こんな日が続けばいいのに その2

671 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:12:54 h0ix73y6


 何かが起こったわけでもない。

 今年に入ってから、ヒメは以前と同じように、俺たちと過ごしてくれるようになった。
 大晦日から、高校に入学するまでずっと。

 でも、高校に入学して少し経った頃から、また、俺とサクラを避けるようになった。
 どうしてなのかは分からない。

 俺は高校に入ってからも、ヒメと一緒に過ごせると思っていた。
 だから、当初は帰宅部でいようとした。ヒメもそうだろうと思って。
 でも、彼は文芸部に入るって言い出して、サクラもまた、美術部に入ってしまった。

 俺は仕方なくヒメにあわせて文芸部に入ったけど、ヒメとの距離を保てたわけではなかった。



672 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:15:13 h0ix73y6

 ヒメとの間に距離ができると、自然と、サクラともあまり話さなくなった。
 部活が違うというのも大きかったし、そもそも俺とサクラは、二人きりで話をするのに、まだ抵抗があった。
 後ろめたさのような気持ち。
 
 ……たぶん俺は何かを見逃したんだろう。そういう感覚が、ここ最近ずっとある。

 ヒメは、入学してから、頻繁に屋上に通うようになった。そこで、いつも誰かと話している。
 女の子。

 彼はサクラが好きなんだと思っていた。だから、混乱した。
 ヒメが何を考えているのか分からなかった。

 俺も屋上に何度か行ってみたけれど、特に何も感じられなかったし、不思議と誰もいなかった。

 だから俺は屋上に行かなくなった。部活にも顔を出さなくなった。
 サクラとも話さなくなって、ただ毎日を黙々と消化した。
 何もかもがあからさまに、予兆もなく変化していくことだけが、おそろしかった。


673 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:16:06 h0ix73y6

 それでも、何もせずにそれを見過ごすのは嫌だった。
 
 そんなふうにして、彼らとの関係を失うのが嫌だった。

 なんとか踏み止まらなくてはならない、と。
 そして、先月。六月のある日、俺は屋上に向かった。そこにはヒメしかいなかった。

 だから俺は訊ねた。
 どうしてまた、俺たちを避けるようになったんだ、と。
 
 べつに理由があってのことじゃないよ、と彼は言った。
 家のこととか、学校のこととか、ばたばたして忙しかったんだ、と。
 避けようとしたわけじゃない。でも、そういうものだろ。

「いつまでもずっと同じままではいられないんだよ」、と、ヒメは言った。
 俺はその言葉にショックを受けて、何も言い返せなかった。


674 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:16:36 h0ix73y6


 でも、たしかにそうなのかもしれなかった。
 俺はまだ、サクラの寝顔を夢に見ている。その瞬間は、いつもヒメのことを忘れている。

 俺はサクラのことが好きだ。
 ヒメが俺たちを避けるようになって、二人きりの時間が増えたとき、俺は自分が満ち足りた気持ちになるのを発見した。

 いつまでも同じままではいられない、という言葉は、じわじわと俺の頭の中を侵食していった。

 屋上でのその会話以来、俺とヒメは言葉を交わしていない。
 サクラの方も、話をしていないらしい。

 喧嘩したのか、とサクラに何度も問いかけられたけど、あれを喧嘩と言っていいのかも分からない。
 
 なんであれ、ヒメの言葉をサクラに告げるわけにはいかなかった。
 
 結局、ヒメの言う通りなのかもしれない。
 いつまでも変わらない関係なんてない。サクラのことが好きだ。
 
"三人一緒"が無理ならば、ヒメがそれを拒むならば、俺はサクラの手だけでも掴むべきなのかもしれない。
 だって俺は彼女のことが好きなのだ。


675 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:17:27 h0ix73y6

 ……卑怯な言い訳のようでもある。 
 自分のことがよくわからない。

 七月に入ってから、俺はもう一度だけ屋上に向かった。
 ヒメがいるかもしれない、という期待(……なのだろうか?)もあったが、結局彼はいなかった。

 夏休みが近かったかもしれないけど、屋上は気持ちよかった。

 陽射しはぽかぽかで、風はさらさらで、居心地がいい。

 思わず伸びをして、制服のままで寝転んだ。
 太陽がまぶしくて、あたたかい。目を閉じると、世界は赤みがかった肌色に覆われた。
 蝉の鳴き声。
 
 そこに、サクラが現れた。
 何を言われるのかな、と俺は思った。彼女と話すのは久しぶりだった。
 彼女は、ちょっと怯えたみたいな態度で、
 
「喧嘩、した?」

 と、そう訊ねてきた。俺は知らないふりをした。


676 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:18:15 h0ix73y6

 そしてヒメのことを考えた。彼の言葉を思い出した。
 それから急に悲しくなった。
 
 だからだろうか?

 一緒に帰ろう、と俺は言って。
 彼女を誘って。
 コンビニに寄ったとき、夏祭りのポスターを見つけて。

 気付いたらサクラを誘っていた。

「ふたりで?」とサクラは訊き返した。
「ふたりで」と俺は頷いた。
「うしろめたくない?」と彼女は言った。

 もちろんうしろめたかった。


677 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/03(月) 03:18:51 h0ix73y6


 頭の中で、考え事は堂々巡りを繰り返している。
 
 俺はひょっとしたら、ヒメが自分たちから距離を置いたことを、喜んでいるのかもしれない。 
 分からない。

 とにかく俺はもう、彼女を誘ってしまった。
 
 ヒメに対する後ろめたさはあった。不思議な話だ。距離を置いたのはヒメの方なのに。

 それでも、実際に行動を起こしたという充実感のようなものが、俺の胸をついた。
 いま、なんとなく分かった。俺はサクラのことが好きで、そのことを彼女に伝えてみたいのだ。

 言ってしまいたいとは、ずっと前から、思っていたけど。
 彼女が望んでいるのは"三人一緒"であって、それを壊すことになるから、言えなかった。
 もっと言えば、うまくいくわけがないと分かっていたから、言えなかった。

 でも、仕方ないか、と思う。
 
 とにかく告げてみよう。それで何かが壊れるとしても、それは今更なのだ。
 
 少し、気分が晴れた。部長が言っていた通り、文章を書くことにもたしかに効用はあるのかもしれない。

 とにかく、サクラに気持ちを告げよう。そうしなければ、どうにもならない。
 
 ……でも、と、どうしても考えてしまう。
 ヒメはいったい、どう思うだろう?


681 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:10:39 .T1dkBvI


 今日が一学期の終業式だった。
 
 俺はサクラと一緒に駅前の喫茶店に行った。
 最近できた店らしいが、なかなかに盛況で、彼女が噂に聞いたとおり、シュークリームが絶品だった。
 
 例の決意を固めてから何日も、俺はただぼんやりと日々を消化してしまっていた。
 それが今日、なんだか揺らいでしまった。

 喫茶店にはヒメの妹が来ていた。
 顔を合わせるのは久しぶりだったけど、俺には彼女のことがすぐに分かった。

 ここ最近ずっと顔を合わせていなかったのに、どうして、よりにもよって今、会ってしまったんだろう。
 ヒメのことを考えないようにしていたこの時期に。

 誰が悪いというわけでもないのに、まとわりつくみたいに離れてくれない。
 別に疎んでいるわけでもないのに、不安になっている自分を見つけて、嫌気が差す。


682 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:11:18 .T1dkBvI

 俺と一緒にいるとき、サクラはときどき不思議そうな顔をする。
 なにかに気付いたみたいな顔を。

「どうしてこの場にヒメがいないのだろう?」というような顔を。
 俺はその表情について、努めて考えないようにした。

 今となっては既に、俺はヒメと仲直りしたいとは思わなくなってしまった
 
 ヒメと一緒にいられることよりもむしろ、サクラと二人でいられることの方に、心が傾いてしまっている。

 けれど、サクラはきっと、ヒメと居たいんだろう。

 猫を助けられる人。走る車の前に飛び出せる人。

 俺には、同じことはきっとできない。
 ……これ以上考えるのはよそう。


683 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:12:03 .T1dkBvI

 そういえば、最近公園にいた女の子。彼女はいったい、なんだったんだろう?
 この辺りの子だと言っていたけど、どうにも見覚えがない。

 願い事がひとつだけ叶うなら、なんて言っていたけど。

 妙に印象に残る女の子だった。

 とはいえ、まあ、あれ以来話してないから、関係ないんだけど。
 
 彼女の話は面白くはあったけど、俺はきっと何も願ったりはしないだろう。
 そんな都合の良く叶う願いなんかに頼ったら、きっといろんなことが分からなくなってしまう。

 願いがあるなら、それを自分の手で叶えられるように努力するべきだ。
 まあ、子供の話に真剣な返事をしたって、なににもならないんだけど。


684 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:13:35 .T1dkBvI

 とにかく、夏祭りの日だ。
 夏祭りの日、俺はサクラに告白する。

 その結果どうなるか、分からない。

 いいかげん日記のようになってきて気恥ずかしいし、この文章も終わりにしてしまおう。
 書き慣れていないから、どう結べばいいのか分からない。……まあいいか。
  
 話はあちらこちらを行ったりきたりして、ちっともまとまった文にはなっていない。
 でも、とにかく、頭が書き始めるまえよりもすっきりした気がする。

 思っていたほど、無意義な行為でもなかったのかもしれない。

 たぶん、明日の朝には破り捨ててしまうような気がするけど。
  
 とにかく、これでおしまいだ。


685 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:15:10 .T1dkBvI

◆05-01[Nowhere]


 "なにか"が、転がっている。

 少女の形をした、なにか。
 それは、死体のように見える。
 
 死んでいるように見える。
 
 それは、ベッドの上に転がっている。
 でも、本当にベッドの上なのだろうか?
 草むらの上のようにも見えるし、どこかの廃墟の一室の、床板の上だという気もする。

 それは、汚れている。何かに汚されてしまっている。
 裸だった。肌を、あますところなく、晒していた。
 表情も、●●も、 器さえも、さらしていた。


686 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:16:29 .T1dkBvI

 それを、眺めている人間がいる。 
 しげしげと、興味深げに、あるいは不愉快そうに、あるいは下劣な笑みを浮かべながら。
 とにかく、人間は"何か"を眺めていた。

 眺めている人間は誰だろう? 
 男であったり、女であったりした。中年であったり、子供であったりした。 

 死体のような"なにか"は、けれど、死体ではない。
 
 小さく開かれたままの口からは、掠れるような、かすかな息遣いが、たしかに聞こえる。
 全身は、鼓動に合わせて、注意深く観察しなければ気付けないほど小さく、かすかに、震えていた。

 少女の姿は、誰かに似ている。


687 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:17:24 .T1dkBvI

 横たわる少女のそばに、人間が近付く。

 その姿もまた、誰かに似ていた。
  
 見知らぬ誰かという気がする。見知った誰かという気もする。
 とにかく、その誰かは、少女の体に近付き、触れる。

 少女は、微かに体を揺らしただけで、声も漏らさなかった。

 誰かはにんまりと唇を歪め、少女の体に覆いかぶさる。
 そして、舐る。

 唇、頬、瞼、鼻、耳、首筋、●●、鎖骨、背筋、両腕、手の甲、指先から指の間まで。
 あるいは爪先、踵、踝、脹脛、膝、太股。

 そこで行われているのは、つまりは 辱だった。
 そこにあるのは甘美な悦楽ではない。一方的な征服でもない。

 誰が望んだわけでもなく、情緒的な要素はすべて排除されている。
 捕食行為に似ていた。

 誰かが、少女を●している。
 次々と。かわるがわる。


688 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:19:34 .T1dkBvI

 朝が終われば夜が来るように、ひとりが終えると、次のひとりがやってくる。それが延々と続く。
 
 行為はすべてが似通っていた。何度も似たような光景が繰り返される。
"俺"は、それを眺めている。

 不意に、少女の顔に、誰かの面影がよぎる。

 最初は、アメだった。
 死体のようになったアメが、そこに転がっている。かすかな呼吸だけを漏らし、誰かに抱かれている。
 身じろぎもせずに。誰かがアメの唇を舐る。

 けれど、アメの面影は、気付けば先輩のものと入れ替わっている。
 彼女はうつろな表情のまま、誰かの指先が自らの●●を捩じるのを受け入れている。

 "だれか"は、黙々と、ルーチンのように、彼女たちの体を舐り、●る。
 
 面影は消えては浮かぶ。"俺"はその光景を眺め続けている。
 妹が誰かに抱かれている。俺はそれを眺めている。彼女が表情を歪め、息を切らすのを眺めている。

 名前も知らない誰か。名前を知っている誰か。誰かが●される姿を、俺はただ眺めている。


689 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/04(火) 03:21:03 .T1dkBvI

 ふと、悲鳴が聞こえた。
 悲鳴? あるいは泣き声なのかもしれない。悲しみからのものではない。
 むしろそれは、肉体的な痛みから生まれた絶叫だったのかもしれない。

 叫んでいるのは、シロだった。

 シロは拒絶している。肉体を激しく動かし、抵抗している。
"誰か"はそれを殴る。シロの声はとまらない。酸素を求めて●ぐように、彼女の形相は必死そうに歪む。
 
 突き立てられたのはナイフだった。シロは叫ぶのをやめ、苦しげな呼吸に嗚咽を混ぜる。
 大粒の涙をこぼしながら、彼女は必死に痛みをこらえている。
 悲しみとか、絶望。そういう感情が、具体的に彼女を襲ったとは考えがたい。
 
 そこにあったのは、痛みと震えと恐怖だけだ。

 俺はそれを眺めている。それを眺めている自分に気付く。
 そして、声をあげる。「やめろ」、と。震えた声だった。馬鹿げた話だ。
 そして、"誰か"は、鬱陶しげに、気だるげに、こちらを振り返る。

