる以外の方法はないし、それを探すのであれば静かな海の方が好都合だ。
由良たちなら、それほど時間もかけずにやってのけるだろうし、もう自分の出番もない。
同じことを思ったのだろう。特務艇に乗った明石と夕張が、ボートの群れの回収に動き始めているのが見える。
爆雷の炸裂音が響く中、時雨はジャマーを拾い上げ電源を静かに切った。
それは敵潜に最期を宣告するものであり、それを執行するスイッチだ。
相手がこれをどう捉えたかなど、時雨の預かり知るところではない。
だが、それは確実に訪れる。
くるりと身を翻して、時雨もボートの回収に向かった。
戦闘終了から一時間が過ぎたころ、護衛艦はづきの上空にヘリコプターが飛来した。
周囲をくるりと二周ばかりして状況を確認しながら、はづきへの着艦許可を取り付けたそれは、ゆっくりと後部甲板へその身を降ろす。
機体が安定したのを見計らって後部のドアが開き、人が降りてくる。
まずは横須賀第二司令。
その後ろには、長い髪をダウンウォッシュの手荒い洗礼でもみくちゃにされながら、大層不満げな顔つきで秘書艦の足柄が続く。
二人がある程度離れたのを確認すると、ヘリは再び出力を上げて空へと戻っていく。この後はそのまま東側の海域の哨戒をしながら、横須賀第二司令を待つことになっている。
「ご無沙汰しておりました」
格納庫から近づいてくる人影を見つけ、横須賀第二司令は直立不動で敬礼をする。
なぜか、足柄も反射的にそれに倣っていた。
艦娘は協力員という立場なのだから、その義務はない。
「おいおい……階級は同じ、役職はそっちが上だぞ」
苦笑いをして皮肉を言うのは、その敬礼を送られたはづき艦長だ。
「染み付いた癖というのは、なかなか抜けないものですよ」
組織の都合で一気に階級を登りつめ『させられた』のだから、こればかりは仕方がない。
実際にはもっと時間をかけて登っていくはずのものであり、それにまつわる様々な儀礼を覚えていくものだ。
「まぁ、年齢は艦長の方が上ですし、これでいいんじゃないですか?」
「敬礼の順番を譲るくらいで若返れるなら、私は若さを選ぶぞ?」
「それこそ譲るつもりはありません」
互いに冗談を言い、大笑いをしてそれで終わり。そこには彼らを縛り付ける権威などない。
互いを尊敬する気持ちがあれば、物事はそれなりに上手く進むものだ。
権力というものが必要になるのは、どちらかにその気持ちが欠けている時になる。
にこやかに繰り広げられる会話が、時雨には少し羨ましかった。
「久しぶりね、時雨。まさかこの艦に乗っているとは思わなかったわ」
横合いからかかった声にそちらを振り向けば、いつの間にか足柄が立っていた。
一見するとにこやかな雰囲気を漂わせているが、瞳の奥は決して油断をしていない。
明らかに時雨を警戒し、値踏みをしている。
自分の関わっている組織のことを考えると、そういう判断が当然だし、仕方のないことだ。
表向きには情報の取得と精査を持って国に貢献している情報部とはいえ、その裏では、それ以上に汚い仕事もこなしているのだから。
「あれのせいさ」
そう言って、時雨はヘリ格納庫を占拠している二本のコンテナに視線を投げる。
時雨に与えられた命令は、このコンテナに収められたものを横須賀基地まで届けることだ。
中身は試作新兵器だという噂だが、本当はわからない。
少なくとも、情報保全のための監視という任務が与えられるほどのものが入っていることだけは間違いない。それは情報部にとってはごく当たり前の任務の一つだ。
けれど、それはあくまでも表向き。
「積荷の監視、ね……本当かしら?」
だから、秘書艦という立場上、組織内の裏事情にも通じている足柄は、その任務をあからさまに疑っているようだ。
口調は穏やかだが、視線は鋭さを増している。今にも時雨を射抜いてしまうのではないかと思えるほどに。
「積荷の監視くらいなら、艦娘にやらせる必要なんてないと思うけど」
足柄の指摘はもっともだ。
ただし、それができるのは艦娘という存在を知っているからだ。
上層部は横須賀第二に何も伝えなかった。
本来であれば、事前に航行する事を伝える決まりがあるにもかかわらず、だ。
恐らくは、それを知った横須賀第二の司令官が何かをすると考えたから。彼はその程度には組織内で疎まれているということでもある。
結果として、稚拙な隠蔽工作が事態を複雑化し、無用の危機を招き寄せた。
そして、上層部が最も警戒する人間に情報を与えることになる。
その事実を、隠蔽した側が知ることもなく。
時雨はあっさりと足柄の考えを肯定する。
隠しようなどないのだから、これ以上事態を複雑にして、自分の立場を危うくすることだけは避けたい。
艦娘として戦うとなれば、横須賀第二や足柄とも肩を並べることもあるだろうから。
その時に信頼を得られないのは、色々と問題になる。
けれど。
「そうね……でも、それだけじゃないでしょう?」
足柄はさらに一歩先まで見通していた。
その命令こそが、情報部という組織の裏の顔を最も体現したものだろう。
自分以外のものに知られれば、確実に関係が悪化する内容だ。何より時雨自身が、その命令を実行することだけは避けたいと思うほどに。
「――何がだい?」
ようやくひねり出した言葉がこれでは、ますます状況が悪化するだけじゃないかと、時雨は自分に失望する。
こんな時くらい、多少感情が表に出てもいいじゃないかとも思う。
しかし、それは無駄だ。
情報部は時雨のそんな部分を見込んで囲っているのだから。
「命令。他にもあったんじゃないのかしらね」
思った通りの言葉を足柄が放つ。
もはや隠し通すことも、シラを切ることもできはしない。
ただ、この事実をこの場で告げることだけは何としても避けたかった。
「足柄、そのくらいにしてやれ。時雨なりに気を使ってるんだよ」
助け船は横合いから突然にやってきた。
艦長との談笑を終えた横須賀第二司令が、時雨と足柄の間に立つ。
「時雨も、はづき関係者に気を使ってるなら無用だよ。艦長もすぐにわかってくれる。そのくらいの度量がなきゃ、艦長なんてやってないよ」
ちらりと視線を向けた時雨に、大きく頷いてみせる艦長。
その表情には時雨の葛藤を知って、それを労うような優しさが混じっていた。
覚悟を決めて口を開く。
「――不測の事態が起きた場合は、どんな手を使っても確実にコンテナを破壊処分しろ。それが命令だよ」
その言葉で、三人の顔に納得の表情が浮かぶ。
「深海棲艦――サイズから考えると駆逐艦クラスだろうな」
「うん。それ以外に考えられないと思う」
横須賀第二司令の言葉を肯定する。
「しかし、それならば陸送の方が確実だと思うがね」
確かに艦長の言う通り、敵と遭遇するリスクのある海路よりは、内陸を通った方が確実に目的に送り届けることができる。
けれど事はそれほど簡単でもない。
横須賀第二司令がそれを説明する。
「我々は敵のことを何も知りません。何度か経験した戦いにおいても、砲弾をありったけブチ込んで、敵を蜂の巣にした後、それがゆっくりと沈んでいくのを見たことがあるだけです」
そこで一旦言葉を区切り、広い海原に視線を移す。
海上、海中、空。様々な手段で襲いかかってくる多数の敵と交戦し、同時に多くの輸送船を護衛しながら、沈み行く敵をサンプルとして鹵獲する。
そんなことが現実に実行できるかなど考えるまでもない。
だからこそ、これまで人類は敵に関する基本的な知識すら獲得できていないのだ。
「そんなものを陸路で運んでいる時に、万が一にでも息を吹き返したらどうなると思いますか?」
それは悪夢だ。手の打ちようがない。
艦娘たちは海の上にいなければ、その能力を発揮する事はできない。
主砲や魚雷を撃てる事は撃てる。ただ、それが本来持っているはずの威力を発揮させるには、障壁の作る空間を通さなければならない。
そして、その障壁を作り出せるのは海の上だけ。
そんな艦娘たちと深海棲艦が同じ制約の下にあるなど、誰が言い切れるのか。
それが本当だとすれば、陸上――海から遠く離れた内陸部で活動する敵に対して、時雨たち艦娘は何もできないことになる。
「だから海路を使うしかないんです」
艦長に対して、艦娘の能力に関する簡単な説明をした後、全員の想像がそこに至る時間を待ってから、横須賀第二司令はさらに話を続けていく。
「海の上であれば万が一そう言う事態になっても、船の燃料や弾薬を誘爆させれば駆逐艦娘一人でも、確実に敵を破壊できます。この場合、輸送船を使えばそのあとが色々と面倒なことになりますけどね」
「それで護衛艦か……」
「ええ。護衛艦ならば作戦行動中に敵と接触、勇戦するも武運拙く……なんてストーリーが使えますから。危険な作戦を内密に実行していた証拠も隠滅できて、上層部も安泰。これを教訓に以降の作戦を立案する」
「無茶苦茶だな」
二五〇人からなる護衛艦の乗組員を使い捨ての道具と考える作戦を評するには、艦長のその言葉はかなり控えめな表現だ。
実のところ、組織の枠に収まっている横須賀第二司令と艦長には、それ以外の言葉が思いつかなかったのかもしれない。
吐き捨てるように言った、足柄のその言葉が適切だろう。
「俺としては、そこまでやらなければならないくらいに切羽詰まったんだと思うことにしたいね。じゃなければ……」
横須賀第二司令はそこで口をつぐんだ。
そのあとに続く言葉は誰にもわからない。きっと永遠の謎になるだろう。
そして、それは知らなくてもいいことだ。
「とにかく。この状況は現場の我々としても、あまり愉快ではないな」
「ええ。そこで一つ、状況を変えてやろうかと思います」
艦長の言葉に横須賀第二司令がニヤリと笑って返す。
その笑みはとても危険で――そして、不思議なことに魅力的な輝きがある。
「しかし、デコイやIRフレアはどうするね?」
時雨が回収したジャマーに関しては、ものがそこにある以上いくらでもごまかしが効く。
けれど一度発射してしまったデコイがどこにあるかは不明だ。動力が切れた時点で、おそらくは海底に沈んでいるに違いない。
IRフレアに至っては、燃えて煙になってしまっている。
当然これらの不足は整備の段階で発覚するし、何かがあったと言うことは間違いなく伝わるだろう。
補給を受けるにしても決済がいるのだから、隠しようがない。
「それらは護衛艦あきさめから補充します。どのみち相模灘で対潜戦闘をしているので、使っていてもおかしくないものです。これらを頻繁に消耗している有事の最中にロット番号までチェックもしないでしょうから」
「了解した。しかし、隠すにしてもそんな長期間は無理だ……あんなのを見せられて口を噤んでいられるほど、乗員たちも大人しくはない」
護衛艦乗りたちは、苦戦し、仲間を喪いながら戦い続けてきている。
一昔前ならば、海上を滑走する人型兵器の話など、アニメか漫画の見過ぎだと一笑に付されただろう。けれど、深海棲艦という現実離れした存在が現実に猛威を振るい、それを相手取っている今ならば話は別だ。
一度この手の話が出れば、間違いなくあっという間に組織内に伝わっていく。
「噂は必ず広がるものです。むしろ広めていただきたい」
「なら、なぜ今ではダメなんだ?」
「情報部が保全に動きます。噂の出所を探して、我々横須賀第二と、我々と接触があったところから調査に入ります。今、噂が広がれば、この海域にいたはづきも間違いなくその対象になります、いくら当人たちが否定したとしても」
横須賀第二司令の狙いが時雨にはよくわかった。
時間が開けば開くほど、情報部が辿るべき可能性は増え、調査に時間がかかる。
その間に噂は組織内に行き渡っているだろう。
これを打ち消すには偽の情報を作って流すしかないが、それ自身扱いがとても難しい。
