幼い頃に見てしまった母のオナニーがいまだに目に焼き付いています…


私は 女性は女房しか知りませんが、これまで 他人のSEXを見る機会が多くありました。根が助平で そんな可能性を感じると、つい期待して覗いてしまうことが あるのかも知れません。しかし 私を育てた母は厳格で、私が6歳のときに 親父に死なれてから、女手一つで 私を大学まで出してくれました。
世間でよく 〝二十後家は立つが 三十後家は立たぬ〟と云いますが、母は親父への操を立て通し 数年前に天寿を全うしました。
若い頃 小耳に挟んだ母の会話で、結婚初夜の感想を 「何ダこんなことか と思った」と云ったので、そのときはSEXへの執着が少ないのかなぁ…とも思っていました。

〝二十後家は…〟と云うのは 結婚して間もなく 夫に死なれた寡婦は、夫婦生活の悦びを 十分には知らないので、操(みさお)を立て通せるが、多少長く夫婦生活を味わった寡婦はSEXの面でも我慢できず大体は再婚する‥、と 云うことのようです。

若いときは〝そんな ものかなぁ〟程度にしか感じていませんでしたが、自分が結婚して ドップリと性生活に浸り、身体でSEXが判って来ると、それがどんなに大変なことであるのかが 良く判ります。

しかしこれからの話は まだ私が独身時代の話なので、そう云う理解も思い遣りも無く 母の行為に、一途に 嫌悪と蔑みを感じたのを憶えています。

敗戦後 焼け出されて、東京の下町の倉庫の二階の一間に 母と仮寓していた頃の話です。
当時はまだ 家庭用のクーラーなども無い頃で、夏などは 二階の窓を開け放して寝ていまいた。

そんなある朝 私は白々明けに、何やらいつもと違う気配に 目が覚めました。
私が北側で母が南側に 西を枕に寝ていましたが、ふと気付くと 右手の母の息遣いが荒いのです。

〝具合でも 悪いのか…〟と身体を起こそうとして 〝ハッ…〟と気が付いたのは母の手の動きでした。
その頃私は 十代の終わりで、もう充分マスを掻き その悪習から抜けられ無くなっていたので、ハッと 瞬間的に判りました。
母は マスを掻いていたのです。

もう夜が明け掛かっていたので 部屋は充分明るくなっていました。
朝凪でしょうか 開け放った窓からは風ひとつ這入って来ません。
その中で母は 夏掛けを剥ぎ退けシゴキを解き、寝巻きの浴衣の前をハダケ 当時で云うズロース(ショーツ)は脇に脱ぎ捨て、肚を丸出しにし 仰向けに寝て居ます。

右足を伸ばし 左足はガニ股に開いて、右手の人差し指と中指が あまり濃くも無い陰毛の中をシュッシュッと擦っています。
私も ワイ本などを見て、ソコにオマメ(実→さね→クリトリス)やヴァギナ(膣)があり その刺激で気持ち良くなることくらいは知っていました。

私は動くことが出来ず ソーッと身体を横たえますが、後ろを向くことも 出来ません。
それに 〝イヤだ!〟と思う嫌悪感と同時に、〝もっと 見たい!〟と云う気もして来ます。

気が付くと 既にペニスはカチカチに勃って、パンツの中で 突っ張っています。
母のマスを見て 倅がペニス勃てている浅ましさが胸を衝きますが、こうなると シッカリと見届けたくなります。

ペニスを上向きに逃がし 少し楽になりましたが、もう先端は カウパー汁でヌルヌルです。
母も マスを始める時は私の寝息を窺ったのでしょうが、今は眼を瞑り 夢中です。

その内に オマメを掻き立てる音がグチュグチュに変わります。
すると 母の手の使い方が変わって来ました。
今までは 肚に添うように上下に擦っていた手が、妙な逆手のような形に 下から陰部に突っ込んでいるようでなのす。

見ていると それを出し入れするので、〝ヴァギナに 突っ込んだな〟と判ります。
それと同時に 今まで動かなかった腰が僅かに上下し始めています。
〝あのいつも凛として オレに厳格な母が、今 ヒクヒクと腰を使っている!〟それだけでもう‥頭が真っ白になり私の方がイキそうになります。