 その顔は、俺の顔によく似ていた。"誰か"がしたこと。でもそれは、"俺"がしたことと似ているような気がした。

 不意にノイズが走る。映像が途切れる。景色が黒く染まる。
 何もない空間に、俺は放りだされる。

 遠くから、ノックの音が聞こえる。


693 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:32:33 jsgocwuY


「お兄ちゃん、朝だよ」

 ノックの音。

「今日も学校だよ。起きないと、遅刻するよ?」

 声。
 
 そうだな、と俺は思う。

 朝だ。
 朝が来たら、起きなきゃいけない。

 体を起こす。

 瞼を手のひらでこする。妙な夢を見ていたような気がする。

「目、覚めた?」

 声に、目を向ける。妹はこちらを見つめている。目が合うと、にっこり笑った。

「おはよう、お兄ちゃん」

 おはよう、と俺は返事をした。


694 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:33:08 jsgocwuY


 太陽の光が街並みに降り注いでいる。
 朝だというのに、うっとうしいくらいの蝉の鳴き声が聞こえる。元気な奴らだ。分けてほしいくらいだ。

「暑いね」

 手のひらで庇を作って目元をかばいながら、妹は辺りの様子を眺めた。

「うん。ちょっと常軌を逸してる」

「今日、三十度超えるかもって」

「夏だなあ」

「日焼けしそう」

「クリーム塗った?」

「もちろん」

 妹は得意げに笑う。


695 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:34:55 jsgocwuY

 二人で並んで通学路を歩いていると、道の向こうに、ふたりが待っていた。

「おはよう」

 と、ユキトは言った。
 追いかけるみたいに、サクラが、

「おはよう」

 と同じ言葉を放って笑う。

「おはよう」、と俺も笑う。

「おはようございます」と妹がにっこりと頭を下げる。
 俺たちは特別な言葉もなく合流し、四人並んで通学路を歩き始めた。


696 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:35:59 jsgocwuY

「もうすぐ夏休みだけど、何か予定ある?」

 サクラは俺とユキトの間を堂々と歩いた。いつも前を歩くのは彼女だった。
 妹は、どことなく距離を置いて、俺の斜め後ろを黙ってついてきている。

「特には」と答えると、サクラは間髪おかずに「部活は?」と訊ねてきた。

「まあ、多少は顔を出すけど、基本は出なくても問題ないはずだし」

「そっか」

 頷いて、サクラは何かを考え込んだ。

「どうしたの?」

 訊ねたのはユキトだった。俺と彼はふたりでサクラの方を見る。彼女の言葉の続きを待つ。

「わたしは、夏期講習にいったり、友達と遊んだり、部活に出なきゃいけないんだよね」


697 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:36:39 jsgocwuY

「ふうん?」

 そりゃそうだろ、という思いを飲み込みながら、俺は頷いた。

「でも、それだけじゃなんかなあって思うの」

「……それだけ、って」

「つまり、わたしたちは高校生になったわけでしょう?」

「そうだね」

「言いたいこと、分かる?」

 さっぱり分からない。

「苦しかった受験勉強のシーズンを終えて、期末のテストも終えて、久しぶりの長期休みなんだよ?」

「うん」

「遊ぶしかないでしょ?」

 サクラは当然みたいな顔で言う。俺とユキトは顔を見合わせた。


698 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:37:59 jsgocwuY

「だから、友達と遊ぶんだろ?」とユキト。

「もちろん。でも、もっと他に、何かあってもいいと思うんだよ」

 サクラはにっこり笑う。

「一緒に苦しい受験勉強の時間を乗り越えてきた仲だし、せっかくの休みなんだから、一緒にたくさん遊ぼうよ」

「……」
 
 その"苦しい受験勉強の時間"の大半を、俺は「勉強ができるから」という理由で一緒に過ごせなかった気がするのだが。
 視線を向けると、サクラはさっと顔を逸らして、ごまかすみたいに笑った。

「……そのことは謝ったんだから、いいでしょ」

 俺は溜め息をついた。べつに本気で咎めたいわけでもないんだけど。

「急に避けられて、俺がどんな気持ちで毎晩勉強してたと思ってるんだよ」

「だから、そのことは謝ったってば」

 開き直るみたいなサクラの声に、ユキトが声をあげて笑った。


699 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:38:46 jsgocwuY


「それはさておき」、とサクラは真顔で話を戻した。

「夏休みの話。ふたりとも、暇?」

「暇だよ」

 ユキトは躊躇なく答えた。

「部活もサボるつもりだったし」

 俺は呆れて溜め息をついた。

「ユキト、最近サボりすぎじゃない?」

「……え、そう?」

「部長、けっこう気にしてるみたいだよ」

「自分としては、けっこう出てたつもりだったんだけど」

「まあ、どうでもいいけど、休み中も多少は顔出した方いいよ」


700 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:40:03 jsgocwuY

「部活中寝てばっかりのヒメに言われてもな……」

 寝てばっかりなんだ、と、斜め後ろで妹が呆れた声音で呟くのが聞こえた。

「部活の話はともかく」と、サクラが強い調子で話を区切った。
 
 ちょっと前までぼんやりした感じだったのに、最近の喋り方はやけに活力に満ちている。
 また三人で登下校するようになってから、だろうか? よく思い出せない。 

「ともかく、夏休みの話。わたしは、たくさん遊びたいの」

 サクラは胸の前でぐっと握り拳をつくった。

「プールに行ったり、バーベキューしたり、海にいったり、花火をしたりしたいの」

「……すればいいだろ」

 俺の声に、サクラはちょっとむっとした様子だった。

「ヒメ、最近わたしに冷たい」

 俺は溜め息をついた。彼女は五年くらい前から、同じ台詞を何度も言い続けている気がする。


701 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:40:45 jsgocwuY

「やっぱり、彼女ができたから?」

 サクラは不機嫌そうに質問をぶつけてくる。ユキトが「え? 彼女できたの?」と大袈裟に目を見開く。
 何気なく妹の方に目を向けると、「そんな話は聞いていません」と言いたげな視線で俺を見ていた。
 ……もし本当に彼女ができたとしても、妹に教える義務はないはずなのだが。

「彼女じゃないって、五回くらい言ったよ」

「でも、仲良さそうだったし。毎日みたいに会ってるんでしょ?」

「おまえとだって毎日みたいに話してるけど、べつに付き合ってるわけじゃないだろ」

 俺の言葉に、サクラはちょっと戸惑ったみたいに視線を揺らした。

「わたしの場合は、あれだよ」

「どれ?」

「……ウェスターマーク効果、みたいな?」

「それ、仮説ですよ」と、なぜか妹が真剣な顔で口を挟む。
 サクラは虚を突かれておろおろしていた。


702 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:41:20 jsgocwuY


「実際問題、付き合ってないの?」

 サクラはやけにしつこくそのことを気にした。

「付き合ってないし、そもそも、今はもう会ってない」

「……どうして?」

「……」

 告白されて、逃げられて、それ以来顔を合わせていない、と言ったら、話が変な方向に進みそうだ。

「それにしても、今日は暑いね」

 俺があからさまに話を逸らすと、サクラはじとっとした目でこちらを見つめた。

「だなー」とユキトは相槌を打ってくれる。ほんわかした彼の性格には、こういうとき助けられる。
 ふと視線を感じて振り返ると、妹もまたこちらを疑わしげに眺めていた。

 俺は視線を空に逃がす。夏の青空は低くて近い。


703 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:43:04 jsgocwuY


 教室につくと、タイタンが俺の席に座って窓の外をぼんやりと眺めていた。
 透明なガラス越しに、彼は外の世界を眺めている。

 鳥が飛んでいる。木々がざわめいている。太陽の灼熱。土色に光るグラウンド。
 すべてがガラス越しの。
 タイタンは鬱陶しげに額の汗をぬぐった。

「おはよう」と俺が声を掛けると、「おはよう」と彼も返事をしてくれた。

 ユキトとサクラの席は離れているから、彼らはそちらに鞄を置きにいく。

 暑さのせいだろうか、タイタンの表情はいつもより気だるげだ。
 ……あるいは、眠いのだろうか?

「どうした?」

 訊ねると、彼は「ああ、うん」と曖昧に頷く。それからしばらく黙り込んでしまった。
 俺は机に鞄を置く。そのまま手持無沙汰に立ち尽くした。
 
 たっぷり十五秒の沈黙の後、声が掛けられる。

「ヒメ、最近、図書室に行った?」


704 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:43:36 jsgocwuY

「図書室?」

「うん」

「……いや」 

 行った、だろうか?
 ……行っていない、ような気がする。
 
 妙に気になって、俺は鞄の中身を探る。

『ぼくらはそれでも肉を食う』。

 ……こんな本、借りたっけ? でも、たしかに図書室の本だ。

「たぶん、行ったみたいだ」

 俺はそんなふうに、曖昧に答えた。奇妙な返事だったけれど、彼は気にしなかったらしい。

「そっか」

「図書室がどうかした?」


705 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:44:06 jsgocwuY

「司書さんの様子がおかしいんだよ」

「おかしい?」

「うん」

 彼は真面目な顔で頷く。そしてまた視線を窓の外に向けた。
 何を見ているんだろう? 何も見ていないのかもしれない。窓を見ているのかもしれない。

「ちょっと落ち込んでるみたいだ」

「ふうん。心配だな」

 タイタンは胡散臭そうな顔で俺の方をちらりと見た。

「何、その顔」

「ヒメの口から"心配"なんて言葉が出てくると、ちょっと不安になる」

 人をなんだと思っているんだ。俺だって、普通に人を心配したりする。


706 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:45:22 jsgocwuY

「まあ、落ち込むことくらい誰にだってあると思うけど……昼休みにでも、顔出してみるか」

 俺の言葉に、タイタンは何気ないふうに頷く。
 それから、ちょっと怪訝げな顔をして、またこちらを見た。

「今日のヒメは、変だな」

「どこが?」

「普段なら、もっとどうでもよさそうな顔してる」

「そんなことないだろ」

「あると思う」

「……おまえ、俺をなんだと思ってるんだよ」

「情緒的ニート」とタイタンは笑いもせずに言う。


707 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:46:38 jsgocwuY


 昼休み、本を返しにいくために教室を出ようとしたところで、サクラに声を掛けられる。

「ヒメ、どこ行くの?」

「図書室」

「お弁当食べてからにしたら?」

 彼女は自分の巾着を掲げて指で示した。俺は肩をすくめる。

「後にする。返すの忘れそうだし」

「じゃあ、待ってるから早く戻ってきて」

「二人で食べてなよ」

「なんで?」

 なんで? と。
 本当に不思議そうにサクラが首を傾げるものだから、俺はなんだか、不安になった。
 その光景。俺をまっすぐに見て、堂々と話しかけてくるサクラの姿。


708 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:47:21 jsgocwuY

 逃げるみたいに背を向けて、教室を出ようとしたところで、誰かにぶつかった。

「あ、ごめん」

 謝ってから、相手の顔を見る。

 残像。
 幻聴。

 景色が歪む。蘇りそうになった記憶の予感に、俺の中の何かが蓋をした。

 ぶつかった女の子は、体勢を崩したり、転んだりはしなかったようだった。
 俺は少しほっとしてから、もう一度謝る。

「悪い。前見てなかった」

「いや、こっちこそ、ごめん」

 女の子は謝った。何を謝ったのかは、よく分からなかった。


709 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/07(金) 01:47:59 jsgocwuY

 教室に入りたいのかと思って、入口から少し体をずらしたけれど、彼女はそのまま立ち尽くしていた。

「入らないの?」

「あ……」

 どうかしたのだろうか、こちらを見て、黙り込んでしまった。 
 見覚えのあるクラスメイト。何度か話したことだってある。
 
 名前だって、ちゃんと……覚えている、はずだ。

 彼女はもう一度「ごめん」と言うと、目を逸らして、教室の中にぱたぱたと入っていく。

 俺はその姿を見送ってから、溜め息をついて教室を出る。
 どうにもクラスで浮いているような気がした。




711 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:22:47 3iGU.nD6


「なんだか久しぶりだね?」と、司書さんは言った。
 
「そうでしたっけ?」と俺は問い返す。

「そんな気がする」

 彼女は貸出カウンターの内側でパイプ椅子に腰かけて休んでいた。
 俺は本を差し出して返却を申し出る。司書さんは手続きをしながら口を開いた。

「今日は何か借りていくの?」

「……気分じゃないので」

「ふうん?」

 ちょっと不思議そうな顔をしながら、彼女は本を受け取った。
 彼女はどことなく疲れたような顔をしているように見えた。


712 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:24:14 3iGU.nD6

「なにかありましたか?」

「え? どうして?」

「いや。疲れてるみたいだから」

「そんなことないよ。なんでかな」

 彼女は本当になんでもないみたいに笑った。

 昼休みが始まったばかりだからか、図書室には、まだ人の姿がない。
 俺以外の利用者はいないようだった。

 真昼の太陽が外を照らしているせいで、ただでさえ薄暗い図書室がいっそう影を帯びて見える。
 廊下の向こうから騒々しい笑い声が聞こえた。誰かがどこかで笑っている。
 でも、そのどこかは、ここではない。

 静けさのせいで、世界を遠く感じる。こういう気分だって、べつにきらいってわけでもないけど。
 なんとなく寂しそうだった。


713 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:25:22 3iGU.nD6

「きみは……」

 司書さんは口を開いた。俺は黙って続きを待った。
 彼女は、けれど、思い直すみたいに首を振って、自嘲気味に笑った。

「ごめんなさい。何か、言いたいことがあったはずなんだけど……」

 思い出せないや、と小さな子供みたいに笑った。 
 俺も合わせて笑うべきだったかもしれないけど、それはなんとなく嫌だった。

 それから、ふと、思いついたように、彼女はもういちど口を開く。

「ねえ、きみは、この世界についてどう思う?」

「……は?」

 ずいぶん抽象的な問いかけ。


714 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:26:07 3iGU.nD6

「どういう意味ですか?」

「つまり、この世界」

「……さあ。他の世界を知らないもので」

 彼女はちょっと目を細めて、俺の顔をじっと見つめた。
 どういう意味だ?