公式見解を持ってこれら一切を否定するという光景はよくあるが、大抵の場合には逆効果にしかならない。単なる噂に対して必死になる様は、わざわざ信頼性を裏打ちしてやるようなものだ。
「でも、横須賀第二にも情報部の関係者がいるかもしれない」
時雨の指摘に横須賀第二司令が頷く。
「陸に上がればその可能性はある。けど、この状況を知っているのはあきさめの乗員だけだし、彼らの素性は把握している。それに彼ら自身も犠牲を払い続けているんだ。手を貸そうという気になるわけがないだろうね」
「なるほどね。それなら大丈夫かもしれない」
納得した時雨とは違い、怪訝な顔をしたままのはづき艦長。
「情報部が動いて何か問題があるのか? それにあきさめの連中が犠牲というのは?」
その問いに答えるのは横須賀第二司令ではなく、その視線を投げかけられた時雨だ。
情報部の一員として、ある程度の事情には通じているのだから。
時雨はそこで言葉を切って、首を横に振る。
「我々は戦闘員ですからね。消えた理由は民間人よりも作りやすいんです」
という横須賀第二司令の言葉に。
「まさかそこまでは……」
言いかけた艦長の言葉がそこで途切れる。
自分たちの乗っていた護衛艦に対する撃沈許可が出ていたことを思い出したのだろう。
否定する言葉を続けることができなくなり、ただ唇を噛む。
「最初の一歩を踏み違えたせいで、この事実が管理されないまま一般に漏れると、間違いなく国はひっくり返ります……少なくとも、犠牲を減らすことができたのに、それをしてこなかったと追求される者が出ますから。政治家たちが恐れているのはそれだけでしょうけどね」
最初から艦娘たちの存在を明かし、投入すれば、間違いなく輸送船団や自衛官の犠牲は少なく済んだはずなのだ。
「一番の問題は、艦娘の技術を転用したいと考えている連中。それができれば間違いなく莫大な利益が生まれます……だから、諸外国や同業者にできる限り知られたくない」
コンテナに描かれたロゴマークを見つめる横須賀司令。
確かにそれが可能になれば、状況は一気に好転するだろう。
けれど、それは夢物語だ。
何年もかけて基本的なこと一つすら解明できていないのだから。
時雨自身、何度その実験に付き合ってきたか。おそらく他の艦娘もだ。
この先いったいどれだけの時間が必要になるのか。
その裏でどれだけの血が流れるのか。
それを呑気に待っていられる余裕など、この国にはない。
それは人間の歴史の中で何度も繰り返されてきたことだ。
どうやっても否定することなどできはしない。
「そもそも、艦娘という存在が我々だけに与えられたなんていう都合のいい話もないでしょう。だからこうなった……きっと海の向こうでも似たようなもんでしょうね」
自分の生きている時代だけ、すべての指導者が清廉潔白などという都合の良い状況など起こるはずもない。
もちろん、事の大小に差はあるが。
「こんな時勢に、そんなことを考えている余裕があるのかね」
「余裕があるからこそなんですよ。ですが、ここらあたりで本来の道に立ち返らないと手遅れになります。その先に待っているのは勝ち目のない総力戦――人間にも艦娘にも犠牲が増える、そんな馬鹿げた救いのない未来です。だから目を覚ましてもらう必要がある。自分はそう思います」
「しかし、下手を打つとクーデターと見なされかねんぞ?」
艦長の懸念を横須賀司令はあっさりと笑い飛ばす。
そのあとに続いた言葉を聞き取ることはできなかった。
おそらく、艦長にも足柄にも、だ。
「この一年で随分と変わったな」
艦長が眩しそうに横須賀司令を見る。
「昔のお前は絶対にそういうことは言わずに、むしろ逃げ回ってたはずなんだが」
「――やりたいこと、やるべきことを見つけただけですよ」
横須賀司令に浮かぶのは寂しそうな笑み。
そんな顔をする人間が大勢いた。
時雨の遠い記憶の中にあるそれらが蘇ってくる。
時雨は声をかけるべきか迷う。
そもそも、どう聞けばいいというのか。
そうしているうちに、その笑みは消えてしまった。
はづきの通信士官が、プリントアウトされた通信文を手に駆け寄ってきたからだ。
「相模灘の掃除が終わりました。うちの明石が補充品を届けた後、横須賀へ救援を要請してください。スクリューの破損については、適当にごまかしていただくことになりますが」
「なんだ、もう暫くいるんじゃないのか?」
積もる話があるのだろう。艦長は心から残念そうに言う。
「自分は一足先に基地へ戻って、相模灘の件を上層部に突きつけてやりますよ……多少、誇張したり内容は改変したりはしますけどね」
その傍らでは、足柄がヘリと連絡を取り始めた。おそらく、ものの数分でやってくるだろう。
「横須賀司令」
だから今度こそは意を決して、時雨は話しかける。どうしても聞いておかねばならないことが他にあるのだ。
「なんだ、時雨」
「僕、今の話を聞いていてよかったのかな?」
「なぜ?」
「情報部だよ、僕の所属」
艦長はさほど気にしていないと言うような顔をしているが、足柄はどうしたものかという顔をしている。
そして、横須賀司令は怪訝な顔をして、時雨を見つめていた。
何を言っているのか理解できないとばかりに。
――人を守るのが艦娘の存在意義だから。
そう口にしようとして、時雨はそれこそが提督の言わんとしていることだと悟った。
時雨の表情の変化に気がついたのか、横須賀司令はニヤリと笑う。
「それが答えなら、俺がさっき話したことの重要性だって理解できるだろう? それを理解できるなら、どう動けばいいのかなんて説明するまでもない」
ちらりと後ろを見て、さらに続ける。
恐らくは足柄の態度を気にしたのだろう。
「それでも、残念ながらまだ確信は持てない。それも理解できるはずだ。だからこれは簡単なテストだと思ってくれればいい」
この話を聞いたところで情報部に与えられる選択肢は限られている。
情報操作には限度があるからだ。
そして、今はそれを容易に受け入れてしまえるだけの環境も揃っている。
そうさせない為には、速やかに直接的な対処をするしかない。
その動きがあれば、話の出処が時雨だと言うことはすぐにわかるし、その結果、横須賀司令や他の艦娘たちとの関係もそこで終わりになるだろう。
たとえ情報部とのつなぎを維持しつつ、横須賀司令のそばに近づいたとしても、状況が大きく変化して情報統制の意味などなくなっている。
その時、時雨にはなんらかの制裁措置があるだろうし、横須賀司令からの庇護を受けることもできない宙ぶらりんな存在になってしまう。
何をするにしても勝手だが、中途半端な立ち位置だけは許されない。旗色ははっきりさせなければならないだろう。
「俺としては必要ないと思うんだけど……後ろのオオカミさんの手前、な」
時雨だけに聞こえるように小さく囁く。
確かにその後ろでは、剣呑な表情をして足柄が成り行きを見守っていた、が。
「また、私をダシに使ったわね?」
「気のせいだ、気のせい」
もう一度ニヤリと笑うと、横須賀司令は近づいてくるヘリに向かって歩き出す。
おそらくは常日頃から繰り返されているであろう、そのやりとりを聴きながら、時雨は自分の立つ場所を決めた。
「ああ、そうだ。明石から爆雷と燃料の補充を受けておくように」
何も起きていないのだ。艤装に使用された形跡が残っていては都合が悪い。
「わかったよ。整備もしておくね、提督」
背中からかけた了解の声に、なぜか横須賀司令こと提督はズルリと足を滑らせ、足柄は腹を抱えて笑っていた。
あんな風に心から笑える日が、自分にも来るのだろうか。
時雨はそんなことを思った。
《1》
東京。
一国の首都であるにもかかわらず、夜の街は闇が支配していた。
深海棲艦が現れる前と比べてしまうと、まるで別の国の街のようで落ち着かない。
(これが我々の望む現状維持、か)
自らを乗せた車のヘッドライトが闇を切り裂いて行くのを、海幕長たる海将は忸怩たる思いで見つめていた。
深海棲艦の艦載機による空襲を恐れ、灯火管制でも敷いているのかと勘違いしてしまうが、実際は違う。
敵艦載機の迎撃は人類の手でも可能だ。
高性能なミサイルも、機関砲も、音速で飛ぶジェット戦闘機も。そのすべてが有効に機能する。
よって敵機は迎撃を恐れ、本土上空に近づくことは稀だ。
――たとえ近づいても、一つ残らず叩き落としてみせる。
(それに比べて我々は……)
首都がまるでゴーストタウンのようになっているのは、海上輸送路の確保が困難だからだ。
強力な対艦ミサイル、追尾性能に優れた魚雷、精度の高い速射砲。その一切が深海棲艦には通用しなかった。
海という国家の生命線を維持するために、海上自衛隊がするべきことが何一つできないのだ。
握った拳に力が入り、手のひらに爪が食い込む。
国家の存亡をかけた状況下に、縄張り意識を持ち出したり手柄を自慢するようなつもりはない。
ただ、何もできないことが悔しい。それだけだ。
曲がりなりにも服務の宣誓をした身。その気持ちに嘘偽りはないのだ。
ないからこそ、これほどまでに苦しんでいるのだ。
運転手役の若い士官の声がした。
海将を乗せた車は静かに減速し、わずかほどのショックもなく一軒の建物の前で止まった。後部ドアは正確に建物の門扉の前。
これが操艦であれば拍手喝采もの。
だが、ここは陸だ。
船乗りが車の運転ばかり上達していく。
そんな些細なことさえ、海将の心を痛めつけていく。
「ありがとう。それほど時間はかからないだろうから、駐車場で待っていてくれないか?」
だが、彼に罪はない。だから、ただ静かに次の指示を与える。
「わかりました」
外からは見えないが、中は煌々と明かりが灯されていた。
ここは都内でも有数の老舗料亭である。
今時、料亭政治などあまりにもナンセンスだ。
張り込んでいるマスコミもいないだろうが、できる限り誰かに姿を見られたくもなかった。下手に見られれば、余計な波風が立つ。
少なくとも中で待っている人物はそういうものを引き寄せる人種だ。
すぐに主人が現れ、海将を奥の座敷へと案内していく。
「それで、状況はどうなのかね」
案内された部屋に入るなり、海将を一瞥しただけで挨拶もないまま、上席に陣取った男は話を切り出す。
苦虫を噛み潰しすぎて、その表情がそのまま張り付いてしまったような顔をしたこの年配の男は政権与党の幹事長。
もちろんその味が常に極上だったとは限らない。
例えば今のように、どんな銘酒でも不味くなるような肴の時もある。
その前に座らされ、小さく縮こまったまま真っ青な顔をした防衛大臣は、吹き出す汗を必死に拭いながら、どう説明するべきかを必死に考えている。
(見慣れた光景とはいえ、なんともね)
このような決断力に欠ける男が今の地位にあるのは、与党内で最大派閥を形成している幹事長の力があってこそ。選挙を控えたこの時期にその機嫌を損ねることだけは何としても避けたいだろう。
頭の中で様々な想定問答を繰り返し、その度に行き詰まる。だから、酸欠の鯉のように口をパクパクとさせるだけで、言葉は出てこない。
よくよく見てみれば、その顔がどことなく鯉に似ている気もしないではない。
「だいたい、君が私をここに呼び出す時はロクな話ではないんだ」
そんな幹事長のぼやきなど、恐らくは耳に入っていないだろう。
だが自身にはまだその権利は与えられていない。
そして、そのもどかしさは自分以外の人間にも表情となって現れている。
例えば、少し離れた位置でため息をつく官房長官。
例えば、部屋の隅で居住まいを正しているスーツ姿の若い男。
その顔にはどこかで見覚えがあったが、果たしてどこでだろうか。
とにかく、時間だけが無為に過ぎていく。
喫緊に迫った問題にどう対処するかを決めねばならないはずなのに。
官房長官がグイと盃を煽り――