〝こうやって 死んだ親父と母が腰を使ってオレが出来て、アソコから オレが生まれて…〟‥生々しく クスグッたいような気分です。

結婚してから 女房と経験した今考えると、あの時に母がヤッテいたのは 「三点攻め」でした。
私はSEXの最中に 女房を喜ばせようと 右手の人差し指と中指をヴァギナに入れ、親指をオマメに 薬指と小指を肛門に当てて、ズラシズラシに 刺激していて〝ハッ〟と気が付いたのです。

〝そうか昔 あの時母は三点で気分を出して居たんだ!〟 母が三点でマスを掻いていたとは思いも寄りませんでした。

オカズのイメージは 果たして親父だったのでしょうか。
〝親父も ココまで母を仕込んで早死にするなんて…〟‥そんな思いで そのとき私は女房の中で果てました。
〝オヤジ可哀相! フゥ…〟。
しかし当時は そんなことは判る筈もありません。

ただ自分がマスを掻くときの シコシコと扱くテンポに比べると〝妙に動きが小さく 陰湿だなぁ…〟ぐらいの感じでした。

音が汁沢山に グチュグチュからジュルジュルに変わったのも、今考えると 指の肚でただ膣壁を擦るので無く、私たちがヤット見付けたGスポットを 母が既に知っていたことになります。

Gスポットは 雁首の縁でシゴクので無く、対向なら グランスの頭で掬うように擦り、後背なら後ろから 肚側に突き立てるようにペニスの裏筋の処で擦ると、女房なら ヨガッて白目を剥きます。
今にして思うと 〝母さん ヤルねぇ〟と云う感じです。

やがて 流石にグチュグチュのテンポが速くなり、腰の使い方も大きく 最高潮です。
眼は 相変わらず瞑ったままですが、口は半開きになり少し仰向いて そのザマったらありません。

そのうちに 腰を突き出し身を反らせ、硬直したかと思うと 持ち上げた腰がドタリと落ち、「ファゥ…」と 確かにイッタ気配です。
〝やれやれ…〟と思ってみていると まだ手が動いています。

イッタ後も直ぐ止めるので無く 指先だけはGスポットを擦り続けているのでしょう。
これも そのときは判りませんでしたが、女房とヤリ始めてから 思い出して、射精した後に ペニスかそれが萎んだら指で擦り続けると女房は悦びます。

こう云うのは 「SEXの 伝承」になるのでしょうか。
SEXに技術があるなら それを商売人でなく、個々の家庭の方法として 代々受け継ぐことが出来たら、どんなにか性生活が豊かになるだろうと妄想したことでした。

母はそのまま ヴァギナに指を突っ込んで静かになり、やがて 「スゥスゥ…」と寝息が聞こえます。
コチラは眼が冴えて 寝られる処ではありません。
といって 続けてマスを掻く訳にも行かず、モソモソしている内に 30分ほど経って母は起き、左手でチリ紙を鷲掴みに取って 股座に宛行い、右手を抜いて 身の回りを片付け、何事も無かったように 朝飯の支度に降りて行きました。

〝さぁ!… コッチの番〟です‥ これで30分は上がって来ませんから、今度は私がマスを掻く番です。

夏掛けを撥ね退け 寝巻きの前を拡げ、パンツを脱ぎ上向きに寝て 思い切りペニスをシゴキます。
最初は直ぐイッて 精液が上へ20センチほど飛び肚へ落ちました。
続いてシゴクと 今度は5分ほどして 〝ブックン…〟と先端から精液が溢れて滴ります。

ヤット気が済み 肚の精液を拭き取り、チリ紙は 下へ行け無いのでカバンに詰め、出社の途中で 駅のゴミ箱に捨てるのです。

時間になって下へ降り 朝飯を食べましたが味は判りませでした。
その日は会社でも 何やら落ち着か無い一日でした。

考えてみれば 母のマスは苦しい操の代償だったのです。
それは 生活も大変だったでしょうが、三十後家がSEXの味を覚えた頃に夫に死なれ、人生のこんな素晴らしいものを犠牲にして 私を育てて呉れた思いはどんなだったでしょう。
只々 感謝のほかはありません。

その日は会社から戻っても マトモに母の顔を見ることが出来ませんでした。
母は 「会社で 何かあったの?」と聞いて来たので、「ちょっと ね…」とだけ答えて置きました。

母には それからも叱られることがありましたが、叱られながら あの腰の使い方と手の動きを思い出すと、顔がニヤケて 「変な子…」と云われました。



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