「変って、感じない?」

「……変?」

「つまり、同じことを何度も繰り返してるような感じ」

 俺には彼女の言いたいことが分かりかけたような気がしたけれど、その感覚は具体的な言葉になる前に封じ込められた。
 押さえつけられている。

「同じ日々。でも、どこか違う。そんなふうに、何度も繰り返されている気がする。錯覚かもしれない」

「……なにかの、本の話ですか?」

 彼女は苦笑した。今度は俺も合わせて笑った。ごまかすみたいに。
 廊下の向こうから誰かの話し声が聞こえる。ざわめきを、遠くに感じる。


715 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:26:44 3iGU.nD6

「もし繰り返されているとしたら、それはわたしのせいなのかもしれない」

「……どういう意味ですか?」

「わたしね、もうすぐプロポーズされるのよ」

「……はあ」

「でも、たぶん、わたしは幸せになっちゃいけないんだ。だから、"その先"に進めなくなっちゃったの。 
 たぶん、そうだと思う。わたしは幸せになっちゃいけない。それを忘れてたから、怒られてるんだ。きっと」

「……何の話ですか?」

「中絶経験があるのよ」と司書さんは言った。

「何もなかったみたいに自分だけが幸せになろうだなんて、無理な話だったんだよね。
 だから、幸せになる手前で、何度も引き離されてるんだ。そのことを、わたしに思い出させようとしてたんだよ」

 俺は答えられなかった。違う、と言いたかった。そうじゃない、と。
 でもそう言いきれるだけの根拠を俺は持っていない。だから俺は……。

「何かの勘違いじゃないんですか?」

 何も知らないようなふりをして笑い飛ばした。
"知っている"ことを思い出そうとすると、記憶に蓋がされる。反射みたいに。


716 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:28:06 3iGU.nD6


 図書室からの帰り道の途中で、廊下の喧噪を耳にしたとき、俺はほっとした。
 ざわめきが近くにやってくる。現実感。他者の存在感。そういうものが現れる。

 他者を実感するとき、世界はたしかにそこに存在する。
 
 司書さんと二人きりの図書室は、現実感に乏しくて、隔絶されているような気がした。
 箱の中にいるような。

 校舎のざわめきも、蝉の鳴き声も、太陽の光もすべてを遠く感じる場所。
 地上から飛行機を見上げるような。

 俺はそんな場所にもう戻りたくない。


717 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:29:38 3iGU.nD6


 教室に戻ると、サクラとユキトは俺のことを待っていた。
 こちらに気付くと声をあげて手招きしてくる。周囲の視線がこちらに集まる。

 正直困る。

 教室にタイタンはいなかった。図書室に行く途中もすれ違わなかったけど、いったいどこにいるんだろう。
 彼の行動はいつもよく分からない。彼にとっては俺だってそうかもしれないけど。

 俺が近付くと、ふたりは「遅い」と不満げな声をあげた。
 サクラとユキトの席と、それから俺は近くの空いていた席を借りて、弁当を広げる。

「ヒメはどうして本が好きなの?」

 弁当をつつきながら、サクラは呆れたような調子でそう訊ねてきた。

「どうしてって?」

「つまんないでしょ、本なんて読んでも」


718 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:30:12 3iGU.nD6

 どうだろうね、と俺は曖昧に答えた。感じ方の問題だ。
 
 俺が答えずにいると、サクラは「よくわからない」という顔で食べるのに集中し始めた。

 サクラとユキトはそれからいくつかの話題を机の上に広げた。
 俺はそれらにことごとく触れることができなかった。

 財布に入っている金じゃ買えないものばかり置かれている服屋みたいだ。
 でも俺はあまり気にしないことにした。

 一緒にいる友人の財布に金が入っている。
 俺には買えないかもしれないが、ここにいてはいけないわけじゃない。 

 べつに悪いことをしてるわけじゃない。


719 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:31:01 3iGU.nD6


 昼食を取り終えてそのまま雑談していると(俺はほとんど黙っていたけど)、声が掛けられた。
 誰だろうと思って三人そろって声の方を振り返ると、クラスメイトが立っていた。

 さっきぶつかった女の子。

「ごめんね、話してる途中で声かけて」
 
 と彼女は言った。

「どうしたの?」と訊ねたのはサクラだった。俺とユキトは黙って成り行きを見守る。

「こないだのお礼言っとこうと思って。ほら、先週、自転車の鍵探すの手伝ってもらったでしょ?」

 ああ、とユキトは頷いた。サクラも頷いた。
 俺は思い出せなかった。そんなことしたっけか。

 でも、したような気がする。「した」と言われれば。「した」ような気がする。


720 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:32:01 3iGU.nD6

「ありがとね、ホントに」

 女の子は言う。サクラは頷く。

「いいよべつに、お礼なんて」

 それからサクラは、ちらりと、俺とユキトの方に目を向けた。
 
「うん。でもホントに助かったからさ。だから、はい」

 と言って、彼女はポケットから飴を取り出した。

「お礼」

 彼女が差し出したチュッパチャップスを、サクラは遠慮がちに受け取った。

「はい、二人も」

 いいよ、と断れる雰囲気でもなかった。

「ありがとね」
 
 と彼女はもう一度言う。サクラが受け取ったのはコーラ味だった。ユキトがプリン味。俺はグレープ。


721 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:32:46 3iGU.nD6



 そんなふうに昼休みは過ぎていった。

 満腹になったせいか、午後の授業は眠くて仕方ない。
  
 妹の弁当は美味しかったなあ、と俺は思い出した。
 昼過ぎの日差しはまぶしくて、窓際の席では目を開けていられない。

 誰かがカーテンを閉める。教室が薄暗くなる。俺は眠くなる。

 教師の念仏。もわもわという熱気。誰かが窓を開ける。風も吹きこまない。
 チョークの擦れる音、時計の分針の進みがやけに遅く感じる。

 頭が重い。
 ノートの上に頬杖をつき、机に開いた穴をぼんやりと見つめる。
 シャープペンの先を使って、コツコツとその穴をつついてみる。別に意味があるわけでもない。
 
 瞼が重い。今度は手の甲をシャープペンでつついてみた。

 痛みでは目は覚めない。


722 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:33:43 3iGU.nD6


 放課後、俺が鞄を持って立ち上がると、ユキトが声を掛けてきた。

「ヒメ、帰ろう」

 サクラは? と訊ねると、あいつは部活だから、とすぐに答えてくれた。俺は溜め息をつく。

「俺も部活」

「出るの?」

「おまえも、部活は?」

 彼はちょっと困った顔で頬を掻いた。

「文芸部の空気、苦手なんだよ、俺」

「なんで入ったんだよ」

「そりゃ、ヒメが入ったからだよ。二人ともどうせ帰宅部だと思って油断してたら、どっちも部活に入っちゃうんだもん」

「なんだよ、それ。……とにかく、おまえは出ないの?」


723 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:34:21 3iGU.nD6

 んー、と唸りながら腕を組み、しばらく悩んでいたようだったが、結局彼は首を横に振った。

「今日は帰る」

「用事あるの?」

「まあ、べつにないけど」

「じゃあ、顔だけでも出せよ」

「えー?」

「俺も今日は長居しないから、そしたら一緒に帰れるだろ」

「うーん」

 ユキトはまた、十秒くらい唸っていた。その後ようやく首を縦に振った。不承不承、というように。


724 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/08(土) 00:35:12 3iGU.nD6


 部室までの廊下を歩く途中で、ユキトはぼんやりと口を開いた。

「最近、サクラ、元気じゃない?」

「おまえもそう思う?」

 そう返事をすると、うん、と彼は頷いた。

「やっぱり、ヒメが居なきゃダメなんだよ、サクラは」

「まさか」と俺は言った。言ってしまってから少し後悔した。

 彼はそれきり黙り込んでしまった。



726 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:19:00 e4aEtMWg


 部室に入ってすぐ、部長はユキトの存在に気付いたみたいだった。
 それから彼女は柔らかに彼に話しかけた。

「久しぶりですね?」と。

 皮肉と受け取ったのか、ユキトは苦笑していた。
 俺はそのやりとりを横目に定位置に座る。部長は視線も寄越さなかった。

 鞄を床に置いてパイプ椅子に腰かける。昼下がりの柔らかな風が開け放たれた窓から吹き込んでくる。

 何かについて考えようかと思ったけど、何も思いつかなかった。
 膨らむカーテン。

 部長とユキトは入口で何かを話している。
 声は聞こえない。


727 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:19:38 e4aEtMWg

 俺は退屈して、部室にいる部員の数を数えてみることにした。
 俺とユキト、部長を含めて十三人だ。三年が四人、二年が五人、一年が四人。
 
 男子が五人で女子が八人。身長順に並べたら誰がいちばん高いんだろう。
 たぶん、一番前は部長だろうけど。

 どうでもいいことを考えているうちに話を終えたらしく、ユキトは溜め息をつきながらこちらにやってきた。

「なんで先に行っちゃうんだよ?」

 部長には聞こえない程度の声で、ユキトは言った。

「べつに話すこともなかったから」

 本当は特に理由があってのことではなかった。気分だ。

「俺、苦手なんだよ」

「なにが?」

「部長。なんか、嫌われてる気がする」

「なんで?」

「分からないけど」


728 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:21:05 e4aEtMWg

 それから俺はリレー小説のノートを探したけど、見あたらなかった。
 誰かが書き足しているのかもしれない。まあどうでもいい。

 ふと窓際を見ると、部長がパイプ椅子の背もたれに体重を預けて本を読んでいた。
 
 何の本だろう。何でもいいんだけど妙に気になった。

 ふと、部長が顔をあげる。きょろきょろと辺りを見回す。誰かの視線に勘付いたみたいに。
 小動物みたいな仕草。風が吹き込んで、部長の髪をさらさらと揺らした。
 
 絵の中の景色みたいだ。

 そのうち俺と部長の視線がかち合った。部長は目を丸くしてから「どうしたの?」というふうに微笑む。
 
 俺は彼女の手元の本を指差した。
 彼女は首を傾げてから、視線を本のページに落として、そのまま何かに気付いたみたいに本の表紙をこちらに向けた。

「自己評価の心理学」

 部室でそんなもん読むな、と俺は思った。俺はたぶんげんなりした表情をしている。彼女は笑っていた。


729 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:23:00 e4aEtMWg

 部長から視線を外し、鞄からスポーツドリンクを取り出して口をつけた。

 暑さのせいか、妙に喉が渇く。

 初めの何分かは居心地悪そうにしていたユキトも、少しずつ馴れていったらしく、自然体になった。

 実際、何かをしようとすれば簡単に馴染んでしまう奴ではあるけど、ここまであっさりリラックスされると、なんとなく腹が立ってくる。

 ふと、何か思い出さなければならないことがある気がした。
 でも、思い出せない。思い出せないなら、仕方ない。

 もう一度部長の方に目を向けると、彼女は膝の上で再び本を開き、ページに視線を落としていた。
 本の中身に関してはともかく、その姿はなんだか絵になる。

 冒険小説に夢中になってる小さな子供みたいで。

 そう見えただけだとしても。


730 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:23:35 e4aEtMWg


 俺たちは結局、部活が終わる時間まで部室に残っていた。
 久しぶりにユキトが部活に出たせいか、どうなのかは分からないけど、部長はいつもより上機嫌に見えた。

 ユキトも、顔を出すのが面倒だったというだけで、実際に部室にいるのはそれほど苦でもなかったらしい。
 
「でも、やっぱりあの部の雰囲気、正直よく分からないんだよな」

「雰囲気って言えるほどのものもないだろ」

「なんか、みんな同じ場所にいるのに、やってることがバラバラだろ?」

「どこだってそうだろ」と俺は言った。

「そうでもないよ。サッカー部はサッカーをしてるし、野球部は野球をしてる。吹奏楽部は吹奏楽」

「ああ、そういう意味か」

「文芸部は、いったい何をしてるんだ?」

 リレー小説。と俺は頭の中で答えた。


731 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:24:27 e4aEtMWg


 校門を出る直前、ユキトの視線が前方のある一点で止まった。
 視線を追いかけるとサクラが立っていた。こちらに気付くと、彼女は「やあ」と気だるげに笑った。

「やあ」と俺は手を挙げて返事をした。
 ユキトはちょっと不思議そうな顔をする。

「……やあ、ってなに」

「ただの気分」とサクラは言った。

「じゃあ、帰ろっか」

 彼女は当たり前みたいな顔で俺たちの横に並んだ。

「待ってたの?」とユキトが訊ねる。

「うん」、とサクラは頷く。

 そんなありふれた光景の中、不意に激しい眩暈が俺の視界をぐるぐると掻きまわした。
 それは一瞬のことだったけど、たしかに起こったことだ。


732 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:25:10 e4aEtMWg

 でも、誰も気付かなかった。サクラもユキトも。
 おかげで二秒後には、自分自身でさえ錯覚だという気がしたくらいだ。

「なにしてるの、ヒメ。早く帰ろう?」

 俺は呼吸を整えてから答えた。

「悪い。忘れてたけど、俺買い物してから帰らなきゃ」

「付き合おうか?」

「長くなるから、先に帰っててよ」

 ユキトが、こちらの内心を覗き込もうとするような目を俺に向けていた。
 気のせいかもしれない。

 安心しろよ、と俺は心の中でユキトに言葉を向けた。
 べつに遠慮してるわけじゃない。気を使ってるわけでもない。


733 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:26:06 e4aEtMWg


 一人でスーパーに向かい、食材と日用雑貨を持てる分だけ購入した後、一人で帰路につく。
 店を出たとき、携帯を開くと、妹からメールが届いていた。

「おにくたべたい」

 ひらがなで七文字。肉食系女子を自称するのは伊達ではないということか。

「御意」

 とだけ返信をして、俺は家路を急いだ。

 特別なことなんて何も起こっていない、と俺は思った。
 当たり前みたいな日々。劇的なことが起こるわけじゃない。つまらなくて死にそうだというわけでもない。

 当たり前みたいな日々。続いていく。当たり前みたいに。
 消費されていく。


734 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:27:30 e4aEtMWg


 バスを降りて住宅地の間をとぼとぼ歩く。
 遊具を失った公園のベンチに、女の子がひとり座っていた。
  
 俺はその子に少し興味を引かれたけど、食材を家に運ぶ方が先決だった。
  
 通り過ぎるとき、女の子と目が合った気がした。
 そのとき何かを思い出しそうになったけどすぐに忘れることにした。
 それでも女の子の目は俺を鋭く見つめていた。「思い出せ」というみたいに。

 でも俺は思い出したくなんてなかった。そう思って目を逸らす。

 そんな間抜けな仕草を見て、彼女が俺を笑ったような気がした。


735 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/09(日) 01:29:58 e4aEtMWg


 部活を終えて帰ってきた妹と、一緒に食事をとる。
 要望通りに豚肉入りの野菜炒めを作ってやったのに、彼女は不満そうだった。

「おにくがたべたい、と書いたはずなんだけど」

「だから、肉入ってるだろ」

「でも、野菜炒めのメインは野菜だと思うの。お肉がメインじゃなきゃ、肉料理とは言えないと思うの」

「哲学的だなあ」

 俺の受け答えが気に入らなかったのか、彼女はむすっとしたまま野菜炒めをつつきはじめる。
 
「どう?」

「……おいしい」

 その一言だけでなんとなく救われてしまった。
 幼稚園児が先生に貼ってもらう「たいへんよくできました」のシールみたいに。
 
 シールをくれる人がいるというのは、ありがたいことだ。





739 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:41:35 ZNnm2OvI


 夕飯の後、妹とふたり、麦茶を啜りながら縁側で涼んでいると、不意に電話のベルが鳴った。

 なんだろう、と思って立ち上がろうとすると、「わたしが出る」と言って妹が電話台へと走っていった。

 俺はその背中を見送ってから、なんとなく空を見上げた。

 うるさいくらいの星の瞬き。
 夜風。

 ふと、視界の端に赤い明滅。

 飛行機だ。

 飛行機は飛んで行く。
 通り過ぎていく。


740 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:42:06 ZNnm2OvI


 ぱたぱたという足音。妹が後ろから声を掛けてくる。
 なんだろうと視線を向けると、彼女は電話の子機を俺に差し出した。

「誰?」

「お姉ちゃん」

 俺は立ちあがって受話器を受け取る。妹は縁側に座りなおしてぼんやりと空を眺めはじめた。

「もしもし」

「あ、ヒメ?」

 サクラは当たり前みたいな声で俺のことを呼んだ。

「用事?」

「うん。そう」

「なんで携帯に掛けなかったの?」

「携帯に掛けたけど、出なかったから」
 
 俺はポケットから携帯を取りだして画面を開いた。サイレントマナー。解除し忘れていた。


741 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:44:24 ZNnm2OvI

「……で、何の用事?」

「花火しない?」

「花火?」

「うん。うちにあったからさ。ユキトも一応誘おうと思ってたんだけど」

「……ふたりでやれば?」

「またそういう皮肉を言う」

 サクラは電話口で呆れたみたいに溜め息をついた。
「呆れたみたいな」というニュアンスがしっかりと伝わってくる。
 電話口なのに。すごい奴だ。感心する。

「三人でやらなきゃ意味がないでしょ?」

 意味ってなんだ?