「まずいよ」
決して酒の味のことではない。
置かれた現状を端的に言っただけだ。それは国の置かれた位置でもあるし、この場の雰囲気でもあったかもしれない。
とにかく、口火を切ってくれただけでもありがたい。
そんな顔をして、長官をちらと見てから、大臣は説明を始める。
「相模灘に潜んでいた敵は十二隻。いずれも潜水艦ですが、横須賀第二基地の機転でなんとかこれを排除しました」
「排除できたのなら問題はないだろう」
さほど考えることもなく言い放つ幹事長は、あくまでも政治の世界の人間だ。
人を相手の政治的駆け引きなら、それこそ一目でも二目でも置けるが、残念ながら軍事方面に関しては素人同然だった。
もっとも、日本人の軍事音痴は戦後教育の賜物なのだから、この場にいる他のものも同じだ。だから、取り立ててこの言葉を責め立てるつもりは誰にもないだろう。
再び大臣は口ごもる。
どうにも腹を決めると言うことができないタイプのようだ。
国防の一切を担う省庁の大臣としては明らかに不適格という他ない。おそらく他でもダメだろうが。
「何か他にもあるのかね」
焦れた幹事長が語気を荒げて問う。
その声で完全に萎縮してしまった大臣は、ついに思考停止に陥る。
やれやれと言った具合に官房長官がその後を継ぐ。
「敵は排除されたがね、幹事長。敵が首都圏近くまで入り込んできたということ自体が問題なんだよ」
その言葉に今一つ実感がわかないのであろう。幹事長はとりあえず手元の盃を煽る。
「万が一これが続いて、敵が東京湾内なんかで姿を現してごらんよ……国民の不安と不満は一気に爆発するよ。当然その矛先がどこに向けられるかなんて説明するまでもないね」
「そうならないために、無理やり予算をつけて防衛網を構築したんじゃなかったのかね」
音響ブイによる警戒網のことだろう。
資材不足が影響していて、その完全な構築にはまだ数年かかるという説明を何度、この男にしただろうか。
おそらく何度しても無駄なのだろう。
金と票を数えることだけが生きがいのような男なのだから。
「そうはいうがね幹事長。まだ不完全な網に絶対の信頼を寄せられても、現場は困るだけだよ。それに、あれは音を聞くだけしかできない代物だ。我々の耳と同じように、小さな音がより大きな音に紛れて聞こえないのは、機械だって一緒だよ」
その点、官房長官は現場からの説明をきちんと理解し、自分のものにできるだけの能力があった。
役職から考えれば、当然持っていてしかるべき能力ではあるが。
「いやいや、役に立っていなわけじゃないよ。事実、今回のような奇策でもない限りは、敵の侵入を防ぐことができているんだから」
だからこそ、幹事長が放った身も蓋もない一言に対しても即座の訂正ができる。
事実、装備を整えるには莫大な時間と労力、そして金が必要だ。
小銃一つにしたって、全部隊に行き渡らせるためには二十年以上が必要になる。
下手をすると、最初に配備されたものが耐用年数を迎えて廃棄になり始めても、末端の部隊は未だにそれを手にしていないということも起こる。
自国のみで配備することが前提である以上、生産数は限られ単価は跳ね上がる。そしてそれを買い付ける唯一の組織の予算は有限であり、そんな高価なものをポンポンと買えるほど潤沢とはいえないのだ。
それに今に限っていえば、たとえ金があっても作れる数に制限がかかっている。
幹事長の一言は、それらの事情をまったく考えていない愚かなものだ。
「では、何が問題だっていうんだ」
官房長官が自分の方に視線を送るのを見て、海将も即座に同意の頷きを返す。
つい先日の幕僚会議で出た結論でもある。
今回の敵の狙いがなんだったのか、正確にはわからない。
だが、予測はつく。
船団そのものか護衛艦。潜水艦で狙うならどちらかだ。
官房長官が言うような政治的効果は、敵から見ればそれで起きる余波でしかない。
「では、回せばいいじゃないか。佐世保には多めに配置しているんだから」
さすがにその話は覚えていたらしい。
生粋の政治家である幹事長らしい単純明快な答えだ。
「多めとは言っても、余力があるわけじゃないよ。必要だから配置してるんだ。佐世保の戦力を横須賀に回せば、その分海上輸送路が手薄になる」
「そうは言っても、首都を守れなければなんの意味もなかろう? それに工業地帯だって……そうか、資源がなければ戦うこともできんのか」
ようやく気がついたらしい。
「ええ。ですからまずいんですよ。どちらも重要で、どちらかに偏らせることはできない」
ため息をつく官房長官。
非常に遠回りではあるが、人脈を駆使した影響力が大きい相手だけに、こうでもしなければ後々面倒なことになるのを承知しているのだ。
そんな相手と渡り合って、ため息程度ですむ官房長官も大した人物だとは思うが。
おそらくは、この政府の中で一番の食わせ物。
「何かうまい方法はないのかね?」
「ううむ……」
官房長官の一言を受けて、幹事長は言葉に詰まる。
しばしの沈黙が場を支配した。
そして、結局。
「……餅は餅屋だ」
「だろうね」
幹事長と官房長官の視線が海将に集まる。
わざわざ時間を割いてここまでやってきて、すでに出来上がった脚本に乗るだけ。いつものことだ。
だが、今回の脚本を書いたのは官房長官だ。
「わかりました。微力を尽くします」
そうは言ったものの、戦力の不足は変えられない事実だったし、それで国の中枢と輸送路の双方を守るのは、かなり困難な任務になるだろう。
「頼んだよ」
そう言って幹事長は杯を差し出す。
「いえ、私はこれから主だったものと対応を考えねばなりませんので」
やんわりとそれを断り、席を立つ。
これから先は、どれだけ時間があっても足りないくらいだ。
悠長に酒を飲んで舞い上がっている暇はない。
「では、私はお客様をお見送りしてきますよ」
静かに閉じた障子の向こうでは、また別の密談が始まるのだろう。
「海将、面倒をかけて申し訳ない」
「いえ。これが仕事です」
廊下を歩きながら二人も密談を始める。
「実際のところ、どう対応するつもりなのです?」
「横須賀第二には限定的にでも増援を出さなければならないでしょう。その辺の根回しをお願いしたいのですが」
後にしてきた部屋をちらりと見る。
「なるほど。わかりました、そちらは私が引き受けます――」
同じ方向を見た官房長官が、声のトーンを一段落し、さらに声を潜める。
誰にも聞こえないように呟いたつもりなのだろう。
官房長官が言っているのは部屋の隅にいた男のこと。
一見すると、なんの害もなさそうな感じに見受けられたが。
「何か?」
だが、あえて海将は聞こえないフリをする。
「いえ、なんでもありません」
取り繕う様子を見る限り、その対応は正解だったのかもしれない。
中枢部の闇には深く関わらない方がいい。
いざという時に、正しい道を選ぶことができなくなってしまうのだから。
その顔が新聞か何かで見たものだったことを、海将はようやく思い出す。
そしてその記事が、急成長を遂げる会社の経営者を紹介するものであったことも。
けれど、この時勢に急成長できる会社など、ごくごく限られていることにまでは、その想像が辿り着くことはなかった。
「もう一つ、聞いてよろしいですか?」
官房長官が足を止め、まっすぐに海将を見つめている。
将来を憂いている弱々しい光がそこにはあった。
「今のままで、この国はあとどれくらい持つと思いますか?」
そんな質問を投げかけた男は、政界の大物と渡り合っている食わせ者ではなく、本心からこの先を不安に思う、一人の人間になっていた。
「政治や経済に関しては、私は門外漢ですよ。自分たちの組織の限界についてならお答えできますが」
だから。
「それで構いません」
官房長官は目を閉じる。
答えを聞き逃すまいと。
「……二年。それが限界です」
「そうですか……」
それすら、おそらくは甘い見込みだ。
今すぐにでも手を打たなければ間に合うことはない。
だが、何もできないのだ。
「海将、少し時間を頂けますか?」
官房長官はそう口にしたきり、その場に立ち止まったまま何かを考え始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
”会議は踊る、されど進まず”という言葉がある。
堂々巡りを繰り返し、遅々として進まない話し合いを揶揄したものだ。
それはナポレオンが消えた後のヨーロッパを巡って、諸侯が互いの利害をぶつけ合った結果によるもの。
けれど統合幕僚監部の一室で開かれている会議においては、互いの利害は共通していたし、参加者はそもそも同じ旗を仰いでいた。
だから、本来であれば粛々と進み、ごく短時間でなにがしかの決定がなされる性質のものになるはずだ。
にも関わらず、静まり返った会議室はただ時間を浪費するだけの空間になっていた。
原因はたった一つ。
だから、この状況を先の名言風に表現するならば”会議は踊らず、故に進まず”と言ったところだろう。
海将は大きく一つため息をつく。
手元の書類を引き寄せ、目を通す。
それが何度目かなど数えてはいない。どれだけ目を通しても内容が変わることはないが、そうするしかなかった。
それは横須賀第二から提出された、今後の哨戒計画と必要戦力、それに付随する必要物資の見積もりだ。
「このままではラチがあかない。まずは横須賀第二のコレをどうするか、だ……もう一度説明をしてくれ」
その言葉に促され、一番遠い席の若い男が立ち上がる。横須賀第二の司令官だ。
現状、この国で最も重要な役割を担っているはずの人物が一番遠い席にいるのは、能力や地位の問題ではなく、ただ単に彼がこの場の誰よりも若いからでしかない。
「まず、今回の敵潜水艦の浸透についてですが、これは露払い。敵の本命は水上艦による対地攻撃と見て間違いありません」
先刻届けられた小さなメモを見ながら、若い司令官は口を開く。
「先程になりますが、哨戒に出していた足柄以下の艦隊が、御蔵島の沖合で敵の小規模艦隊を発見、これを排除しています。恐らくは潜入した潜水艦隊と本隊とをつなぐ連絡中継役だと思われます」
その事実の公表に室内がざわつく。
小規模とはいえ、敵の水上艦が首都まで七時間余りの距離にまで迫っていたというのは、危機感を煽るには充分だ。
「それだけでは、敵の本命が水上部隊だとは断言できないのではないかね?」
海将は内心の動揺を抑え、できるだけ平静を装って言葉を発する。この場で最上級の自分が取り乱しては、組織全体への影響があまりにも大きすぎる。
下手をすれば、艦娘に関する情報開示への動きにもつながりかねない。
海将自身、その必要性は重々承知しているが、今はその時ではないとも考えていた。
現時点での情報開示は国家の存亡に直結する可能性がある。
もしやるのであれば、その被害を極力小さくする方法を見つけてからだ。
「これが国家間の戦争だとすれば、海将のおっしゃる通りです。しかしながら、敵は深海棲艦――こちらの船や人、街、そういったものを破壊するのが基本的な行動です。政治的意図でこちらに揺さぶりをかけるような作戦を展開するとは思えません。それを考慮しているのはあくまでもこちら側の都合というものです」
やんわりと自分たちの置かれた現状を非難する言葉に、その場の誰もが渋い顔をする。
その現状の中で困難な作戦を展開し、流血を強いられているのは、この場にいるものの同胞であり部下だだからだ。
「それは理解できるとしよう。それで、この戦力増強案はどういうつもりなのか、説明をしてくれるかね?」
「まずは、近海に潜む敵戦力を一掃します。放置してもいつか押し寄せて来るでしょう。いずれの道を選ぶにせよ、横須賀第二の現有戦力では砲撃戦を主体として考えている敵に太刀打ちできないのは確実です」
確かに横須賀第二の戦力――重巡一、軽巡三、駆逐艦十隻、その他補助艦艇数隻と護衛艦一隻では、想定される敵水上艦隊に対して挑むのは自殺行為以外の何物でもない。
それに万が一、この後に控えている輸送作戦の最中にことが起きれば、横須賀第二は他の艦娘隊からの支援を受けることもできない。
だとしてもだ。
輸送路の維持は作戦中だけに限ったことではない。
常に何組かの艦娘隊が情報収集に出ているし、特に輸送船団の航路となる南西諸島海域は敵の出没が多く報告されている。常時、哨戒部隊を展開していなければ、事前の掃除に時間がかかる。
「ええ。ですからその案は輸送路護衛の作戦に影響が出ないよう、ごく短期間で始末をつけるためのものです」
理にかなった言い分だ。
けれど海将はそれが腑に落ちない。
いつもならば、情報開示をした上で積極的な艦娘の運用をするべきだと訴えて来るのが、この若い司令官だ。
「君にしては随分とおとなしい物言いだな」
それを踏まえた上での皮肉だ。
だが。
そのたった一言が、この場の全員を納得させる理由になり、それならばという空気が室内に満ち始める。
それはもしかすると、最初からこの男の作戦だったのかもしれない。
普段は頑迷な人物が、その意志を自ら曲げて折ってみせる。その様は差し迫った事態がいかに深刻かを訴えるには、最高の演出となる。
だとすれば、随分と都合よくことが運んだものだ。
若い司令官の顔を見る。
表情に変化はない。だからこそ、ここからは成り行きを見守るという意思が垣間見えた。
海将は考えを改める。
あの男はそうするべき機会をひたすら待っていたのだと。いつか必ずその日が訪れると信じて。
流れを作るのでも、力ずくで引き寄せるのでもなく、訪れるのを待つ。自分の都合の良い方向に流れるように、誰にも悟られぬように、ただ一人でコツコツと水路を作りながら。
横須賀第二司令の最終的な目的に変わりはないはずだから。
それは、この国の土台を揺るがしかねない。
「会議を一時中断、三十分の休憩を挟む」
海将の宣言を受けて、幹部たちが部屋を出て行く。
そして海将もまた部屋を出た。
行く先は自分の執務室。官邸とのホットラインがあるところだ。
与党幹事長が要らぬ口を挟んでくる前に、官房長官と対応を打ち合わせる必要がある。
外は今日も晴れ。
梅雨は一体どこへ行ったのかと問いかけたくなるほど清々しい日。
だが。
(これこそ本当の青天の霹靂、だね)
齧り付くように書類に目を通していた足柄の肩がワナワナと震え始めるのを見ながら、時雨はそんな言葉を思いついていた。
「これはどういうことなのよ!」
予想通り足柄の怒声が、まるで落雷のように響き渡る。
朝の執務室。一日の業務が始まって一時間ほど経った頃だ。
ダンダンと一歩一歩を踏み鳴らして、提督の執務机へ詰め寄る足柄。
そこへ体を落ち着けている提督もまた、この事態を予想していたらしく、黙々と別の書類に目を通している。
その態度が癇に障ったらしく、足柄はさらに大きな声で吠える。
「どうもこうも、その通りだよ」
面倒臭そうにちらりと一瞬だけ足柄に視線を向けると、それだけを言って、再び書類相手の戦いに身を投じる。
一方の足柄は手にした書類をバンバンと手で叩きながら、さらに詰め寄った。
今にも噛みつきそうな勢いに、さすがの時雨も内心でハラハラするが、提督は顔色ひとつ変えない。
「その通りって、あなたねぇ!」
今度は手にした書類を執務机に叩きつける。
その弾みで、積み上げられた書類の一部がぐらりと傾き、提督は慌ててそれを抑えにかかる。
「こんな戦力でどうやって敵と渡りあえっていうのよ!」
「なんで今回に限っておとなしいのよ! いつもならあなたが私と同じことを言ってるはずでしょうが!」
足柄が叩きつけた書類は、佐世保からの増援として送り込まれる艦娘たちに関してのものだ。
「これじゃ敵艦隊の捕捉すらおぼつかない!」
書類の数は七枚。
戦艦一、航空母艦が二、駆逐艦が四。
作戦実行に必要だとして要求した数には遠く及ばない。
なおも喚き散らす足柄の言葉を要約するとそういうこと。
気に入らないのはそれだけではないらしい。
だからこそ「それにね!」と付け加えて、後を続ける。
ちらりと書類の内容が目に入る。
そこには艦娘の名前はなく、ただ艦種が記載されているだけ。添付されていた別の書面には『着任を持って通達の代わりとする』とだけ書かれている有様だ。
極秘の存在である艦娘の動向を、誰にでも拾える電波に乗せて通達することができないのは理解ができる。
だから、こう言った場合には古風だが確実なやり方として、人間に直接書類をもたせた伝書使を使う。
今回はその手間すら省かれた。
上層部から見れば、横須賀第二の司令官などその程度だという無言の通告だろう。
「何も来ないよりはマシだろう?」
「あなたね……こんな扱いされて悔しくないの?」
「別に。いつものことだよ」
そして時雨に視線を向け。
「ああ、悪いわね時雨。それで、村雨たちに挨拶に来たんだっけ?」
近くまで来たついでという理由があるのだから、そうすることに問題はない。
この間は姉妹艦の村雨たちと、ゆっくりと話す機会もなかったのだから。
「あ、うん。そのつもりだけど――」
もっとも、この間の接触がなければそんな風に思うこともなかった。
そんな具合に、何か行動を起こすには、きっかけとなるようなことが必ずあるものだ。
余計な詮索を避けたい時雨にとっては、この行動は絶対にあり得ないものと言える。
だからこれは、第三者の考え。
もちろん、そんな話をタダで提供してくれるような組織ではない。
間違いなく何かを企んでいるはずだ。
「いつもこんな感じなのかい?」
その辺の事情は、はっきりとしてから告げるべきだ。
時雨は一切を胸の内にしまいこんで話を続ける。
「そうよ。なんというか、もうちょっと漢らしくてもいいじゃないのよ……少なくとも、この私の上官なんだから」
なんだか、問題にするべき根本が違うような気もするのだが。
それでも。
「楽しそうだし、賑やかでいいじゃないか」
一方の足柄は書類への書き込みを途中で止めて、頭を抱える。
「どこがいいのよ、どこが」
「佐世保はもっと機械的。命令が伝達されて終わりだよ。僕がいた頃のここと同じ」
ふっと陰った時雨の表情を見て、足柄はため息をつく。
「……それは嫌ね。雰囲気の変わった今だから思えることなんだろうけど」
「そうだよ。それで、戦力不足でどうにかできるのかい?」
この件に関して時雨ができることはほとんどない。
せいぜいが横須賀に有利な情報を拾って来て渡すくらいだろう。
だからこれは、その必要があるかどうかの確認でもある。
ポツリと呟く足柄。
なんだかんだと言いながらも、提督を信頼しているのだろう。
そして、はづきに関しての情報を暴露していないことで、時雨もまた足柄からある程度の信頼は貰えているようだった。
「情報が必要ならいつでも手を貸すよ」
「その時はお願いするわ」
向けられる表情も柔らかくなっている。
それでも、それはある程度であって、決して全面的にではない。
情報部があえてそうなることを計算に入れて、行動を保留しているだけかもしれない。そう考えるのは当然だろう。
「――それで、入る許可が出せるのは艦娘たちの宿舎だけになるけど、それで構わないわね?」
「うん。自分の立場はわきまえてる」
時雨の立ち位置は微妙なのだ。
籍は佐世保にあっても、指揮系統は情報部に属する。だから他の艦娘たちとは違って、ここでは部外者の扱いになる。
本来であれば基地への立ち入りですら制限されるし、艦娘たちへの接触などもってのほかだ。
自身が艦娘である以上、その辺への制限は比較的緩やかになるとはいえ、基地内を自由に行動することまでは許されない。
何より、現状を変えると言って、裏工作をしている横須賀第二となれば、その行動を制限したくなるのは当然だ。
時雨自身、それに直接関わるつもりはなかったし、知る必要もない。
そうすることが横須賀第二――ひいては艦娘すべてや国のためになると思っている。
何かをすることだけが、良い結果をもたらすとは限らない。何もしないことこそが重要になることも世の中にはある。
足柄はそう言って、手元の書類へいろいろと記入を始めていく。
「ごめんね。忙しい時に」
「いいのよ。秘書艦の仕事なんてこんなのばっかりなんだから、一つや二つ増えたところで、大したことないわよ」
とは言うものの、思っていたより記入すべき項目があるようで、それなりの時間がかかるのは間違いなさそうだ。
その間をただ立って待っているのも、急かしているようで気が引ける。
仕方なしに、時雨は部屋の中央にある応接セットへ腰を下ろした。
「そういえば時雨。白露と涼風はどうだ?」
書類に目を通しながら、提督が話しかけてくる。
話に出て来た二人は、時雨にとって姉妹艦だ。
半年前に佐世保へ派出された白露と涼風は、専属で同型艦の教育担当になっていた。
基本的な性能が同じなのだから適任だろうと言う判断があったらしい。
佐世保にいた唯一の白露型駆逐艦娘の時雨は、情報部の指揮下にあるため候補としては数えられていなかったこともある。
お調子者の白露と何事にも大雑把な涼風の組み合わせに、当初は誰もが不安に思ったものだが、今では充分に戦力として計上できるだけの結果を残している。
「戦力不足だって引っ張って行った割には、教育担当ねぇ」
「そうでも言わないと、返さなきゃいけないだろうからね」
実際には、臨時の駆逐隊を編成しての周辺哨戒任務も並行している。
先の輸送作戦ではバシー海峡の制海権確保もやってのけた。
佐世保としては、あらかじめ戦力の一部として組み込む事を想定していたのは間違いない。
「二人もそれを望んでるだろうしね」
口にしないだけで、精神的に窮屈な佐世保から異動する事を望んでいる艦娘は多い。
提督と関わりを持っていた時間の長い白露や涼風はさらにその思いが強いに違いないし、彼女たちのもたらす話を聞けば、誰だってそうなる。
時雨ですら、今の横須賀を知った後では、佐世保に戻るのは気が重いと感じるくらいなのだから。
けれど、現状ではそれが叶うことはないだろう。
補給や整備も含めた諸々のことを考えると、同型艦を一つの隊にして構成した方が都合がいい。横須賀でさえ睦月型の四人、白露型の四人といった具合に駆逐隊を編成し、揃えている。残りの二名ですら吹雪型の白雪と磯波だ。
そういう理由もあって、佐世保が二人を簡単に手放すとは思えない。
「こっちに来る子たちは、きっと羨ましがられるだろうね」
ポツリと時雨が呟く。
「うん。僕たちは兵器だから、そんなこと考えちゃダメなんだろうけど」
その言葉に提督が反応した。
「そういう発想が出てくる時点で、お前たちは兵器じゃないんだ」
語気を強め、感情を垣間見せる。
兵器として自分を割り切ろうとする艦娘に対しての怒りだ。
提督は本気で艦娘を人間と同じように、対等の存在として見ているのだろう。
そして、おそらく艦娘に対してこういう態度で接することができる人間はそう多くない。
畏怖であったり、警戒であったり、不安であったりと様々だが、大半の人間が抱く感情は、どれも負の感情であることに違いはなかった。
「ここの艦娘たちは本当に幸せだね」
時雨の言葉を足柄が茶化す。もちろん書類仕事は続けながらだ。
「悪戯とは失礼な。あれはスキンシップだと言ってるだろ?」
一方の提督は書類から目線を外し、足柄の方に向き直っている。
「そういうことをする人はみんな同じこと言うんだってよ? 気をつけなさい、時雨。隙を見せたらお尻を触られるどころじゃ済まないから」
「……そこまでするのかい?」