「悪いけど、妹いるから」

「じゃあ、誘ってみて」


742 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:44:55 ZNnm2OvI

 俺がちらりと横目で見ると、自分の話題が出たせいか、妹はこちらを振り返っていた。

「花火やらないかって」

 受話器を抑えて妹にそう声を掛けると、彼女は「はなび?」と意外そうな声をあげた。

「あるの?」

「らしいよ」

「やりたい」

 そうですか、と俺は思った。

「やりたいってさ」

「じゃあ、公園に集合ね」

「……三人でやらなきゃ意味がないって言ってなかった?」

「三人そろってなきゃ、って意味」

 なるほどなあ、と溜め息をつく。


743 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:46:12 ZNnm2OvI


 電話を切ってから、妹に準備をするように言って、自分もまた立ち上がる。
 伸びをしてから夜空をもう一度見上げる。飛行機は見えなくなった。

 準備を終えてから、二人で家を出る。街灯にたかる羽虫の影。
 夜の街並みは月の灯りに蒼白く照らされて、まるで海の底みたいだった。

 公園には、既にサクラとユキトがやってきていた。
 それから、もう一人。
 帰っている途中で見かけた少女が、まだそこにはいた。

 サクラと、何か話している。たぶん、気になって声を掛けたんだろう。
 当たり前と言えば当たり前かもしれない。


744 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:46:58 ZNnm2OvI

 サクラが俺たちの存在に気付くよりも先に、少女は俺に向かってにっこりと笑いかけてきた。
 
「こんばんは、お兄さん」なんて。

「……こんばんは」と俺は返事をした。その瞬間、俺は彼女のことを思い出した。

「あれ、ヒメ、知り合い?」

 サクラは不思議そうに、俺と少女を交互に見た。

「まあ、ちょっとね」

 俺は一瞬強い混乱の中に放り出されたけれど、それは本当に一瞬だけだった。
 直後には、状況を把握していた。少女のことだってちゃんと思い出せた。
 近頃公園でよく話す女の子。べつに何か特別なことを話すわけじゃない。
 
 猫と一緒にいるのを見かけて、声を掛けた。くだらない雑談をするようになった。それだけの関係。
 それ以外には、何もないはずだ。


745 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:47:36 ZNnm2OvI

「帰らなくて平気なの?」

 サクラは、真剣な表情で少女にそう問いかける。

「ないから」と、少女は言った。

「……ないって?」

「帰る場所なんて、ないから」

 サクラはちょっと面食らった様子で、俺とユキトに助けを求めるような視線を向けてきた。
「家出かな?」とでも言いたげな顔。ユキトも戸惑っている。

「ヒメ、知り合いなんでしょ?」

「顔見知りってだけだよ」

「猫友達だね」

 少女はちょっと楽しそうな声で言った。


746 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:48:11 ZNnm2OvI

 不意に、ポケットの中の携帯が震えた。
 取り出してディスプレイを覗くと、タイタンからの電話だった。

 他の四人から距離をとって、俺は電話に出た。

「もしもし」

「ヒメか?」

 どいつもこいつも、電話に出るなりすぐ話を始める。

「タイタン?」

「うん。ちょっと、話したいことがあるんだ」

「今?」

「うん。できれば、今夜。そんなに時間はないらしいから」

「……時間?」

「知りたいことがあるんだ。今から会えないか?」


747 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:48:42 ZNnm2OvI

「知りたいこと?」

「今から、おまえの家に行っていいか?」

「今から? あ、いや。今は……」

「出先か?」

「公園にいる」

「なんで公園なんかに?」

「花火だよ。サクラに誘われて」

「公園って、おまえの家の近くのか?」

「そう」

「なら、俺も行っていいか?」

「でも、おまえの家からじゃ遠いだろ」

「実は、今おまえんちの近くにいるんだ。別の用事だったんだけど」

「……ちょっと待って」


748 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:49:33 ZNnm2OvI

 サクラの方を見ると、彼女は少女と向かい合って何か話をしていた。
 どちらも笑っているように見える。
 
「サクラ、タイタンからの電話だったんだけどさ」

「どうしたの?」

「あいつも花火したいって」

「いいよ。たくさんあるから呼んじゃっても」

 俺は溜め息をついた。少女が悪戯っぽい瞳でこちらを見たのが分かった。
 
 何を考えているんだろう。
 
 携帯を耳に当て、タイタンに声を掛ける。

「来ていいらしいよ」

「じゃあ、今から向かう。すぐにつくと思う」

「今、どこにいるの?」

「ファミレス」


749 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:50:31 ZNnm2OvI


 タイタンは本当にすぐに来た。
 
 サクラ、ユキト、タイタン、それから俺と妹に、もう一人女の子も加わった計六名。

 タイタンの表情はよく分からなかった。何の感情も伝わってこなかった。
 無愛想というのでもない。落ち込んでいるというわけでもなさそうだ。
 ただ、浮かべるべき表情がすっぽりと抜け落ちてしまっているみたいな。

 何はともあれ、サクラの合図で俺たちは花火を始めた。

「住宅地だから、あんまり騒がないようにね」

 俺たちはそれぞれに頷いて、花火の袋を開き、手持ち花火をそれぞれに受け取った。
 マッチでロウソクに火をつけた。サクラはペットボトルに入れた水まで用意していた。

 毎年毎年、似たような花火をやっているはずなのだ。
 緑に変わったり赤に変わったりする手持ち花火。

 蛍みたいな光の束が、音と煙をあげて弾けていく。
 独特の匂いと音が辺りに広がっていく。


750 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:51:24 ZNnm2OvI

 妹とサクラは一緒になって、次々と花火に火をつけていく。
 どっちもほとんどしゃべりもしないで熱中してはしゃいでいた。
 
 俺とユキトはその様子をぼんやり眺めながら、自分たちも花火を始めたけれど、なんとなく興が乗らない。
 タイタンは心ここにあらずという様子でぼんやりと花火を始めた。

 なんとも連帯感がない。ばらばらだ。

 一番意外だったのは、予想外の客だった、公園の女の子。
 いつも落ち着いていて、ほとんど感情の起伏を外に表さない女の子。

 彼女はしゃがみ込んで、自分の手に握られた花火が光を放つのを、珍しそうに眺めていた。
 きらきらとした表情。驚いたような。嬉しそうな。楽しそうな。

 錯覚かもしれないけど、本当に楽しそうに見えた。


751 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:52:02 ZNnm2OvI

 だから俺は、訊いてみた。

「楽しい?」と。
 
 その瞬間、彼女は魔法が解けたみたいに表情を変えた。俺は後悔した。

「べつに」と彼女はそっぽを向いた。

「たくさんあるから、どんどんやるといいよ」

「楽しいわけじゃないってば」

「どっちにしても、全部終わるまでは帰れないんだ。サクラはそういう奴だから」

「……」

「だから、きみも終わらせるのに協力してくれよ」

 彼女は不思議そうな顔をしていた。
 何を言っていいのか分からない、というような。


752 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:52:46 ZNnm2OvI

「花火を最後にやったのは、いつ?」

 別に理由があったわけじゃないけど、そう訊ねてみた。
 少女は苦しげに笑った。

 いつもは、器用に笑っているのに。
 今日の彼女は、苦しげに笑う。

「ずっと昔。もう思い出せないくらい」

「そう。じゃあ、久しぶりの花火ってわけだ」

「そうなるかな」

「どんな気持ち?」

 どうせまともな返事はもらえないだろうと思って訊ねたのに、彼女は真剣に考え込んでしまった。


753 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:53:51 ZNnm2OvI

 その言葉が、どこか心の深い部分に触れたみたいに。
 彼女はすごく真剣そうな顔で、その言葉について考え始めた。

「楽しいね」

 と、彼女はつまらなさそうに言った。

「べつに、無理に楽しまなくても平気だよ」

 俺は気遣うつもりでそう言った。彼女は首を横に振る。

「本当に楽しいんだよ。とてもね」

 彼女は花火から視線を離して、サクラと妹がいる方を眺めた。
 花火を手に、ふたりははしゃいでいた。騒ぐなって言っていた張本人が、一番騒いでいる。

 光の束を指先から放ちながら、ふたりは火花の中で踊ってるみたいに見えた。
 とても楽しそうに。嬉しそうに。この世が楽しくてしかたないみたいに。

「とっても、楽しいよ」

 なぜだろう。少女は二人の姿を、羨ましそうな目で見ているような気がした。
 羨ましそうな、というよりは、むしろ、妬ましそうな、と言えそうなくらい。


754 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/10(月) 01:54:46 ZNnm2OvI

 それから彼女は俺の方を見て、照れくさそうに笑った。悲しそうな笑い方だった。
 彼女は屈みこんだまま、再び視線を手元の花火の方に落とす。

「楽しい分だけ、つらいかな」

「どうして?」

「分からない?」

 ふと、彼女の目の端から、雫が落ちたように見えた。
 気のせいかもしれない。煙と光に邪魔されて、その表情はよく分からなかった。

「それが手に入らないって、分かってるからだよ」

 俺はなにも言わなかった。

「手が届かないものほど、眩しくて、羨ましくて、でも、手に入らないから」

 眩しいもの。
 手が届かないもの。

 俺は急に、悲しくなった。どうしてかは分からないけど、とにかく、悲しくなった。
 少女が泣いている。俺はその事実が悲しくてしかたなかった。理由も分からないくせに。



756 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:17:16 vyLnGDaE


 花火が尽きた。シメの線香花火まで終わってしまった。
 人数のせいもあるだろうけど、尋常じゃない量なのにあっというまだった。

 サクラとユキトは満足そうな顔をしていた。妹は物足りなさそうな顔をしていた。
 タイタンは、ずっとぼんやりした様子だった。

 女の子は、ごく当たり前みたいに笑いながら、サクラにお礼を言っていた。

「約束だから、これからちゃんと家に帰るんだよ?」

 当たり前のように加わっていると思ったら、ひそかにそんな取決めをしていたらしかった。

「うん、ありがとう」と女の子は大人びた表情で笑った。
 嘘みたいな笑顔。


757 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:17:46 vyLnGDaE

 後片付けを済ませた後、サクラとユキトははしゃいだ様子で帰っていった。
 帰らないの、と訊ねられたけれど、タイタンと話があるから、と答えると、奇妙そうな顔でこちらを見ていた。
 サクラはちらりと少女を見てから、俺に目配せをして、そのまま公園を出て行った。

 妹にも先に帰るように言うと、彼女は他の二人と並んで家路についてくれた。

 物わかりのいい家族で非常に助かる。

 残ったのは、俺と、タイタン、それから例の女の子だった。

「子供って損だね」と、サクラの背中を見送りながら、彼女は呟いた。

「どうして?」

「誰も信じてくれない。わたしには本当に帰る場所がないのに」

 俺は答えられなかった。タイタンもまた、困ったような顔をしていた。

「本当に帰る場所がないの?」

「うん」


758 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:18:16 vyLnGDaE

 言葉を信じるにしても、信じないにしても、タイタンは彼女が去るのを待っていた。
 でも、俺には、さっき見た彼女の泣き顔が忘れられない。

 今はもう、何事もなかったような顔をしているのに。

「……タイタン、話って何?」
 
 訊ねると、彼は戸惑ったように少女の方を見た。

「この子のいる前じゃ……」

「わたしがいた方が話が早く済むのに」

 少女は当たり前のように言う。
 俺とタイタンは顔を見合わせる。笑い飛ばせたはずなのに、なんとなく気味が悪かった。


759 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:19:42 vyLnGDaE

「ねえ、『エスター』って映画、知ってる?」

 女の子は綺麗に笑ってそう訊ねてきた。
 俺はその映画の内容を知っていたけど、目の前の少女の口からそのタイトルが出たことに違和感を覚えた。
 
「帰る場所がないとしても、俺たちにはどうしようもないんだよ」

 タイタンはそう言った。

「放っておくか、警察でも呼ぶしかないんだ。君とこんな時間に話していたら、むしろ俺たちが通報されかねない」

「世知辛いね」

「世知辛いんだよ」

 少女は少し笑った。タイタンも合わせるみたいに笑った。すると彼女は笑顔を崩してこう言った。

「いいから話を始めたら?」


760 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:20:49 vyLnGDaE

 タイタンは呆気にとられて少女の顔を見返す。
 俺は仕方なく溜め息をついた。

「タイタン、俺の家に行くか?」

「でも……」

 タイタンは少女の方をちらりと見た。放ってはおけない、と思ってはいるんだろう。
 
「なあ、きみ、帰る場所がないんだろ?」

「きみじゃなくて、シロ」

 俺は少し戸惑ったけれど、その呼び名を使うことにした。

「シロ、帰る場所がないのか?」

「そうだよ」

「今夜はどうするんだ?」

「どうしようかな」


761 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:21:26 vyLnGDaE

「普段はどうしてるんだ?」

「いろいろ。野宿したり、誰か親切な人が現れるのを待ったり……」

「親切な人?」

「うん。ときどき、声を掛けてくれるんだよ。このあたりだとなかなかいないけど、街中だとね。
 ご飯を食べさせてくれて、寝る場所も用意してくれる」

 俺は少し嫌な想像をしたけれど、まさか『そんなこと』が身の回りで起きるなんて本気で思ったりはしなかった。
 ましてや彼女は小学生くらいに見えた。

 彼女はじっと俺の方を見上げている。


762 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:22:00 vyLnGDaE

『エスター』。

 まともに受け止めるのが難しい映画だった。あれはホラーだったんだろうか。

 主人公と少女という対立。映画の中では、主人公が被害者であるかのように描写される。
 主人公は「努力しているにも関わらず、報われない人物」として描かれている。

「少女」の方は、奇行ばかりの、得体の知れない、理解不能の少女として描かれる。
 でも、おかしいのはむしろ主人公の方だった。
 情報を正確に並べれば、それははっきりしている。