さすがの時雨も不安になり、無意識に自分の体を抱きしめて距離を取る。
「おい足柄。時雨が蔑むような目で俺を見てるんだが?」
「因果応報、自業自得、自縄自縛。せっかくだから好きな言葉を選びなさいな」
一顧だにせず言ってのける足柄に抗議の声を上げようとする提督。
市ヶ谷の海上幕僚監部――総司令部と横須賀第二をつなぐホットラインだ。
これが鳴るのは緊急性を要する事態が起きた場合のみ。例えば近海に深海棲艦が現れた、とかだ。
「足柄、非常呼集の用意を」
そう言って提督は受話器を取り上げ、何事かを話し始める。
恐らくは呼び出した相手が間違いないことを確認するための符丁のようなものだろう。この国で最も安全に会話のできる通信設備だが、それでもこう言った古典的な手順は必要だ。
それが聞こえ始めた時点で、足柄は出撃に関する必要書類の一式を取り出して記入の準備にかかる。
この電話が海幕からの正式な連絡であり、戦闘が始まる可能性があると言うことなのだ。
時雨も近海の海図を引っ張り出すために書棚へと動く。
けれど。
「了解しました。ただ、以後はこう言った用件でこの回線を使うのはやめていただきたい。それでは」
手荒く受話器をどした提督は、椅子の背もたれに寄りかかり天井を見上げて息を吐く。
「足柄。時雨への入構許可は取り消しだ。そこまでやらせておいて申し訳ないが、書類一式を破棄してくれ」
怪訝な顔をする足柄をそのままに、提督は時雨に向き直る。
「今のは情報部からだよ――堅苦しいのは嫌いだから儀礼は省略するが、駆逐艦娘時雨は現時刻をもって、横須賀第二基地へ転属。俺の指揮下に入る。後日、正式な書面がお前の私物と一緒に届くそうだ」
提督の言葉は、多くの艦娘にとって喜ばしいものに違いない。
例え同じ戦いの場に身を置くにしても、自分たちのことを心から案じてくれる上官の元で動けるのだから。
「随分と急な話だね」
だが、時雨の表情は晴れない。むしろ曇っていく。
「まさか、それを信じたわけじゃないよね」
「当たり前だ。こっちの動きに探りを入れるつもりだろ。あれだけド派手に戦力を要求したんだ。その上、俺の様子がいつもと違ったわけだし」
それに、と。
「情報部はお前の身元を明かした上でこっちに送り込んできた。何をするつもりかくらい想像がつくだろう?」
情報部の仕事は敵の情報を探るだけではない。
内側の情報統制も任務だ。
当然、指揮官や艦娘たちそのもの動きや考えを把握するのもその一つとなる。
「僕はカモフラージュってことかな」
「その通り」
ただ、目立たないようにするのは難しい。
そこで情報部と繋がっていると言うレッテルを貼った時雨の出番というわけだ。
普通に考えれば、注意はそちらに向く。
だが情報部は、時雨がすでに横須賀と接触を持ち、提督の側に立っているということを知らない。
すべてを覆い隠そうとしたその一手こそが、相手に手の内を晒すような結果になってしまったなど、夢にも思っていないはずだ。
「このタイミングでそれをやるってことは、佐世保から来る増援の中に情報部の息がかかった艦娘を紛れ込ませるつもりなんだろう」
おそらく艦名の記載がない異動書類はこのためのもの。
「時雨。あなたになら誰かわかるんじゃないの?」
足柄の問いには、首を横へ振るしかない。
見破ることは決して簡単ではないし、相手も尻尾をつかませるようなことはしないだろう。
「どうするつもりだい?」
「今考えてる」
突如として放り込まれた出口のない思考の迷路。沈黙が重苦しい空気を生んで、室内を満たしていった。
やがて。
提督が立ち上がり、足柄をまっすぐに見る。
「足柄、怒るなよ? お前の能力が不満とかそういうわけじゃないからな?」
「なんの話?」
いきなりの発言に、足柄は首をかしげる。
念を押す再びの問いには、首を縦に振るしかないだろう。そうしなければ提督がこの先を口にすることはないのだろうから。
「時雨、たった今から秘書艦に任命する。足柄は補佐に回ってくれ」
突然の命令に、時雨は自分が何を言われたのかを理解できなかった。
足柄もそれは同じようで、まるで時間が止まったように硬直している。
だが、立ち直るのは足柄の方が早い。そこはやはり慣れだろう。
「何を考えてるの? 大きな作戦を控えてるっていう時期に、経験がない時雨に秘書艦をやらせる余裕なんてない。おまけに、今こうやって面倒ごとを突きつけてきた連中とも関わりがある」
「もちろんわかってるよ。わかってて言ってるんだ」
両者の言葉を聞いて、時雨はその意図を理解した。
提督は時雨を秘書艦にすることで、すべて見抜いているという警告をするつもりなのだ。
足柄が言う通り、秘書官という立場になれば様々な情報に触れる機会も増えるし、他にもデメリットはある。
けれど、秘書艦はその時間の大半を提督の側で過ごすことになるし、今回に限れば、足柄の補佐がつくことになる。
それは言ってみれば常時監視体制下にあるようなもの。時雨の動向に特段の注意を払う必要はなくなる。
そして、注目を集めることができなければ、カモフラージュとしての機能も果たせない。
当然、そこまでやる相手には手の内を読まれたと考えるし、それが本当かどうか、どこまで見抜かれたかなど、関係なくなる。
そこに考えが及んでしまった段階で、諜報員を送り込むことは心理的に難しい選択になるからだ。
だから、おそらく情報部はその選択を避けるだろう。
情報組織は賭けをしない。
一度の失敗は警戒を呼び、求めているものから大きく遠ざかることになるのだから。
「なるほどね……」
時雨の説明を聞いて、足柄も納得する。
「でも、これは時間稼ぎにしかならないわよ?」
「それで充分。少なくとも情報部を警戒しつつ作戦準備をするなんてことをしなくても済むだろう?」
ただ、この一手は確実に情報部の警戒心を煽ることにもなるだろう。
提督が何をするつもりなのかはわからないが、チャンスはこれ一度きり。それも制限時間付きで、だ。
その狙いが、足柄の言葉にあった『大きな作戦』に関わるのであれば、その制約は想像以上に厄介なものになる。
「提督。これは命綱無しの綱渡りになるよ」
時雨の心配を提督は軽く笑い飛ばす。
「……身体能力が並以下の人がよく言うわ」
呆れた顔をして、足柄が茶化す。
「うるさい。そもそも基準がお前じゃ、誰がどうあがいても並以下だ」
「あなたは特別よ。銃も格闘技もダメって、それで本当に自衛官?」
「俺たちが相手にしてるのは、そんなもん持ち出してどうにかなる相手なのか?」
先程までの重い空気は何処へやら。
二人の掛け合いで、執務室内は元の状態に戻っていく。
おそらく、これがいつもの横須賀。
そして、自分が守るべきもの。
柔らかな微笑みの裏で、時雨は固く決意する。
私室の机の上に広げられた地図を前に、提督は思案にふけっていた。
その地図のほぼ中央に印がつけられている。
フィリピン海。
太平洋の付属海として国際機関によって正式に定められた名称ではあるが、日本人にとっては馴染みが薄い名前だ。
だが、日本、台湾、フィリピン、ミクロネシアに囲まれたそこは、間違いなく生命線へと繋がる重要な海だ。
例えば。
現代において最重要資源の原油もここを通る。
日本における石油精製能力の七割がこの海に面した地域に集中し、直接運び込めるようになっている。
提督の指が地図の上をなぞっていく。
フィリピン海から台湾南方のバシー海峡を抜け、大小様々な島が点在する南シナ海を通過。
そこからさらにアラビア海、オマーン湾、ホルムズ海峡、ペルシア湾と辿り、ようやく世界最大の産油地帯に至る。これが一般的な航路だ。
言葉にすると短いが、これを実際の距離にすると片道だけで一万二〇〇〇キロ。日数に換算すると、およそ二十日間の旅になる。
そしてそこで数日をかけて原油を積み込んだ船団は、元来たルートを逆に辿って日本へと戻っていくことになる。
だが、この生命線はいくつかの場所でバッサリと断ち切られていた。
例えば、インド洋モルディブの最南端、アッドゥ環礁。ここを拠点とした敵艦隊により、インド洋の制海権は奪われつつある。
現在ではそこからの敵戦力流入を遮断すべく、いくつかの国が主体となって、様々な種類の機雷をミックスした防衛線がマラッカ海峡に敷かれ、封鎖された状態だ。
ある意味では、人類自らが己の首を締めた状態とも言える。
それが是か否かはともかく、これによって日本と中東をつなぐ線は絶望的な状況にある。
ちなみに敵はマラッカへの侵入を保留し、セイロン島への圧力を強めているという。もしセイロン島が陥ちれば、状況はさらに一段悪化するだろう。
そして、こういった拠点は各所にあると目されている。
もちろん日本が接している、フィリピン海にもだ。
その正確な位置を把握しているわけではなかったが、深海棲艦の侵攻とともに打ち捨てられた島を、敵がそのまま利用している可能性は高いはずだ。少なくともそこには、ある程度整備された港があるのだから。
この状況を覆すことは決して容易ではない。
おそらく一気に情勢を変えることは無理だ。
一つ一つ拠点を抑え、じわりじわりと勢力圏を広げていくしかない。
確実に血と涙、無数の死を撒き散らしながら、だ。
今のままではそうなる。
だから、周囲の状況を変える必要がある。悲劇の数を一つでも減らすために。
ならば。
最初に手をつけるべきは――。
何度も地図上を行き来する指が、ある一点で止まる。
決断は音もなく下された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
横須賀第二の朝はいつものように始まる。
一足早く朝食を済ませた足柄が執務室に入り、青い厚手の遮光カーテンを開け、窓を開く。
一晩をかけて淀んだ空気が、朝の新鮮な空気と一気に入れ替わったところで、その日に処理しなければならない書類の束を机の上に広げる。
そうしてから、秘書官が処理できるものと、提督の決済が必要なものに分けていく。
それが片付く頃には、食堂を任されている給量艦娘の間宮か、ほとんどの場合は朝食を終えた駆逐艦娘の誰かが、お茶の入ったポットを持ってくる。
「ありがとう」
「いえいえ。今日も張り切って参りましょー」
「相変わらず、朝から元気ねぇ」
「それだけが取り柄にゃしぃ、いひひ」
そんな具合に、他愛もない会話を軽く済ませた頃、食事を終えた提督が執務室に入ってくる。
睦月はそれと入れ違う形で執務室を後にしようとするが、すれ違いざまに尻を触られ、提督の向こう脛に蹴りを一発。
悶絶する提督をため息交じりで足柄が見つめる中、睦月は顔を真っ赤にして執務室を出ていく。
だいたいこれがいつもの朝の光景だ。
ただ、今日はここからが違う。
着任初日に任命されたとはいえ、実際には様々な手続きが必要だったし、基本的な業務内容を把握したり、基地内の各部門への挨拶など、それなりに時間はかかるものだ。
だから、あれから一週間が経過した今日になってようやく、全員が揃う朝食の際に時雨の着任と秘書艦就任が正式な決定事項として伝えられたのだ。
「で、どうだった?」
足柄が問うたのは、その発表に関しての艦娘たちの反応だ。
「何も問題なしだな」
特段変わったこともないと付け加えて、提督は自分の椅子に腰を下ろし、執務机の上に用意された書類に目を通し始める。
そもそもこういった話は、変化のない日常を送っている艦娘たちにとっては好奇の対象だし、そもそも人数も少ない。あっという間に噂になって広まっている。
だから正式発表とはいっても、驚きを持って受け止められる段階はとうの昔に過ぎてしまっていた。
ただ、時雨は納得がいかないようだ。
一年近く秘書艦を務めた足柄に変わって、着任したばかりの艦娘が秘書艦に任命されるなど普通では考えられないし、何が起きてもおかしくないと考えていたのだろう。
けれど、実際は違う。
「新入りが貧乏くじを引いた、くらいにしか思ってないから大丈夫よ」
足柄は苦笑いをしながら言う。
「それ、どういう意味だい?」
「そのうちわかるわよ」
「それじゃ、覚悟のしようがないじゃないか」
「覚悟したところで、どうにかなるもんじゃないから安心していいわよ」
珍しく食らいつく時雨をバサリと斬り伏せて、足柄は書類の山を崩しにかかる。
足柄の言葉は時雨の不安を一つ増やしただけかもしれない。
だが、そうするしかないのだ。
底もなければ天井も見えない。提督はそういう種類の人間だ。
そんなものを相手にするのに、覚悟や常識などなんの意味もない。
むしろそういった既成の枠で捉えてしまえば、彼の持っている力を奪ってしまうことになる。
時雨はそういうものに気付くことができる。その上で一歩引いた位置から冷静に物事を見つめることもできる。
カッとなりやすい自分よりも数倍、彼の補佐役には向いているはずだ。
ようやく肩の荷を降ろすことができる。
それが足柄の嘘偽りのない気持ちであった。
佐世保からの増援が到着したのは、食堂の方から夕餉の支度の香りが漂い始める頃になってからだ。
最初に執務室の扉を開いて姿を見せたのは、黒い髪をツインテールにして、白い弓道衣に身を包み、袴を短くしたようなデザインの赤いスカート姿の艦娘。
それを見て時雨は彼女が航空母艦娘であることを悟る。
何より印象的なのが、生命力に満ち溢れた目だ。
強い意志を感じさせるその目は佐世保にいた艦娘にしては珍しい。時雨の知る限り、ほんのわずかな例外を除いて、こう言う目ができるのは着任からまだ日の浅いものだけ。
あの環境に長くいると、たいていの艦娘には諦観の色が見えてくる。
――翔鶴型航空母艦二番艦、瑞鶴。
彼女はそう名乗り、執務机の前に立つ。
「遠路はるばるご苦労様、歓迎するよ」
一度席を外した足柄が、ポットと湯呑みを持って戻ってきたのを見計らって席を勧める。
瑞鶴はそういって一礼をすると、提督と向かい合わせの位置に腰を下ろす。
その動きは少しぎこちない。恐らくは緊張しているのだろう。
この場にいる全員が瑞鶴にとって初対面のはずだ。
佐世保にいた時雨も、ここしばらくは南西諸島海域や南シナ海への偵察に出ていたために、顔を合わせたことがない。
「翔鶴とは何度か話したことがあるが……印象はまるで違うな」
「よく言われます。先日は修復用資材の提供をありがとうございました。翔鶴姉――じゃなかった、翔鶴と瑞鳳からもよろしく伝えておいてほしいと」
「あの程度でそこまで言われちゃ、逆にこっちが申し訳ない。面倒な儀礼は嫌いなんだ。そういうのはやめて気楽にいこう」
「はぁ」
「それで増援艦隊の旗艦は、瑞鶴でいいのか?」
恐縮して小さくなっていく瑞鶴の姿を見て、提督は声を出して笑う。
「女が身だしなみに気を使うのは当たり前だろ。ここの子たちなんて『日焼け止めよこせ』とか言ってるくらいだぞ? そこの足柄も時雨も、塗りたくって厚化粧してる」
その言葉に、引き合いに出された二人が即座に反応する。
「提督! 私はそこまでしてません!」
「提督? 僕は化粧なんてしたことないよ?」
それぞれに、似ているようでいて決定的に違いのある否定のセリフを同時に吐いた後、互いの顔を見合わせる。
少しだけ間をおいて、なぜか足柄が無言のままがっくりと肩を落とした。
時雨にはその理由がわからない。
ただ、足柄からはなんとも形容しがたい真っ黒な気配が揺らめきながら立ち上っている。
そう呟く言葉は果たして誰に向けられたものか。
時雨はしばし考え、結論を導き出す。
「ねぇ、提督。僕も化粧をするべきなのかな?」
足柄が「後で覚えておけ」と言ったのだ。秘書艦には必要なことなのかもしれない。
それが時雨の導き出した答えだ。
「……お前、意外と天然物か?」
そう言って提督は苦笑い。
「まぁ、お前にはまだ必要ない。瑞鶴もだな。何事も過ぎたるは及ばざるが如しだ」
その言葉に反応して、足柄の肩がピクリと動く。
正面に座る瑞鶴の頬が引きつっているのが見えた。
提督もそれに気が付いたのか、慌てて言葉を付け足す。
「あ、足柄みたいに、上手にやれば元の魅力をさらに引き出すこともできるからな! 興味があるなら教えてもらうといいぞ!?」
足柄の放つ雰囲気が一気に変わる。
あまりの急激な変化に時雨がそちらに視線を向けると、足柄の周りにキラキラとした光が見えたような気がした。
そして満面の笑みを浮かべながら「そうね! 二人には明るい桜色のリップが似合う――」などと、時雨には理解不能な言葉をまくしたて始める。
一人、幸せな世界に埋没している足柄をそのままにして、提督は瑞鶴を見る。
「うちはこんな感じだからな。瑞鶴も肩肘張らずに普段のままでいいよ」
言われた瑞鶴の顔に浮かぶのは戸惑いだ。
一週間ほど先に着任した時雨でさえ、まだ違和感は拭いきれていないのだ。
それでも比較的慣れが早いのは、周りにいる艦娘たちの言動のせいもあったし、何より秘書艦として提督のそばにいる時間が長いからだ。
「なんか、変わった人」
そう言ってクスクスと笑いだす瑞鶴。
「よく言われるよ」
つられて全員が笑っているところへ、新たなノックの音。
提督が入室の許可を出す。
「なんだか楽しそうデスネー」
扉を開けるなり、巫女風の装束に身を包んだ艦娘が呆れた声を出した。
金剛型高速戦艦のネームシップ、金剛。
佐世保では実質的に艦娘たちをまとめる立場にあった彼女が、ここへ増援として送られてくるとは意外だった。
当然、金剛も時雨の所属を知っている。ちらりとこちらを見た目には、あからさまな警戒の色が見えた。
「時雨を警戒する必要はないよ。自分の立つ場所を決めてる」
提督の言葉に、金剛は腰に手を当て大きなため息をひとつ。
「またこの人は……どうやって口説いたんデス?」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ」
「何を言ってるデス? ワタシもアナタに口説かれたんデスヨ?」
詳しい経緯はわからない。
「しかし、このタイミングでお前を増援に出すことを認めるとは、佐世保も大盤振る舞いだな」
「フン……作戦前に厄介払いといったところデショ。別に好かれたくもないケド」
鼻息も荒く金剛は言う。
確かに前回の輸送作戦で独断専行をした金剛の立場は微妙になっていた。
それが結果的に輸送作戦の成功に貢献し、多くの艦娘を救ったとはいえ、佐世保で指揮を執っている男はそれを手放しで喜ぶような人間ではない。
出世の道に戻りたい男にとっては、自分の能力を誇示することの方が大事なのだ。
「そんなコトより……提督、ちょっといいデスカ?」
金剛はそう言って、何やら少しばかり思いつめたような顔をして、提督の手を取って
立ち上がらせる。
「何をするつもり――」
金剛の唇によって、だ。
突然に起きたそれによって、執務室内の時間が止まる。
足柄も瑞鶴も、そして時雨も何が起きたのかを理解できない。
理解できないまま時間が過ぎる。
長い。
とても長い一瞬だった気がする。
やがて。
ゆっくりと唇を離した金剛が提督の目をまっすぐに見つめる。
「あの時、提督が手を打ってくれていなかったら……ワタシはまた、台湾沖で沈んでいマシタ」
彼女が率いる艦隊は、台湾海峡を通過してきた敵艦隊を迎え撃ち、輸送船団を守れという、佐世保第二司令から発せられた命令を実行した。
だがこの時、輸送船団はすでに危険域を離脱しつつあり、この命令は全くの無駄なものだった。
船団位置情報システム不備による誤認と、報告書には記載されている。
それが事実かどうかは怪しいところだと時雨は思っている。
実際、現在も調査が行われているシステムには何の異常も見つかっていないのだから。
とにかく。
それが無意味な命令であるとは知らずに実行し、窮地に陥った仲間を逃がすために、金剛はただ一人その場に残り、撤退を支援した。
圧倒的な戦力差を前に、戦闘力を失い撃沈寸前まで追い込まれた金剛を救ったのは、すんでのところで駆けつけた佐世保の艦娘たち。
その命令を下したのもまた、佐世保司令ということになっている。
少なくとも、あの佐世保の司令官にそんな采配ができるとは思えなかったし、前後の状況から考えれば、それをする意味だってないのだから。
「金剛」
我に返り、離れようとする提督に金剛が強く抱きつく。
その腕が――身体全体が震えていた。
「ダカラ、これは感謝の印ネ。艦娘相手じゃ不満かもデスガ……でも黙って受け取ってクダサイ」
瞳からは大粒の涙がポロポロと溢れているのが見えた。
艦娘たちのリーダーとして、絶対的な自信と強さを見せ、明るく振舞っていた金剛しか知らない時雨にとっては、それだけでも驚くべきことだった。
だが、同時に理解もできた。
艦娘は軍艦であった頃の記憶を有している。
そして、その場所に近づくことで、不安や恐怖を呼び起こされることもある。
金剛にとっては、それが台湾海峡だ。
その場で何を思い、耐えてきたのか。
それは金剛にしかわからない。
だから、誰にもそれを咎めることはできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
金剛が落ち着いたのは、すっかり日も暮れた頃になってからだ。
すでに艦娘たちのほとんどが夕食を済ませ、それぞれの時間を過ごしている。
だが、執務室の中では、艦娘たちの今後を決める重要な話し合いが行われていた。
「それで、増援の詳細は?」
「まずはワタシと瑞鶴……瑞鶴は航空母艦の中で一番練度が低い艦娘デス。まだ着任から四ヶ月しか経っていないからネ。佐世保が瑞鶴を手放したのはそれが理由ヨ」
金剛の言葉に、がっくりと肩を落とす瑞鶴。
その背をバンバンと遠慮なく叩きながら、先を続けていく。
「デモ実戦の経験もあるし、実力はワタシが保証シマス。他は軽空母と駆逐艦なのデスガ、これがちょっとトラブルがあってデスネ……」
「トラブルってのは?」
「横須賀に向かう直前になってカラ、急に人選を考え直すって言い出しマシタ」
それを聞いて、提督と足柄がニヤリと笑う。
表には出さないが、時雨も内心では安堵している。
時雨の秘書艦就任は、狙った通りのタイミングで効果を発揮したのだ。
「後で話す……ちなみに最初に予定されていた艦娘が誰かはわかるか?」
「ノー。人選は佐世保の司令がしてマシタ。ダカラ、ワタシ達は厄介払いされてここにいるんデス。ケド、最終的にワタシに一任するということにナッテ……」
佐世保司令の立ち位置はわからないが、実際に誰を選ぶかは情報部の裁量になっているはずだ。
それを放棄して金剛に選ばせたということは、この件には情報部が関わっていないということを示して見せるため。
もちろん、金剛が最初に予定されていたのと同じ艦娘を選ぶ可能性もある。
だが、そんな幸運にすがるようでは、情報を扱う組織としては失格だ。おそらくは別の手段を考えているに違いない。
「それで、誰を選んだ?」
「軽空母鳳翔、それと駆逐艦朧、曙、漣、潮の第七駆逐隊デス。理由は言うまでもないヨネ?」
佐世保でもかなり練度の高い艦娘達だ。
それに前回の輸送作戦で金剛隊を構成したメンバーでもある。一連のトラブルの渦中にいたのだから、少なくとも佐世保司令の意に従って、邪魔をするようなことはない。
「ただ、彼女達は哨戒任務に出ている最中だったノデ、到着は明後日の朝になりマス」
願ったり叶ったりだ。
任務に出ていたのであれば、情報部の息がかかった艦娘である可能性は低い。
何名が関わっているのかわからない以上、完全に可能性を排除できたわけではないが、それでも警戒のレベルは数段落とせる。