 そしてその分だけ、主人公と対立する「少女」の言葉はきわめてまっとうに響く。
「少女」の過去の罪や、実際の悪行が伴わなければ、糾弾されるべきはむしろ主人公の方だったのだ。

 だから、「主人公」ではなく「少女」の方に、俺は感情移入してしまった。

 殺人者に恐怖よりもむしろ憐みを抱いてしまうホラー映画。
 あの顛倒が意図的なものでなかったとしたら、やっつけ仕事にもほどがある。

 憐れなエスター。
 世界を呪い、憎み、誰にも受け入れられず、誰にも愛されず、誰にも理解されず、それでもぬくもりを求めていた。


763 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:23:33 vyLnGDaE

「帰る場所がないんだろ」

 と、俺はもう一度シロにそう声を掛けた。

「だったら、俺の家に泊まるか?」
 
 おい、とタイタンが慌てたような声をあげた。

「誘拐で捕まるぞ」

「そのときはそのときだよ」、と俺は言った。

「朝までここにいるわけにもいかない。放っておくわけにもいかない。本人には帰れる場所がない」
 
「嘘かもしれないだろ」

「少なくとも帰る気はなさそうだ」

「でも、だからって、俺たちがどうこうするのは話が違う」


764 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:24:27 vyLnGDaE

「じゃあ、おまえが警察を呼べばいい」

 タイタンは、その言葉に怯んだみたいだった。

 どうして、こんな事態になったのかは分からない。
 泣き顔を見てしまったから、なんて話じゃなくて。

「放っておけない。……放っておくわけにはいかない」

 シロの方をちらりと見遣ると、彼女は戸惑ったような顔をしていた。
「なんだか変な流れになってしまった」というふうな。

 現に、こんなことを言った。

「わたしとしては、べつに放っておいてもらってかまわないんだけど」

「そういうわけにもいかない」と俺は即座に否定した。

「……帰るって、嘘つけばよかった。子供って不便」

 彼女は不服げに唇をとがらせている。
 まあいいか、おもしろそうだし、と彼女は小さく呟いた。


765 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:25:09 vyLnGDaE

 俺はシロを家に連れ帰ることにした。

 彼女の言葉が嘘だと思えなかった。
 仮に嘘で、本当は彼女に帰る場所があったとするなら、それはそれでかまわなかった。
 
 でも、もし本当だったなら、彼女を放置できない。見て見ぬふりはできない。
 
 タイタンは最後まで不服そうな顔をしていた。
 俺たちは三人並んで歩いたが、その間喋っていたのはシロだけだった。

 俺は彼女の歩く姿を見ながら、何かを思い出しそうになっていた。

 何かを忘れているような感覚が、頭の中でじくじくと痛み続けていた。


766 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:26:06 vyLnGDaE


 家の灯りはついていなかった。

 俺は怪訝に思いながらも玄関に入り、「ただいま」と声をあげた。
 二人は俺に続いて玄関で靴を脱いだ。

 玄関に妹の靴はなかった。

 怪訝に思いながらもリビングに向かう。灯りをつけるが、外出する前と部屋の様子は変わらなかった。
 妹はまだ帰ってきていないんだろうか。

「泊めるっていったって、どうする気だよ」

 タイタンはまだそのことにこだわっていた。

「風呂と寝床を貸して、食べ物を食わせる」

「それで明日になったら放り出すのか?」

 俺はとっさに答えられなかった。


767 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:27:03 vyLnGDaE

「いつまでもこの家で預かっていられるわけでもないし、預かるべきでもないだろ。
 帰る場所がないんだったら警察に任せた方が早い」

「そりゃあね」

「泊めるなんて、本気で言ってるのかよ。捨て猫を家に置くのとはわけが違うんだぞ」

「どこが違う?」と俺は訊ね返したが、負け惜しみみたいなものだった。
 タイタンは首を横に振って苛立たしげに溜め息をついた。

「最後まで責任を持てないなら、最初から距離を保つべきだって俺は思う」

「心配しなくても、明日の朝には出て行くよ」、とシロは言った。

「なんなら警察を呼んでくれてもいいよ。ややこしいことになる前に、逃げさせてもらうけど」
 
 タイタンは諦めたように溜め息をついた。貧乏くじを引いたような気がしたのかもしれない。


768 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/11(火) 02:28:52 vyLnGDaE
つづく


769 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:00:52 1aNYL5HA


 妹の携帯に電話を掛けてみたけれど、留守電に繋がった。
 
 たぶんコンビニかどこかに出掛けているんだろうと思い、とりあえずは気にしないことにした。
 俺はとりあえず二人をリビングにあげた。

「腹減ってる?」
 
 俺は二人にそう問いかけた。タイタンは首を横に振った。そういえばファミレスにいたんだっけ。

「とても」とシロが答えた。

「じゃあ、何か作るから」

「ありがとう」とシロはにっこりと笑う。

 俺は冷蔵庫の中身を軽く漁り、何か食べられるものがないかを確認する。
 買い物をしてきたから、一応食材はあるにはあった。


770 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:01:34 1aNYL5HA

「何が食べたい?」

「なんでもいいよ」

 シロはまたにっこりと笑う。

「じゃあ、カップラーメンでいい?」

「食べられるものなら、なんでも」

 冗談のつもりで訊いたのに、シロはまったく頓着しないようだった。
 本当は空腹でもないのかもしれない。

 なんとなく毒気を抜かれて、そのままお湯を沸かしてカップラーメンを出すことにした。

「風呂沸かすから、それ食ったら入りなよ。あとは和室に布団敷くから」

「ありがとう」

 遠慮とか、気兼ねとか、そういう言葉とは無縁そうな、どうでもよさそうな顔。
 別になんだっていいけれど、というふうな。


771 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:02:24 1aNYL5HA

 寝間着はどうするか、と思った。
 本当は妹が前に使ってた奴でも貸してやろうと勝手に思っていたのに、本人がいない。

 本当にどこにいってしまったんだろう。

 シロは勝手にリビングのテレビをつけてバラエティを見始めた。
 テレビの中の騒ぎと反比例して室内は静まり返っていく。
 まるで自分の家みたいに、シロはくつろいでいた。

 彼女は三分待ってカップヌードルの蓋を剥がした。
 割り箸を割って「いただきます」と手を合わせてから、ちらりとこちらを見る。

 俺とタイタンの視線に気付くと、彼女は「どうぞ」という顔をした。

「……それで、タイタン。話って?」

「この子の前では……」

「あんまり気にしないで。置物みたいなものだと思ってくれて構わないから」

 タイタンは溜め息をついてから、結局話し始めた。


772 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:03:09 1aNYL5HA

「今日、司書さんと話してきたんだよ」

「いつ?」

「さっき」

「さっきって、ファミレスで?」

「ああ。……勘違いするなよ。別に変な意味があったわけじゃない」

 変な意味というのが思いつかなかったけれど、俺は頷いた。

「かなり様子が変だったから」

 ……たしかに、変だった。

「世界が繰り返されてるって言ってた」
 
 タイタンが司書さんから聞かされたという話は、俺が聞かされたものとほとんど同じようだった。


773 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:04:08 1aNYL5HA

「世界が、何度も繰り返されていて、それは司書さんのせいなんだって言ってた。どう思う?」

「ゆっくり休んでもらうしかないと思うけど」

「俺もそう思った。でも、嘘とは思えない」

「どうして?」

「真剣な顔をしていたから」

 なるほどね、と俺は思った。根拠にならない。
 もちろん、俺だって、まるっきりの嘘だと思っているわけじゃない。
 常識的に考えたら馬鹿げているけど、俺はその話を信じてもいた。

 でも、それについてまともに考えたくない。なぜか分からないけど。

 不意にテレビの音が消えた。

「あの女の人のせいじゃないよ」

 と言ったのはシロだった。


774 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:04:49 1aNYL5HA

 俺とタイタンは顔を見合わせた。

「何の話?」

「だから、世界の話でしょ?」

 カップラーメンを食べきって、ソファの背もたれに体を預けたまま、シロは満足げな表情をしている。

「繰り返してるのはあの女の人のせいじゃない。あの人は覚えてるだけ」

「……悪いんだけど、今真面目な話をしてるんだよ」

 タイタンは少し苛立った声でシロを諌めた。シロは呆れたみたいに溜め息をついて、話を続ける。

「繰り返してるのは、別の人のせい。少しずつ違うのは……」

 タイタンは溜め息をついてから俺の方を睨んだ。
 シロもまた、まっすぐ俺の方を見た。

 沈黙。


775 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:06:10 1aNYL5HA

「シロは、何か知ってる?」

 俺はそう訊ねた。タイタンは怪訝げな目を俺に向ける。

「もちろん」、と彼女は頷いた。たいしたことじゃない、というような顔で。

「どうしてそんなことを知ってる?」

「どうしてって、わたしがそうしたから」

「……シロが?」

「ねえ、この話、前にもしたよ?」

「前……?」

「だから、前の世界でも」

「何を言ってるんだ?」

 タイタンは腹を立てたみたいに声を荒げたけど、俺は咄嗟に反応できなかった。


776 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:06:51 1aNYL5HA

 光の奔流。
 情報が頭の中を飛び交い、連結される。
 弾ける火花。暗闇。

 耳鳴りと眩暈。
 クラクションと血だまり。赤い明滅。

 誰かが俺の手を握っていた。

 でも、俺は思い出さなかった。
 ぎりぎりのところで、蓋を閉じた。

「どうしたの、お兄さん」

 シロはにっこりと笑う。
 俺は今、何かを見た。


777 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:07:24 1aNYL5HA

 とにかく、とタイタンは苛立たしげに声をあげた。

「世界は繰り返されているって、司書さんは言ってたんだ」

 頭痛が、かすかに残っている。俺は少し怖くなって、

「それで?」

 と訊ね返す。続きを聞きたいわけじゃなかったのに。

「……ヒメ、おまえ、何か知ってるんじゃないのか」

「何かって?」

「司書さんが言ってたんだよ。彼女は繰り返しの記憶を、部分部分持っているらしいんだ。
 それで、他の出来事はだいたい変わらないのに……おまえの周りだけ、毎回様子が違うらしいんだ」

 俺は首を横に振った。そんな話、俺は知らない。


778 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:08:42 1aNYL5HA

「おまえ、何か知ってるんじゃないのか?」

「……何の話だよ」

「もし、知ってるとしたら、教えてほしいんだ。本当なのかどうかは分からない。
 でも、司書さんは苦しんでるみたいなんだ。もしそれが事実だとしたら、俺はそれをどうにかしたい」

「……」

「ヒメ、何か、知らないか?」

「知ってるよね?」

 とシロは口を挟んだ。タイタンは眉をひそめる。俺の心臓が怯えたように跳ねる。


779 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:10:09 1aNYL5HA

「お兄さんはもう知ってるはずだよ」

「……ヒメ?」

 タイタンは、ようやく場の空気の変化に気付いた。
 今この場を支配しているのは、俺でもタイタンでもなく、シロだ。

 超越的な視線で、彼女は俺たちを見下している。

「お兄さんは、ちゃんと思い出したはず。忘れたふりをしてるだけで」

 ……シロが、何を言っているのか分からない。

「何を言っているのか、分からない?」

 俺は息を呑んだ。

「それは、分からないふりをしてるだけだよ」


780 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:10:39 1aNYL5HA

 タイタンの、疑わしそうな視線。シロの、見下すような笑み。
 俺は俯く。そして思う。俺はなにも知らない、と。

「うそつき」

 そう、シロが呟いた。その瞬間、

「あ……」

 鋭い痛みが、頭の中を暴れまわった。

 ――もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?
 