囮として使われている時雨とは違って、実際に行動する艦娘には、連絡手段の確保や符丁の打ち合わせなど、どうしても準備期間が必要だ。
互いに正体を知らないままの行動が原則である以上、本来潜むはずだった艦娘からそれを告げるという手段も使えないし、移動中に外部との接触を図ることもできない。艦娘という存在の露見を避けるために、専用の車両が用意されているくらいなのだから。
だから、金剛が到着時間を把握している以上、打ち合わせをする猶予はない。
もし、大幅に遅れるようならば改めて警戒すればいい。
もっとも、提督は別の方向から問題はないと考えていたようで、苦笑いをしていたのだが。
「けどさ、金剛。この戦力じゃ敵の艦隊を見つけるのは難しいんじゃないの? 偵察に使える機体も私と鳳翔さんだけじゃ、作戦予定の海域をカバーするのには不足よ?」
瑞鶴の指摘はもっともだ。
だが。
「心配は無用だよ、瑞鶴。首都圏を狙う敵艦隊なんて存在しない」
さらりと放たれた提督の一言は、艦娘たちにとって衝撃的なものだ。
提督は間違いなく、上層部が集まる会議の場でその存在を告げ、上層部はその排除を目的として増援を認めたのだ。
だから、時雨や金剛、瑞鶴がここにいる。鳳翔や第七駆逐隊だってこちらに向かっている。
その前提を、報告した当人が否定した。
瑞鶴が慌てる。
いくら増援が必要だとしても、嘘をつくのは流石にまずい。
発覚すれば即座に懲戒なのだから、当たり前の反応だ。
「嘘は言ってない。放置しておけば敵はいつか必ず押し寄せる。ただ、それが今すぐにとは言ってないよ」
「デモ、事態は切迫してるって言ったと聞いてマス」
「言ったよ。ただ、切迫してる事態ってのが何かは言い忘れてな……ちょっと興奮してたからかな。とにかく俺が言いたかったのは、状況を変化させられるリミットが迫ってるってこと。言葉が足りなかったのは認めるけど、それを指摘しないで勝手に解釈したのは向こうだし、そこは俺の責任じゃないよな?」
言葉の端々に白々しさが残っているのは、おそらくわざとだ。
とにかく、そんな具合に一気にまくし立ててから、提督は足柄を見る。
この話を聞いて顔色ひとつ変えていないところを見ると、やはり関わっているのだろう。
足柄も提督と同様、一気に話す。
その上ですました顔で茶まですすって見せた。
そして、何かを思い出したように付け加える。
「ああ。ちなみにその打撃艦隊が後退して行ったのが、作戦の立て直しのためか、それとも撤退なのか、それともまったく別の理由かなんてのは、提督や私の知ったことではないわよ? まさか聞きに行くわけにもいかないでしょうし」
時雨は二人の顔を交互に見て、ため息をつくしかない。
彼らは言葉だけで自分たちの望む状況を作り出して見せたのだから。
不完全な情報を渡すことで相手のミスリードを誘うのは、駆け引きではよく見受けられる手段の一つだ。
よく使われるということは、それだけ効果的だということでもある。
ただ、使いどころは難しい。相手が少しでも冷静さを保っていれば、簡単に見破られてしまうのだ。
瑞鶴がポツリとつぶやいた。ただし、言葉の割には楽しそうではあるが。
ただ、その言葉の通り、向こうが怒るのは間違いない。
表面的には何も間違ったことをしていないのだから、責めることもできない。
だから、報復はたいていの場合、真っ当な手段ではなくなる。そこには生命の危機を伴うようなものも当然含まれてくる。
しばらくは提督の周囲に注意を払う必要があるかもしれない。
そして、それは自分の役目だと、時雨は自分に言い聞かせた。
「じゃあ、提督はワタシたちを呼んで、何をするつもりなんデス?」
金剛の問いに、提督は静かに、けれど強い意志をその瞳に宿らせて答える。
「輸送作戦を隠れ蓑に敵拠点を急襲、南西諸島海域の制海権を掌握する。奴らがやろうとしたことを、そっくりそのままお返しというわけだ」
提督は地図を広げ、テーブルの上に置く。
指し示すのは台湾から九州付近の海だ。
「ここ最近、輸送船団の被害は復路の南西諸島海域に集中していた。主に潜水艦による待ち伏せだけど、水上艦の出現報告も増えてきた……つまり、この海域の近くに敵の拠点が作られたのは間違いない」
「それはわかりマス。でもその拠点がどこにあるかはマダ……」
「そうよ。それがわからないから、輸送船団が出る時期が近づくと海域哨戒を強化するのよ。鳳翔さんと曙たちもそれで出てたんだから」
金剛と瑞鶴がすぐに反論を提示する。
だが提督は自信を持った表情を変えない。
「敵の出現頻度や範囲、地理的、環境的条件から見て、拠点があるのは大東諸島で間違いない。もちろん島民はすべて疎開していて、現在の状況は不明だけどね」
国内の主だった離島からは、すでに島民のすべてが疎開している。四百近くにも及ぶそれらを防衛するのも、物資を運び込むことも難しいからだ。
過去の戦争においても攻め手は上陸をためらい、当時、南大東島中央部に建設が進められていた飛行場に対して、艦砲と航空機による攻撃を繰り返している。
時雨の話はそう言った歴史的な事実も含めてのものだ。
「ソレに大東島の周囲は急に深くなりマスネ……潜水艦が拠点にするなら最高の場所デス」
そしてこの島からなら、南西諸島海域はもちろん、関東の太平洋沿岸までを活動範囲として設定できる。
すべてにおいて最高の条件が揃っていた。
だが、難攻不落の要塞と化した島を二十名足らずの艦娘で攻め落とせるのか。
そんなことを考える時雨の顔に表れた不安を見たのだろうか。
提督がニヤリと笑って口を開いた。
「さっき瑞鶴が言ってたけど、資源の備蓄状況から見て近々輸送船団が出るのは間違いない。こっちの上層部は前回の成功もあって相手をなめてかかってるし、船団規模も過去最大になるようだ」
「そして今回、敵は資源を満載している船団を総出で狙わなきゃいけないんだよ。前回の作戦でかなりの数の艦を失ったし、つい先日も潜水艦を大量に喪失している。おまけに戦力の立て直しには資源が必要だろ?」
艦娘たちと同じように、深海棲艦にも艤装のようなものがあり、それを作るためには資源が必要なのではないかというのは、あくまでも提督の推論だ。
だが、それ以外に敵が資源を備蓄する理由など思いつかない。
ただ訳もなくリスクを冒して資源を集めているという方が、よほどナンセンスだろう。
それに、人類を兵糧攻めにするためというならば、集積地を作る必要はない。
「敵も過去の例から考えて、輸送作戦に全力を注ぐ我々がその最中に拠点を襲うなんて思ってないだろう。だから、拠点にはわずかな守備隊を残す程度になるはずだ。それを釣り上げて叩き潰した後、空になった拠点を物資ごと消し飛ばしてやれば、さすがに向こうも退くしかない。島で補給を得られない以上、反転攻勢に出ようと思っても、いったんは他の拠点まで下がる必要がある」
「どうせなら火事泥すればいいじゃん? もったいない」
瑞鶴が呆れた顔をして言う。
強襲した後に物資を奪えと言いたいのだろう。確かにそれはこの国にとって何よりも必要とされているものだ。
「それをやれば、敵は間違いなく物資の奪還を目指して、死に物狂いで襲いかかってくる。輸送船団に差し向けた戦力のほぼすべてで、だ。瑞鶴はそんなの相手にしたいか?」
「う……お断りします」
輸送路に近かったために、強奪した物資を大量に集積できていると言う点が、この拠点の重要性だ。
そしてその事実が選択肢を生み出す。
選択肢がある限り、どれかを選ぶと言うことができる。
この場合、備蓄物資を使って戦力を再編、とりあえず海域の支配を続けると言う選択だ。
だから、提督はそれを潰すことで、撤退という道しか相手に残さないつもりなのだ。
「ま、これは全部、推測の上に成り立ってるから、確実とは言えないけどもね」
「その推測は間違ってないと思いマス。でもこの作戦は、下手をすれば輸送船団が大被害を受けますヨ? 上手く行ったとしても素直に喜べまセン」
試すように金剛の瞳を見つめる提督。
金剛は口の端を持ち上げ、不敵な笑みでそれに応じる。
「……フフン。オーケー、提督。ご褒美の用意、忘れないでネ」
「それなら心配するな――」
提督も同じように口の端を持ち上げる。
「これを綺麗に片付ければ、上の連中はお前たちの存在を公式に認めなければならなくなる」
それを聞いた金剛の瞳が異様な光を帯びる。
金剛だけではない。瑞鶴も足柄もだ。
確かにそれは艦娘たちにとって、これ以上ない報酬だ。
けれど、それはまた別の問題を呼び起こす可能性がある。
提督はそれに気がついているのか。
作戦の詳細を語り始めた彼の表情から、それを知ることなどできなかった。
『一体これはどういうことなのかね!?』
電話の向こうでそう怒鳴っているのは、政権与党の幹事長だ。
どういうことも何も、海将自身その話を聞いたのはつい今しがた。
その対策を指示する前に、この電話が鳴ったのだ。
少なくとも「何がですか?」と聞き返す羽目にならなかっただけでもマシだ。
だから言えることなど何もない。あるわけがない。
ただ、電話の向こうはそれを素直に聞き届けてくれるような相手ではない。
「目下のところ調査中です」
臆測でモノを語ることができない以上、定型的な返答を口にするのが精一杯だ。
『そんな呑気なことを言っている場合か!』
そんなセリフを代わりに突きつけてやりたい衝動にかられるが、これも言ったところで意味などない。
「何か分かりましたら、すぐにお伝えします。それまでお待ちください」
このまま会話を続けていても、時間を浪費するだけだ。
もう一度、手持ちの情報がないことを遠回しに告げる。
『急ぐんだ。出所を潰さないと、我々は終わりだよ』
そう言って、電話は乱暴に切れた。
椅子の背に体を預け、大きくため息をつく。
身体全体に重くのしかかっているのは、まるで一日の終わりを迎えた時のような怠さ。
しかし、時計はまだ午前九時を指したばかりのところだ。
執務机を挟んで対面している情報部員が、そう言っていやらしい笑みを浮かべる。
「原因の半分は君たちのせいじゃないかね」
まるで他人事のように話すのだから、嫌味の一つも突きつけてやりたくなる。
朝一番に訪れたこの男のもたらした情報が、事の発端だ。
――艦娘のことと思われる噂が、海上自衛隊内部に広まりつつある。
たったそれだけの報せが、政府や組織上層部を揺さぶっているのだ。
「それで、出所に心当たりはあるのかね?」
「先ほどの言葉をお借りするならば、目下調査中、ですね。どこか一つの基地で広まっているのならば、それほど難しい話でもないのですが」
「一つじゃないのか」
他の組織というのは陸上や航空自衛隊のことだ。
そうなってしまえば、海将や情報部にできることはない。
そもそも情報部は、防衛省の組織である情報本部とはまったく別。深海棲艦と艦娘の情報統制のためだけに作られた、海上自衛隊傘下の組織だ。
他の組織に対しての権限などない。
もっとも、その力があったとしても、情報部に対する権限は政府によって実質的に掌握されているのだから、海将が何もできないことに変わりはない。
ただ、責任だけを取らされる立場なのだ。
「止められそうか?」
「無理でしょう。噂の源にたどり着く頃には、民間にまで知れ渡っていてもおかしくはないですよ。まぁ、出所自体に目星はつきますが、証拠がなければどうにも」
自分たちの不手際、失態。そう言われてもおかしくはない状況にもかかわらず、目の前の男は顔色一つ変えない。
「何事にも、限界、潮時って物はあります。情報に携わる者として言わせてもらうならば、そもそも隠すべきではない情報を隠そうとした時点で間違いなんですよ」