 記憶。

"一回目"の、記憶。


781 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:11:44 1aNYL5HA

「そんなに思い出したくないの? この世界が嘘のかたまりだってこと」

"見てみたい"、と俺は答えた。

"もっと別の、有り得たかもしれない可能性を、少しでいいから覗いてみたいんだ。"

 焼けるような熱が、心臓の鼓動に呼応して激しく頭の中を暴れまわった。
 強い光の明滅。全身にいくつもの太い管が通っていくような錯覚。
 
 ふと気付いたとき、俺はリビングにいた。
 シロとタイタンのふたりが、こちらを見ている。

「思い出した?」とシロは笑った。

 思い出した、と俺は頭の中で答えた。

 バカげた話だ。


782 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:12:42 1aNYL5HA

「……忘れて、また繰り返してたのか、俺は」

「だって、お兄さん、前のときに、変なこと考えてたみたいだったから。
 だから忘れさせてあげたの。せっかく叶えてあげた願いなんだから、思う存分楽しんでもらわないとね?」

 俺は黙り込んだまま頷いた。また同じことを繰り返していたのだ、俺は。
 それにしても、随分悪趣味だ。

「つまり、これも作り物で、本当じゃないってことか」

「そうだね。そういうことになるよ。あの二人は"一回目"ではお兄さんに話しかけたりしなかった。
 花火に誘ったりしなかった。夏休みに遊ぶ約束もしなかった。登下校だってばらばらだった」

「ヒメ……?」

 タイタンは、俺の態度の変化を怪訝に思っているようだった。
 だとするなら、彼がここにいることも、俺の都合によって世界が書き換えられた結果……? 
 違うか。司書さんの記憶の影響だという気がする。


783 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:13:34 1aNYL5HA

「惨めだね?」とシロは笑った。

 俺は少し苛立ったけれど、それよりももっと気になることがあった。

「なあ、シロ。きみは、何を考えてるんだ?」

 彼女は虚を突かれたみたいな真顔になった。
 
「なにって?」

「言っただろ、俺に対して、"もっと苦しめ"って。あれは、いったいどういう意味だったんだ?」

「……どういう意味って?」

「きみは、俺の願いを叶えたんだよな?」

「そうだね」


784 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:14:45 1aNYL5HA

「きみは神様に与えられた力で、人の願いを叶える。そうだったよな?」

「うん」

 真面目な顔で、シロは頷く。

「きみは願いを叶えることで、感情を蓄えるって言ってた。そうすることでできることが増えていくって。
 でも、そうだとすると、きみはどうして俺の記憶を蘇らせたんだ?」

「退屈だから、って、言わなかったっけ」

「本当にそれだけ?」

 彼女は押し黙った。

「きみは、人の願いを叶えることで力を溜めていくんだろ。
 俺や、司書さんや、誰かも分からない他の人の願いを叶えた。
 その願いが入り組んだ結果、きみたちも願いの中に"閉じ込められてしまった"。そう言ってた」

「よく覚えてるね。閉じ込められて退屈だったから、暇つぶしをしてたんだよ」

「本当に?」

 彼女は苛立たしげに目を細めた。


785 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:15:39 1aNYL5HA

「それ以上に何があるって言いたいの?」

「きみはこの世界の、繰り返しの中に閉じ込められている。それはきみたちにとって予想外のことだった。
 でも、きみたちはこの世界の"繰り返し"をどうにかしようとはしていないようだった」

「……まあ、たしかに、どうにかしようとはしてなかったけどね」

 シロは溜め息をついて、「そんなことよりココアが飲みたいんだけど」とちょっと横柄な口調で言った。
 俺は立ち上がってカップを用意した。
 タイタンは状況が飲み込めていないのだろう、ただじっと俺たちのやりとりに耳を傾けている。 

「つまり、きみたちにとって、"繰り返し"は支障にならなかったんだ。
 世界が繰り返されていようと、それが少しずつ変化していようと、きみたちには問題にならない」

 シロは溜め息をついた。好きにしてくれ、というように。
 肩をすくめた彼女の前に、俺はインスタントのココアを差し出す。

「たしかに、願い集めには支障がなかったかな」

「じゃあ、どうして暇つぶしが必要だったんだ?」

 ああ、という顔を彼女はした。ようやく得心がいった、というふうに。


786 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:16:23 1aNYL5HA

「何が言いたいのかと思ったら、その話」

「うん。つまり、暇つぶしをするまでもなく、願い集めとやらをすればよかったはずなんだ。
 でも、きみはそうはしなかった。それどころか、一度叶えた願い……つまり俺に干渉した。
 誰かにお願いされたわけでもないのに、俺の記憶を刺激して、俺に苦しめと言った」

 彼女はココアに息を掛けて軽くさましてから、口をつけた。「それで?」というふうにこちらを見上げている。

「推測だけど、繰り返しの最中に、きみたちにとって想定外のことが起こったんじゃないのか」

「ねえ、そういうのは推測って言わないんだよ、お兄さん」

 シロは平然と笑った。

「こじつけとか、思い込みって言うの」

「じゃあ、俺に苦しめと言ったのは、本当に暇つぶしか?」

「……そうだよ」


787 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:17:14 1aNYL5HA

「違うな」と俺は言ったが、べつに確信があったわけじゃない。

「何が違うって言うの」とシロは少し焦ったように言った。
 その態度自体を証拠にはできそうにもない。

「……いや、まあ、今のは言ってみたかっただけだけど」

「え?」

「だから、分かったようなふりをしてみたかっただけ。別に否定の根拠はない」

「……お兄さんって、バカだよね?」

「割とね」

 俺はポケットから携帯を取り出してみた。妹からの連絡はない。いくらなんでも遅すぎる。
 もう一度電話を掛けてみたけれど、やはり留守電に繋がった。

「なあ、シロ。きみが嘘をついているかどうかは、ひとまずいいんだ。
 とりあえず今知りたいのは、どうすればこのループから抜け出せるかってことだ」

「……"ぬけだす"?」と彼女は繰り返した。聞いたことのない虫の名前みたいな調子で。


788 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:17:46 1aNYL5HA

「きみは言ってた。"繰り返しのついで"に、"世界を作り変えていた"って。
 要するに、パラレルワールドなんかとは違うんだろ。この世界は唯一無二の世界で、でも、時間が巻き戻ってる。
 その結果、何度も世界は"なかったこと"になってる。そのついでに、きみが微細な変化を加えてる」

「……うん。その認識であってる」

「その"巻き戻し"を止めるには、どうすればいいんだ?」

「……ねえ、どうしてわたしが、そんな質問に答えなきゃいけないの?」

「頼むよ」

「それは、お願い?」

「……そう、お願いだ」

「ねえ、わたし、言ったよね、お願いは……」

「これは、そういうお願いじゃなくて、猫友達に対する、個人的な"お願い"だ」

「……バカ?」

 彼女はココアにもう一度口をつけてしまうと、目を合わせてくれなくなった。
 今の言葉でどうにかしてくれるなんて、本当に思っていたわけではないけど。


789 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:18:49 1aNYL5HA

「いったい、何の話をしてるんだ?」

 タイタンは混乱した様子でそう訊ねてきた。俺は説明せずに、シロの方をじっと見つめる。
 もう、これ以上繰り返すわけにはいかない。

「ねえ、お兄さん。どうして、繰り返しを止めたいの?」

「……きみがどんなふうに世界を作り変えているかは知らないけど……。
 俺は、もうこれ以上、自分の都合に合わせた世界を楽しむなんてことには耐えられないんだ。
 そんな世界を"現実"として受け入れることができないんだ」

 これ以上は耐えられない。……そう考えてループを止めようとするのも、やっぱり自分の都合なのかもしれない。
 でも、と俺はタイタンの方とちらりと見た。

 この世界の繰り返しは、司書さんのせいじゃない。彼女に与えられた罰なんかじゃない。
 彼女はたまたま、「覚えているだけ」で。だから、これ以上彼女を苦しませたくない。

 この世界に影響を与えられるのは、事実をシロに教えられた俺と、記憶がある司書さんしかありえない。

「じゃあ、シロ。反対に、俺の願いをなかったことにはできないか?」

 俺の問いに、彼女は怪訝そうな顔をした。


790 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:20:52 1aNYL5HA

 俺の願いがなかったことになれば……つまり、世界が最初の状態に戻れば。
 変化がなくなり、世界は同じ形で繰り返されることになる。

 そうすれば、ループの原因をはっきりさせるのが、いくらか容易になる。
 今は世界に変化が加わりすぎて、何が原因で繰り返しが起こるのか、判然としない。

 そう思ったのだけれど、

「ダメ」

 とシロはむっとした顔でそっぽを向いた。

「願いをなかったことにするのも、願いの一種だから」

「つまり、願いは一人につき一つなんだな?」

「そう。もっとも、これは神様が決めたルールじゃなくてわたしが決めたルール。
 一人の相手にそんなに力を使ったら、不公平だし、そもそもきりがないから」

 ……今回のシロは、ずいぶん饒舌な気がする。
 とにかく。


791 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:22:51 1aNYL5HA

「じゃあ、タイタンが願ったら?」

「……それは」

 シロは口籠った。タイタンは、いきなり話が自分に戻ってきたせいか、戸惑っているようだった。
 願いをなかったことにするのが願いの一種なら、“誰か”が願えば、それは叶えられるかもしれない。

「タイタンが、俺の願いの無効や、巻き戻しの無効を願ったら、それは叶うんだな?」

「……そういうことになる、けど」

「じゃあ、世界を元通りにするようにタイタンが願ったら、元通りになるか?」

 シロは溜め息をついた。

「それはやめておいた方がいいと思う」

「……どうして?」

「お兄さんが混乱しちゃうだろうから、全部は説明しないけど……。
 世界に変化を加える願いはこれが初めてじゃないんだよ。
 実際に起こったことを歪めたり、誰かの好意の方向を変えたり。そんな願いを、わたしはいくつも叶えてきた。
 だから、全部の願いがなくなった状態にしたら、世界がどんなふうになるのか、わたしにも想像できない」


792 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:23:49 1aNYL5HA

「じゃあ、巻き戻しと、変化の両方を同時になくすのは……?」

「どちらか一方をなかったことにするなら、できるけど……。両方は、できない。
 それに、巻き戻しの願いをなかったことにするのは、個人的にはおすすめしないかな」

「どうして?」

「巻き戻るのには、理由があるからだよ。
 もちろん、誰かにお願いして世界を巻き戻そうなんて願い、身勝手には違いないけど。
 でも、理由があるっていうことは、そこには問題があるってこと。
 巻き戻らなくなるってことは、問題が"現実"として降りかかるってことだから」

「……きみは、もちろん巻き戻しの願いの主を知ってるよな?」

「もちろん。教えないけどね」

 そうだろうな、と俺は思った。面倒な話だ。


793 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:24:31 1aNYL5HA

「それにしても」、とシロはごまかすみたいに言った。

「今回は、急に冷静だね?」

「……いいかげん、ショックを受けてばかりもいられないから」

「お兄さんは、世界を偽物だって言ったけど、世界はいつだって本物なんだよ。
 ただ作り変えられてしまっているだけで、人間はみんな人間。
 抱いている気持ちだって、ちゃんと本物なんだよ。作り変えられているだけで。
 女の子たちは、みんなちゃんと、お兄さんのことが好きだったんだよ」

「でも、それは、本物かもしれないけど、"現実"じゃなかった。都合よく改竄されていた。
 そんなんじゃ俺は喜べないし、喜ぶべきでもない。そう思うよ」

 シロは溜め息をついた。俺は話を続けた。

「とにかく、タイタンが願えば、俺の願いを無効にすることは可能なんだな?」

「一応ね」


794 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:25:11 1aNYL5HA

 俺はタイタンの顔を見据えた。彼はいまだに状況を掴みかねているようだった。
 それはもちろん、そうだろう。何も説明していなかったんだから。

 俺はそれから、タイタンに長い説明をすることになった。
 この世界のこと。シロのこと。神様のこと。荒唐無稽なおとぎ話。これまでの世界のこと。
 司書さんのこと。全部を、過不足なく伝えた。自分のことでさえ。

 タイタンは混乱していたようだったけど、最後には無理やり納得してくれたようだった。

「でも、本当にいいの?」

 タイタンと話をして、シロに願いを伝えてもらおうとすると、彼女は真剣な声で俺にそう訊ねてきた。

「……なにが?」

「お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
 お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
 現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?」


795 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:26:41 1aNYL5HA

 俺は、答えに窮した。
 少なくとも、現実には、俺の隣にアメはいない。先輩もいない。ヒナもいない。サクラも、ユキトもいない。

「……でも、それが自然だ」

 そう、俺は答えた。

「お兄さん、お兄さんの願いをなくさなくても、シショさんを解放する手段はあるんだよ」

「……」

「シショさんの願いを、なかったことにすればいい。
 そうすれば、繰り返しは続くけど、シショさんは苦しまなくて済む。そっちの方が手っ取り早いでしょ?」

 タイタンは困ったような目で俺の方を見た。

「そうすれば司書さんは苦しまないけど、巻き戻しのせいで幸せにもなれない」

 俺はそう答えた。タイタンは少し思い悩んだようだったが、結局、頷いた。


796 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/12(水) 02:27:27 1aNYL5HA

 シロとタイタンの視線がぶつかり合う。
 大人と子供みたいな体格差なのに、態度はシロの方が大人みたいで、タイタンの方が緊張していた。

「願い、言っていいんだよな?」

 タイタンは訊ねた。シロはどうでもよさそうに頷く。

「じゃあ――ヒメの願いを、なかったことにしてくれ」

 シロはその言葉を聞いたあとも、そっぽを向いて拗ねたような顔をしていた。
 けれどやがて、長い溜め息をつくと、

「仕方ないなあ」

 と言ってから、タイタンの方を見返す。
 それから、俺の目をじっと見つめた。

 ――お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
 ――お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
 ――現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?

 景色が歪む。眩暈と耳鳴り。ぐらぐらと揺れながら明滅する景色。
 変化。吐き気を催しそうな、いびつな感覚。
 
 世界から光が消え、音が消え、匂いが消えた。
 最後に、シロの舌打ちが聞こえた気がした。


800 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:23:00 UdxhWcCw

◆05-01[STALKER GOES TO BABYLON]


 混濁した情報の渦から解放された意識が、状況をしっかりと把握するまで、少し時間がかかった。 
 
 強烈な光の刺激は、けれど、普段感じているものと同質だった。
 ごく当たり前のはずの景色。それが攻撃的なほどの鋭さをもって、俺を刺激する。

 俺は自分が泣いていることに気付いた。
 
 何か少しの違いでありえたかもしれない世界。
 ありえたかもしれないけど、実際には起こらなかった出来事。
 一緒に登下校したときの、サクラの話。ユキトのテンポのズレた反応。
 
 あんな風景が有り得たのだと思うだけで、本当は身動きもとれなくなりそうだった。


801 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:24:07 UdxhWcCw

 サクラやユキトと、当り前のように過ごす日々。
 俺はそれを手放したかったわけじゃない。

 でも、にもかかわらず、俺はそれを自分から手放したのだ。
 溜め息さえ出ない。

 でも、どうしてだったんだろう? 俺はたしかに、ふたりと過ごす時間を大切に思っていたはずなのに。
 どうして、手放してしまったんだろう?
 
 問いに対する答えの代わりに、いつか聞いた、司書さんの言葉が浮かんだ。

 ――でも、たぶん、わたしは幸せになっちゃいけないんだ。

 その声の感触を思い浮かべるのと同時に、正常な感覚が蘇る。


802 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:24:41 UdxhWcCw

 俺はリビングに立っている。さっきまで、そうしていたのと同じように。
 タイタンの姿はない。シロの姿もない。

 誰もいない。沈黙が重くのしかかる。

 なにかをしなければならないはずだ、と、そう思った。
 俺はなにかをしなければならない。

 ふと、俺は妹の姿がないことに気付く。彼女はどこにいったんだろう?

 ……この状況はなんなんだろう。既に、俺の願いがなかったことになっているのだろうか?
 俺には繰り返しの記憶がある。……どういうことなんだろう。


803 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:25:16 UdxhWcCw

 俺は携帯を取り出して、もう一度(と、言えるのだろうか)妹に電話を掛けてみた。

 やはり、留守電に繋がる。

 俺は携帯を見る。日付は、さっきまでと同じだ。タイタンの願いが叶う前のものと同じ。
 時刻も、だいたい同じくらいだろうか。けれど、もう八時を回っている。

 俺は階段を昇り、妹の部屋へと向かった。
 扉を開けると、暗闇の中にかすかに家具のシルエットが浮かんだ。

 勉強机に並べられた教科書や辞書。ちょっと子供っぽいベッド。
 開けられたままのカーテン。窓の向こうの街並みに、半透明の俺の鏡像が重なって見えた。

 念の為に、トイレや洗面所、風呂場、自分の部屋、父親の部屋まで、すべての部屋を探した。
 妹の姿はない。

 段々と不安になってくる。


804 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:25:48 UdxhWcCw

 ――お兄さんの願いをなかったことにしたら、お兄さんは、最初に戻っちゃうんだよ?
 ――お兄さんは、他の可能性を覗いてみたくなるくらい、その世界のことがイヤだったはずなのに。
 ――現実で何が起こったのか、お兄さんは、ちゃんと思い出せていないんでしょう?

 シロの言葉が、まるですぐ傍からささやかれているようにはっきりと蘇る。

 タイタンの願いをシロが叶えたとするなら、この世界は、現実と同じ状況に進むはずだ。
 
 背中を嫌な汗が伝う。じわじわと、焦燥が俺の頭を掻き乱し始める。

 幻想から解放された現実。それがここだとしたら……。
 俺はひょっとしたら……。

 不安に耐えられなくなって、俺は灯りも消さずに玄関を飛び出した。
 
 とにかく今すぐに妹の姿を確認したかった。他の誰かのことなんてどうでもよかった。


805 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:26:21 UdxhWcCw

 シロは言っていた。俺の都合の良いように、世界を作り変えていたのだ、と。
 俺はそれを、俺にとって都合の良い世界を作っていた、と解釈していた。

 でも、ひょっとしたら、そうではなくて。
 俺に"都合の悪いことの起こらない世界"だったんじゃないのか?

 予感が言語化されて、頭の中で意味を持つと、漠然としていた不安ははっきりとした形になってのしかかってきた。
 
 妹の身に何かがあったんじゃないのか。
 俺はどこに向かえばいいのかも分からないまま、夜の道を走り回る。
 細くて狭い路地。夜空から月と星が俺を見下ろしている。飛行機が地上を嘲笑っている。
 呼吸が上手く出来ない。頭が正常に機能しない。

 いったい何が起こっているんだ? 
 俺は妹の名前を呼んだ。どこからも返事は聞こえない。
 それでも何度も繰り返す。どこからも返事は聞こえない。


806 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:26:56 UdxhWcCw

 ありとあらゆる考えが俺の頭を駆け巡る。
 近くにはいないんだろうか? 俺の声が届いていないんだろうか? それとも、俺の耳が悪いんだろうか? 
 そもそも、俺に……本当に妹なんていたんだろうか?

 俺は頭を振ってバカな考えを追い出す。
 携帯には、ちゃんと連絡先が入ってた。名前だって表示されてた。この世界に、彼女はたしかにいるはずだ。

 じゃあ、どうして電話に出ない?

 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。
 俺はこの世界について、何も覚えていないんだ。今晩、ひょっとしたら妹は出かけているのかもしれない。
 友達と遊びにいっていて、俺の電話にも気付かなかっただけかもしれない。

 そういう可能性だってないわけじゃない。ちょっと出かけているだけなのかもしれない……。
 行くとしたら、どこだろう。コンビニくらいしか思いつかない。俺は不安をごまかすみたいに走った。
 コンビニの店内には何人かの客がいたが、妹の姿はない。汗まみれの俺の姿を、店員が怪訝そうに眺めた。 
 
 トイレまで確認したけれど、妹の姿はない。
 諦めてそのまま店を出掛けたところで、俺は息を整えて店員に声を掛けた。


807 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:27:38 UdxhWcCw

 妹の容姿を告げ、来なかったかどうかを確認する。
 俺と妹が近所の常連だからか、店員はすぐに誰のことを言っているのか察したみたいだった。

「いつも一緒にいらっしゃる方ですよね?」

「はい」

「一時間ほど前に見えられたと思いますよ」

 おいおい、と俺は思った。かろうじて声には出さなかった。
 一時間前? この店まで徒歩で十分と掛からないんだぞ。往復だって十五分くらいだ。
 一時間前にこの店を訪れたということは、妹は別にどこか遠くにいったわけじゃないはずだ。

 ……あるいは、もともと出掛ける予定があって、その前にコンビニに寄って、そのまま出掛けた?
 そうかもしれない。そうとも、考えられる。

 俺は店を飛び出して、家への道を辿る。さっき通ってきた道。いったい彼女はどこに行ってしまったんだ?


808 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:28:43 UdxhWcCw

「シロ!」と俺は気付けば叫んでいた。

 どこにいるんだ、シロ。すぐに姿を現せ。そしてこの状況について説明しろ。
 いったいどうなってるんだ? この不安はなんなんだ? この状況はいったいなんなんだ?

 でもシロはどこからも現れなかった。
 俺の声に気付いたのか、付近の住宅の、二階の窓のカーテンが開かれた。軽蔑したような視線。
 俺はなにをどうすればいいのか分からないまま、逃げるようにその通りを抜けた。

 いつもの公園の入り口に通りかかったとき、俺は立ち止まった。
 ベンチの方を見たけれど、シロの姿はない。手がかりというものが何もなかった。

 俺はふと思いついて、携帯のメールボックスを開く。
 記憶にはないけれど、事実として、妹と何かのやりとりをしているのではないかと思った。

 たしかに記憶にないメールはあったが、取るに足らないことだった。
 今日という日について、何かの予定を話しているということはなさそうだった。

 もう一度電話を掛けてみる。心臓の音がうるさいくらいに響く。
 落ち着け、と俺は自分の心臓に言い聞かせた。何も起こっていないに決まっている。


809 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:29:21 UdxhWcCw

 コールしながら、息を整える。呼吸が整うのと同時に、俺の耳に何かの音が届いた。
 電子音だ。音楽? 音楽のように聞こえる。携帯の着信音みたいな……。

 着信音。

 俺は自分の携帯から耳を離して、息をひそめた。
 喉がひどく乾いている。

 耳鳴りのしそうな静寂を、楽しげな電子音が引っ掻いている。
 その音が、やけに毒々しく聞こえる。

 俺は、音の鳴る方へ、少しずつ近付いていく。

 公園の中だ。ベンチの向こう。

 この公園は、住宅に囲まれているせいで、どこか視界が悪く、空が狭い。
 遊べるものもそんなにないから、子供たちもあまり近寄らない。

 それでも、けっこうな広さがある。ベンチのそばには、花壇もある。

 そして、ベンチの後ろには、景観をごまかすみたいな木々が生えている。


810 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:30:09 UdxhWcCw

 鬱蒼とした木々と、草むら。夜になると、何かが這い出してきそうな気がするような、暗闇。
 音はそこから聞こえている。

 喉が渇いて、足の感覚がなくて、靄がかかったみたいに頭がぼんやりとしている。

 現実感がない。

 俺は、必死に、足を動かして、音に近付こうとする。
 でも、粘液の中をもがいているみたいに、体はゆっくりとしか動かない。
 時間の流れが、止まろうとしているみたいに。

 それでも、ようやく、俺はその景色を見る。

"なにか"が、転がっている。

 少女の形をした、なにか。
 それは、死体のように見えた。
 
 死んでいるように見えた。


811 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:31:08 UdxhWcCw

 俺は、携帯の終話ボタンに指を当てた。
 もし、そのボタンを押しても、鳴り響く音が止まらなければ、別人なのかもしれない。
 でも、もし、音が止まってしまったら、それは……。

 俺は、終話ボタンを押しこむ。

 そして、音は止まった。

 表情は、暗くて、よく見えなかった。本当のことを言うと、どこが顔で、どこが顔じゃないのか、分からなかった。
 衣服は乱れている。四肢は、力なく投げ出されている。

 体を横たえたまま、身じろぎもしない。
 俺は、それでも、体を動かして、彼女の近くに膝をついた。

 呼吸の音が、かすかに聞こえた。
 生きている。でも、汚されてしまっている。"誰か"に。その誰かは、もうこの場にはいない。
"終わったあと"なのだ。
"起こってしまったこと"なのだ。


812 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:31:53 UdxhWcCw

「うそだ」

 何の物音もしない公園の中で、その声はどこか間が抜けて響いた。
 なぜだろう、俺は、笑ってしまった。

「うそだ」
 
 繰り返す声。でも、言葉に意味なんてなかった。

 耳鳴りを伴う、針のように尖った頭痛。
 それが俺の意識を鋭く奪う。

「うそだ」とそれでも俺は繰り返した。

 眩暈。妹は身じろぎもしなかった。
 視界が暗転し、感覚が消えていく。

 誰かが、俺のことを笑っていた。


813 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:32:31 UdxhWcCw


「ヒメ」

 誰かが、俺のことを呼んでいた。

「ヒメ」

 彼は、何度も繰り返している。俺は、その声に、気付く。
 気付いて、意識を浮上させる。

「ヒメ!」

 気付くと、俺は自宅のリビングの床に倒れ込んでいた。
 深い海の底から、水面に浮上したように、意識が切り替わる。
 
 俺を呼んでいたのは、タイタンだった。

「ヒメ……どうした?」

 タイタンは、俺の顔を心配そうな表情で覗き込んでいる。
 妙に心臓が暴れまわる。息がうまくできない。

 俺が意識を取り戻すのと同時、タイタンは安堵したような溜め息をついた。


814 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:33:54 UdxhWcCw

 俺は、今目にした光景を、うまく消化できずにいた。

「……今、何が起こった?」

 そう訊ねたけれど、タイタンは混乱した様子で首を横に振った。

「分からない。おまえが急に倒れたんだ」

「……俺が?」

「ああ。俺の願いを言った直後……」

 タイタンは俺から視線を逸らし、部屋の一点を睨む。俺はその視線を追いかける。 
 シロが、当り前のような顔で座ったまま、ココアを飲んでいた。

 部屋の掛け時計を見る。シロと話していたときから、時間はそんなに流れていない。


815 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:34:52 UdxhWcCw

「どういうことだ?」

 俺は、シロにそう訊ねた。彼女は肩をすくめた。

「さあ。悪い夢でも見てたんじゃない?」

「夢?」

 俺はなにを言えばいいのか、分からなくなってしまった。

「俺がさっき見た景色は、なんだったんだ?」

「知らない」

「シロ」

 強い調子ではっきりと名を呼ぶと、彼女は一瞬、怯えたみたいに震えた。
 それから、急に不機嫌な調子になる。

「べつに。からかっただけだよ」


816 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:35:25 UdxhWcCw

「……からかった?」

「なんでもいいでしょ」

「タイタンの願いを、叶えなかったのか?」

「……ねえ、お兄さん、さっき言ってたよね?
 わたしが暇つぶしをしたのは、わたしにとって何か想定外のことが起こったからじゃないか、って」

 彼女は短く溜め息をついて、ココアを飲み干す。

「あれ、正解だよ。この繰り返しの中で、わたしにとって想定外の事実がはっきりしちゃったの。
 だからね、言ってしまえば、わたしにはもう、願いを集める理由がなくなっちゃったんだよ。
 わたしはもう、世界が繰り返されようが、なんだろうが、どうだっていいの。だから、暇つぶし」

「じゃあ、タイタンの願いは、叶えなかったのか?」

「そう何度も、自分に都合よく世界を作り変えられると思わないでよ」

「俺は……」

「違うの? お兄さんは、自分に都合の悪い現実から目を逸らした。
 目を逸らしたあげく、これじゃ駄目だって言って、元に戻してってお願いしてるんだよ?
 そんなふうに自分勝手に世界を作り変えていたら、きりがないんじゃない?」


817 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:36:33 UdxhWcCw

 俺は答えられなかった。何も言えない。タイタンが、気まずげにこちらを見ているのが分かる。

「俺は……」

「じゃあ、質問なんだけど、お兄さん。さっき、わたしが見せてあげた景色なんだけど……。
 あれは、嘘。作り変えた世界でもない、ただ、見せただけの映像。
 でもね、もしあれが現実だったとしたら、お兄さんはどうする?」

「……どうする、って」

「つまり、もしもお兄さんの願いがなくなって、その景色が繰り返されるとしたら、お兄さんはどうするの?」

 俺は、答えに窮した。

「現実を歪めようとするでしょう? 自分に都合の良いように。どうにかして、あの景色をなかったことにしようとする。
 さいわい世界は繰り返されているから、お兄さんはしようと思えば、簡単に未来を変えられる。
 でも、お兄さんはさっき言ってたよね。世界は都合よく歪んだりしない。"それが自然だ"って。あれは嘘だってことだよね?」


818 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:38:01 UdxhWcCw

 つまり、お兄さんは逃げようとしているだけなんだよ。シロはそう言った。

「お兄さんは、つらいんでしょ。自分が、自分に都合の良いように世界を捻じ曲げてたって事実が。
 女の子たちの気持ちを歪めて、自分の欲望を満たして、そんなことを繰り返していたって事実が。
 だから、なかったことにしたいだけでしょ? 苦しんでいるシショさんのことなんてどうでもいい。
 このまま繰り返されていたら、"自分"がつらいから……また"自分"に都合の良い世界にしようとしてるだけ。
 自分のみすぼらしさを、惨めさを、みっともなさを、帳消しにして、忘れてしまいたいだけなんでしょ?」

「違う」と俺は声を絞り出したけれど、震えていて、説得力なんてかけらもなかった。

「もし本当に、世界を都合よく歪めるのが不自然だっていうなら、お兄さんはこの繰り返しを受け入れるべきだよ。
 これ以上、なにもせずに。そしてずっと、この繰り返しの中で苦しんでいるといい。
 わたしはその景色をずっと見ていてあげるから。だから……永遠に苦しみ続けてよ」

 俺は反論したかったけれど、できなかった。
 あの妹の姿を見た後、俺はたしかに思った。深い混乱の中、思考はたしかに導き出した。
「世界は繰り返されているんだ」と。
「この景色が現実だとしても、なかったことにできる」と。


819 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:39:18 UdxhWcCw

 シロは退屈そうな目でしばらく俺のことを眺めていたが、やがて小さくあくびをした。

「わたし、お風呂に入るね。今日は泊めてもらえるんでしょう?」

 俺は返事もできなかった。シロが俺を横切っていく。声を掛けることもできなかった。
 
「ヒメ」

 タイタンは、俺を呼んだ。俺は彼の顔を見れなかった。
 情けなさや、恥ずかしさや、惨めさ、申し訳なさ。
 ごちゃ混ぜになった自分勝手な感情の渦が、俺から言葉を奪った。
 
「……今日は、帰るよ」

 タイタンは、何が起こったのか、ちゃんと把握できていないはずなのに。
 俺の様子を見て、そう呟いた。やはりそれにも、返事はできなかった。


820 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/13(木) 01:39:54 UdxhWcCw