そして、公然と政府の批判をする。
この国において、それをすることは別に罪ではない。
だが、その手先となって情報統制に勤しんできた者が言うべきことではない。
それによって、どれだけの人間が辛酸を舐めさせられてきたのか。
男は睨みつけた海将の視線をまったく意に介さず、むしろ真正面から平然と受け止める。
「まぁ、私はあくまでも下っ端。上からやれと言われたことをやるだけですから」
「なら噂の出所と証拠を掴んで来るんだ」
噂を止められないのであれば、噂を打ち消す事実を作る必要がある。
もし掴みきれなくても、その責を誰に負わせるかはすでに決まっている。そのために彼はあの安楽椅子に座っていると言っても過言ではない。
けれど、彼が海将の想像通りの人物であれば、間違いなく関わっている。
その証拠が欲しかった。
「必要であれば捏造することもできますが?」
そんなモノでは、火に油を注ぐだけで終わることになる可能性もある。
最悪、政府はそうするつもりだろうが。
「いや。確実な証拠を探して来るんだ。この上さらに嘘を塗ってもいつかは剥がれ落ちる」
だが、海将はこの状況をさらに利用しようと考えていた。
国の置かれている状況を考えれば、あの若い司令官のやろうとしていることは、決して間違いではないのだから。
墜落を胴体着陸程度の被害にする。
それが海将の選ぼうとしている道だ。
緩衝材になる自分の命運などわかりきっている。
だが、自分はこの国と国民に対して宣誓した身なのだから、それも覚悟の上だ。
「指示は以上だ。行きたまえ」
「はい。それから、海将にお会いしたいという人を連れてきましたので、宜しくお願いします――では失礼します」
一礼すると、くるりと踵を返して扉をくぐっていく。
入れ替わるように、スーツ姿の男が姿を見せる。
それが見た顔であることに海将は思い至る。
敵の侵入についての対策を協議した、あの料亭にいた男だ。
「私に用というのは?」
政府の要人と懇ろなのだから、今更自分に擦り寄る意味などないはずだ。
どうせ、幹事長が面倒ごとを押し付けてきたのだろう。
「私は政治家でも軍人でもない、ただのビジネスマンです。そんな人間が持ち込む用事など、あえて言わなくてもおわかりいただけるかと」
「ならば相手を間違えているよ、君は。口説き落とすのは予算を出す方だ」
「そうとも限りません。実際にうちの製品をお使いになるのは現場の方々ですし、その意見は是非とも聞いておかねばなりませんから」
そう言って男が差し出した名刺には、経済に疎い海将でもよく知る企業の名前が書かれていた。
何しろ、そこが作っているのは自衛隊において必要とされる装備の大半なのだから。
もちろん寄せ集めであったがゆえに、内紛もあったらしい。何度かの経営陣交代劇の末に、もっとも派閥から縁遠かったこの男がトップの座に着いた。
それからあっという間に業績を伸ばしたのだから、この男には運だけではなく、才能もあったのだろう。
「しかし、随分とお困りのようですね」
「何の話かね」
「警戒なさらなくても大丈夫ですよ。艦娘に関してはうちが研究してますから」
政府が艦娘の技術転用を計画しているという噂は海将の耳にも届いている。数年前から、何度もだ。
だが、何の成果もないのだからあくまでも噂だろうと、本気で取り合うことはしなかった。
しかし、それは本当に行われていたのだ。
艦娘たちを所管する組織に――それも、その組織の頂点に立つ自分にすら一切隠されたまま。
「ならば、商談をしている暇などないことくらいわかるのではないのかね?」
そんな胸の内を見せぬように言葉を紡ぐ。
「いえいえ。だからこそなんですよ」
薄い笑い。
見透かされているのだろうか。
「さっきの彼が言ってませんでしたか? もう手遅れだ、と」
「随分と気心の知れた仲のようだな」
「さあ、それはどうでしょう。いずれにせよ今日の商談には関係のないことです」
「では、さっさとその商談とやらを始めてくれないか。こっちは後がつかえているんだ」
数字や技術者向けの難解な単語が並ぶそれらの中には、海将にもよくわかる図が何点かある。
主に護衛艦に搭載されている主砲に関してのものだ。
「当社は艦娘の技術を使った兵器の開発を進めています。今ここに出したものは現在最後の試験段階に差し掛かっていて、実用化は一年以内に可能と見込んでいます。これを運用するシステムはほぼ現行のまま、一部の兵装だけを変更することで、深海棲艦の持つ『障壁』と呼ばれる装甲を、今より簡単に貫通することが可能になります」
「誘導兵器の類はないのかね?」
並べられた資料の中に望むものが見つからず、海将は問いかける。
装甲防御力のない護衛艦にとって主力となる兵装は、安全な距離を保ちながら攻撃のできる誘導兵器だ。それらが有効になれば、深海棲艦側の射程外から一方的に攻撃することが可能になる。
「もちろんそちらも開発中です。が、さすがに当社も最近は懐事情が厳しくて、遅々として進んでいないのが現状です」
当たり前の話だ。国としても一向に成果の上がらないものに対して、気前よく予算を出せるほど余裕があるわけでもない。
だから、今ある技術で一定の成果を上げて予算を勝ち取りたいのだろう。
「ええ、存じてます。これらに関しての基礎研究は終わっていますし、先日、貴重な被験体も手に入りました。近々そちらが望む結果をお見せできると思いますし、そうなれば、まず間違いなくお買い上げいただけるでしょう」
「では、何がしたいんだね、君は」
「先ほども言いましたが、艦娘の存在が露見するのは止められません。そう遠くない将来に艦娘は公式に存在を認められ、活躍するようになるでしょう……ただ、あまりに活躍されて、深海棲艦に対抗するには艦娘だけで充分という流れになってしまっては、うちの商品が売れなくなってしまいます。これは大変困ります」
「大多数の国民は困らないがね。我々も隊員の犠牲者を減らせる――正直な話を言えば、私だって艦娘を積極運用すべきだと思っているし、その際に誰かが今までの責任を取らなければならないのであれば、私がそうするべきだとも思っている」
「さすが。海将なんて地位につく方は人格者ですね」
そう言って男は笑う。
ひとしきり笑った後、その表情を急変させる。
まるで仮面でも脱ぎ捨てるように。
一切の感情が消えた顔で。
即答できる。
無理だ。
たとえその規模が倍になったとしても、到底カバー仕切れるものではない。
国土を守るというだけならば、充分と言えるかもしれない。
だが、この国を守るという定義には、海上輸送路の確保という問題も含まれてくる。
そうなれば、圧倒的に戦力が不足するのは目に見えていた。
「ですから、現実的に考えれば、我が社の兵器を搭載した自衛隊艦艇も主力となるべきです。ですが政府の役人たちの考えはそうならないでしょう。国民の大半も、艦娘たちに全てを委ねれば安心といった風潮になるはずです。そうなってからでは遅いのですよ」
平時の自衛隊が置かれていた状況を考えれば、この理屈は当然と言えた。
要するに無駄な組織という捉え方が一般的だったのだ。
準備をするには、莫大な時間が必要なのだから。
そして事が起きた時。
真っ先に批判を始めるのは、それに対する備えを否定してきた人間だ。
何度もそういった事例に直面しながら、ごく少数がそれを理解せず、ただ声高に叫び、何も考えない大多数はそれに追従する。そして現実を理解し、それを訴える少数を批判してきた。
そんな状況下では国の指導者層ですら、何が真理かを理解していても大多数へ迎合するしかない。
そんな光景を長い間見続けてきた海将にとって、男の言葉は妄想や夢物語などではなく、リアルなものとして受け止められた。
「要するに、君はこの国の未来を売り物として、ここに来たのかね」
「まさか。そんな大それたもの、うちでは取り扱えませんよ。あくまでも私は自社の製品を買って頂きたいだけです。その結果が国の未来に関わってくるというなら、それは大変ありがたい評価をいただけたというところですかね」
煮ても焼いても食えないとは、まさにこの男のことだろう。
「それは艦娘たち自身の力によるところだから、私には何もできんな。まさか戦うなというわけにもいくまい?」
「ええ、もちろん。ただ、戦場では色々起きることもあるでしょう? 何かが起きて戦力が分散されてしまい、結果として輸送船団が被害を受けたりとか。特に佐世保第二の司令官は問題があるようですし……作戦前に交代した方がいいんじゃないですか?」
そう言って、男はコピーされた書類を差し出す。
何も書かれていない表紙の下には、組織外に漏れる事があってはならない文書――艦娘たちが書いた、前回の輸送作戦に関する戦闘詳報があった。
「どうやってこれを……」
「そんなことは気になさらず、どうぞ読み進められてください。きっと新たな発見があるはずですよ」
男の言う通り、海将が受けた報告とはまったく違う事が記載されていた。
評価の高かった作戦中における要所での判断は、そのすべてが佐世保司令ではなく、金剛によるものという、幾人もの艦娘による証言があった。
もちろん、艦娘たちが口裏を合わせて、佐世保司令を貶めるために話をでっち上げた可能性もある。
新たな司令官が送り込まれたとしても、彼女たちを取り巻く状況は何も変わらないのだから。
特に目に付いたのは、金剛自身の手による報告書。
一連の作戦中における判断の根拠が詳細に書かれており、筋は完全に通っている。
佐世保司令が提出してきた報告書よりも、はるかに。言ってみれば完璧に、だ。
最後には、この戦いにおける佐世保司令の一連の行動は私怨を元にした利敵行為そのものであり、これまでの作戦における指揮能力の問題と合わせて、解任を要求するという一文が添えられていた。
「どういうことだね、これは」
「ご覧になった通りですよ。こんな人が指揮官では色々とまずいんじゃないかとは、私でも思いますよ? まあ、すでに報告書は承認されていますし、今お持ちなのもコピーですからね。追求するのも難しいでしょうから、どうしたものか」
海上輸送路の防衛拠点になる艦娘部隊指揮官がこれでは、今後の安全など確保できるはずもない。一刻も早く交代させる必要がある。
だが、その鍵は恐らくこの男が握っている。
「さすがにそこまでは……佐世保の報告書ですから、佐世保にあるものだとは思いますが。こういった廃棄書類というものは、後でまとめて処分しようとして、そのまま忘れてしまうこともありますしね。そういうご経験はありませんか?」
「そういうことか……」
これを使えば、たとえ海将が馬鹿げた指示を出して実行させ、後でそれを否定したとしても、そのすべてを佐世保側の偽装工作として処理することができる。
一つ嘘が発覚すれば、その他のすべてが真実だとしても、そう思ってもらうことは難しい。
男はそうしろと言っている。
汚い手だ。
だが。
艦娘の件が発覚すれば、海将が責任を取ることになるのは間違いない。
もちろん政府もだ。
国内はかなり混乱するだろう。
それでも敵は存在し、国を脅かし続ける。
ならば、できることはただ一つ。
国を守る力を絶やさないこと。
それが自分にできる最後の奉公だと、海将は改めて覚悟を決める。
【艦これ】Fatal Error Systems【後半】
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http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1484192755/
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