 タイタンが去ってから一分もしない内に、玄関の扉がもう一度開いた。

「ただいま」という妹の声。

 返事もせずにいると、勝手に「ちょっとコンビニで立ち読みしてた」と説明してくれる。
 それから彼女はシロの靴に気付いて、「誰かいるの?」と訊ねてきた。

 俺は答えられなかった。何を言う資格も、自分にはないような気がした。

 分裂した俺の思考は、シロのさっきの言葉とは別に、こうも考えていた。
 もし、さっき見た景色が本当に、現実の世界だったとしたら……。
 俺は、"現実"になんて戻れなくていい、と。
 司書さんが苦しんでも、繰り返しがなくなったとしても、嘘の世界のままでいい、と。

 そんな気持ちでさえ、シロには嘲笑われてしまうだろう。
"大義名分が手に入ってよかったね"、と。

「お兄ちゃん? ……どうして泣いてるの?」



825 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:31:06 lZymy9po


 俺はリビングのソファに腰を下ろして、瞼を閉じた。
 それから深く息を吸って、吐き出した。頭の奥でジンジンとした熱が脈動している。

「どうしたの?」と妹は訊ねてきた。今はその声に答えられない。 
 目元を拭い、鼻の奥からこみあげてくる痛みのような感覚を抑えた。

 何が問題で何が問題じゃないのか。それが分からなかった。

 口を開く。でも、言葉が出てこない。何を言えばいいのか分からない。
 俺の口は欠陥品だから、ほしい言葉がいつも出てこない。

 それでも必死に伝えようとしても、出てくる言葉は薄っぺらだ。
 気持ちの半分も、言葉では伝わらない。

 気持ち悪い虚脱感。地面が揺れている気がする。


826 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:32:33 lZymy9po

 妹はしばらく、何か訊きたそうにしていたけれど、結局何も訊いてこなかった。
 ただ黙って、俺のそばに立ち、それから、おそるおそる、というふうに、手を伸ばしてきた。

 頭に触れる、手のひらの感触。

 払いのけようとした。
 
 それなのに、できなかった。俺は黙り込んだまま手のひらで目元を抑えた。
 
「よしよし」、と妹は言った。からかうふうでもなく、かといって重苦しくもなく。
「おはよう」とか「おやすみ」とか、「いってらっしゃい」とか、「いってきます」みたいに。
 まるで当たり前みたいに。

 瞼を閉じると、さっき見せられた光景が生々しく蘇る。
 この世界では、彼女は無事だった。そのことすら喜ぶことができない。

 何を基準に、どう行動すればいいのか、それが分からない。


827 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:33:34 lZymy9po

 そのまま時間が流れた。流れた、ような気がする。たぶん、流れたのだろう。
 ずいぶんと長い間そうしていたという気もするし、ほんの少しの時間だったという気もする。

 とにかく、俺は頭の上に載せられた妹の手のひらを掴み、引き離した。
 何を言えばいいのか、やっぱり分からなかった。

 ありがとう、でも、ごめん、でもない。

「……おかえり」

「ただいま」

 彼女は、もう涙の理由を訊ねてはこなかった。

「でんわ」、と俺は言った。それは言葉というよりは、単なる音の連なりのように聞こえた。
 とても空疎だった。

「でんわ?」と繰り返してから、妹はポケットを探り、携帯電話を取り出す。
 画面を開いて、彼女はちょっと「しまった」という顔をした。

「ごめんなさい。サイレントになってた」

「うん」

 申し訳なさそうな顔をする妹に、俺が返せたのは頷きひとつだけだった。


828 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:34:22 lZymy9po

「……ひょっとして、心配かけた?」

「いや……」

 これは本当だった。俺はほとんど心配なんてしていなかった。
 タイタンやシロと話している間も、一応電話は掛けたけれど、それだけだ。
 
 何かあったのかもしれない、と考えながらも、心の中で、何も起こるはずがない、と思っていた。

「ごめんなさい。……それで落ち込んでたわけじゃないよね?」

「うん。少し違う」

「心配かけて、ごめんなさい。でも、ほら。何もなかったから」

 そういう問題じゃないんだ、と俺は頭の中だけで答えた。
『夜の来訪者』の一節を、俺は思い出す。

 ――でも、悲劇は起こったかもしれないのよ。


829 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:35:51 lZymy9po


 リビングは不自然な沈黙に埋め尽くされていた。
 俺と妹は互いに言うべき言葉を探していた。そのことに、お互い気付いていた。

 静寂を破ったのは、無遠慮な声だった。

「ねえ」というシロの声。妹は俺の方を見る。俺は妹の方を見る。

「誰の声?」と妹は言った。うまい説明が思いつかなかった。

「服を貸してもらえると助かるんだけど」

 シロの声は続く。
 さすがに黙っているわけにはいかなくなって、俺は妹に対して、シロのことを説明しようとした。
 でも、どう説明すればいい?

 帰る場所がないっていうから連れてきたんだ、とでも言えばいいのか?
 泊めてやると約束してしまったんだ、と? どう考えてもまともじゃない。
 
 でもそれが事実だ。


830 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:36:49 lZymy9po

 俺は覚悟して、説明しようとした。花火のときに顔は合わせているはずだし、状況を説明すればいいだけだ。
 と、口を開こうとしたところで、シロがリビングに姿を現す。

「ねえ!」

 バスタオル一枚を体に巻いただけの姿で。

 妹は唖然とした顔でシロの姿を見た。三秒ほど。その後、視線をこちらに移す。五秒くらい。

「……お兄ちゃん?」

 疑わしげな視線。

「帰る場所がないって言ってたんだ」

 我ながら言い逃れじみた言葉だ。拾ってきて隠していた捨て猫を家族に見つかったときのような。

「それで、連れてきたの?」

「……」

「……バカなの?」

 返す言葉もなかった。


831 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:37:20 lZymy9po


 妹は真正面からシロに向かい、家に帰るように説得しはじめた。
 しばらく口論とも言えないような言い合いが続いたが、折れたのは妹の方だった。

 シロは絶対に帰らない、と言った。
 警察に連絡する、と妹が言うと、「お兄さんに変なことをされたって言うけど、いい?」とシロが真顔で呟いた。
 本当は、シロならそんなことをしなくても逃げられるだろうけど、妹に対する言葉としてはこれが効果的だった。

 彼女は長い溜め息をついてから俺の方をじとっと睨み、最終的にはシロの世話を買って出た。
 結局そうする以外に方法がないのだ。

 俺はシロの世話を妹に任せることにした。
 無責任だという気もしたが、もはや俺にとってシロは庇護の対象ではない。 
 シロの方も、今は穏やかにしているけれど、その気になれば何をするか分からないのだ。

 俺は自室に戻り、ベッドに腰掛けてしばらく考えごとに耽った。


832 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:38:10 lZymy9po

 世界は繰り返されている。世界は作り変えられている。
 現実の世界で何が起こったのか、俺は知らない。

 シロはもう、願いを叶えるつもりはないらしい。

 じゃあ、どうすればいいんだ? どうすることができるんだ?
 そもそも、この世界の繰り返しは、どんな願いから生まれているんだろう。

 繰り返しそのものが願いなのだとしたら、もう取り返しがつかない。
 願いそのものをなくすことでしか、繰り返しは止まらないことになる。

 でも、そうなのだろうか?
 シロはさっき、俺に『映像』を見せた。
 そして俺の願いは、「見てみたい」だった、とシロは言っていた。

 願いの言葉をそのまま受け取るなら、シロは俺に、可能性を映像として『見せるだけ』でもよかったはずだ。
 それなのに、彼女は世界を『作り変える』ことで俺の願いを叶えた。

 繰り返しという結果も、そのような歪みから生まれたものなのかもしれない。


833 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:39:24 lZymy9po

 そこまで考えて、俺は何かが引っかかるのを感じた。
「見てみたい」、というのが俺の願いだった、とシロは言っていた。

『“自分がこうじゃなかったら”って世界を見てみたい』

 彼女はたしか、そんなふうに言っていた。
 どうして、『見てみたい』だったのだろう。そういうふうに『してほしい』ではなく?

 考えて見たけれど、その理由は思いつかなかった。単なるニュアンスの違いだったのかもしれない。

 俺は溜め息をついてから、司書さんのことを考えた。
 彼女は、繰り返しの記憶を持っている。そして、その記憶に苦しめられている。

 司書さんは苦しんでいる。自分で自分を責めている。
 自分で自分に有罪判決を下し、自分で自分に罰を与えている。

 自己処罰。


834 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:40:25 lZymy9po

 シロに見せられた景色と、彼女の言葉のせいで、俺は自分がどうすればいいのか、分からなくなってしまった。
 
 世界を変えたのが俺のエゴだとしたら、世界を戻そうとするのも俺のエゴなのかもしれない。
 俺はそれを、分かりやすい大義名分で糊塗し、ごまかしていたのかもしれない。

 そう考えると、身動きがとれなくなった。

 司書さんは、苦しんでいる。
 でも、よくよく考えてみれば、それは“俺のせい”ではないのだ。

 そして、自分とは無関係の苦しみなんて、そこらじゅうにありふれている。
 掃いて捨てるほど。

 繰り返しの責任は、俺にはない。司書さんの記憶があるのも、俺のせいじゃない。
 記憶があるせいで司書さんが苦しむのも、俺のせいじゃない。

 ましてや、シロの言う通り、世界を元通りにしたら、俺にとって大切な人が、今度は苦しむことになるかもしれない。

 選択の余地が、どこにあるっていうんだろう。
 でも、だからといって、このままでいいはずがない……。


835 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/14(金) 02:40:58 lZymy9po


 風呂に入ってから自室に戻って、そのままベッドに入った。
 明日も学校に行かなければならないのだと思うと不思議な気がした。 
 
 それどころではないことが、起こっているはずなのに。
 でも、学校を休むわけにはいかない。

 なぜなのかは知らない。でも、それがルールだ。

 どんな状況であれ、学校には行くべきだ。

 世界は無秩序を指向する。だから抗わなきゃいけない。取り戻すべき現実を見失わないために。

 俺は瞼を閉じたけれど、眠れなかった。いつも俺を悩ませていた気怠い眠気が、今ばかりはまったく降りてこない。
 そのまま三十分ほど、何かを考えるわけでもなく、ベッドの中で目を瞑っていた。

 不意に、ノックの音が聞こえた。返事はしなかった。
 それなのに、扉は勝手に開かれた。

 視線を向けると、パジャマ姿のシロが、落ち着かないような素振りで、こちらの様子を窺っていた。




838 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:50:35 gfyAAu/E


 目が合ったはずなのに、何も言葉を発さずに、シロは部屋の中へと入ってきた。
 何かに気を遣うみたいに足音をひそませて、彼女は扉を閉めた。

 こちらをじっと見つめたまま、彼女は黙り込んでしまう。

「どうした?」

 訊ねると、体をびくりとその場で震わせて、怯えたように顔を逸らした。
 どうしたというんだろう。

「べつに。……ねえ、灯りをつけていい?」

「もう寝ろよ」

「眠れないの」

 知るか、という気持ちと、いったいどうしたんだ、という気持ちが、綯い交ぜになっていた。
 シロの態度のなにもかもが、不自然に思える。

「暗いのは、怖いんだよ」


839 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:51:08 gfyAAu/E

 俺は仕方なくベッドを抜け出した。灯りをつける為に扉の方に向かうと、シロはビクビクと体を揺らした。
 彼女のすぐ傍の部屋の灯りのスイッチを押す。灯りがつく。
 
 シロはほっとしたように溜め息をついてから、悔しそうな顔でそっぽを向いた。

「いったいどうした?」

 その質問に彼女は答えなかった。何を言うでもなく、立ったまま部屋のあちこちを見回している。
 
 苛立ちや恐れすら感じなかった。あったのは、ただ戸惑いだけ。
 さっきまでとはまったくちがう彼女の様子は、なぜか俺を強く不安にさせた。

 さっきは、あんなにも堂々と、俺を責めてみせたのに。
 今は年相応の――見た目相応の、少女みたいな態度だ。
  
「眠れないの」とシロは繰り返した。

「……どうして?」


840 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:51:48 gfyAAu/E

「落ち着かない」

「それは、まあ、慣れない家で寝るのは落ち着かないかもしれないけど」

「そういうのとは違う」

「じゃあなに?」

「妹さん、わたしを同じ部屋で寝せようとしたんだよ」

「……はあ」

 俺は和室に布団を敷くつもりだった。そういえば。でも妹は、自分の部屋に眠らせるつもりだったのか。

「何か問題があった?」

「苦手なの」

「なにが」

「……女の子が」


841 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:52:23 gfyAAu/E

 その言葉になんとなく違和感を覚えたけれど、それがなんなのか分からなかった。

「男が得意ってわけでもないだろう?」

「でも、男の人は、だいぶ慣れたから。……やっぱり、気持ち悪いけど」

"慣れた"。変な言い回しだ。俺はあまり深く考えないことにした。
 
「普通は、女の方がマシだと思うけど」

「男の人の方がマシだとは言わないけど、その言い方だと、なんだかわたしが普通じゃないみたい」

 普通じゃないだろう、と考えかけて、ちょっと戸惑う。
 そういえば俺は彼女についてほとんど何も知らない。

"神様"の使い。"こども"。叶えたい願いがある、といつだか言っていた。だから神様を手伝っている、と。
 でも、願いを集めるのはやめた。そう言っていた。


842 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:53:16 gfyAAu/E

 シロは苦しそうに顔を歪めて、言葉を続けた。

「それに、誰かと一緒に寝るの、本当はあんまり好きじゃないんだよ」

「……どうして?」

「灯りが……」

「……」

「灯りが、つけられないから」

「……きみは、今まで、どんな生活をしてきたんだ?」

「答えたよ、その質問。野宿したり、親切な人に助けてもらったり……」

「野宿は平気なんだろ?」

「屋根がないから。でも、建物の中にいると、灯りがないと、どうしても……」

 どうしても、思い出しちゃうから。シロはそう言った。俺はベッドに腰を下ろした。


843 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:54:09 gfyAAu/E

「普段は、ちゃんと割り切ってるんだよ。誰かと眠るのも、暗いのも、気持ち悪いのも。
 でも、今日はそういうのとは違うから。もう、我慢したってどうにもならないから……」

「それは、願いを集めるのをやめた理由と、同じ話?」

 シロは一瞬、息を呑んだ気がした。

 彼女はきっと疲れている。
 だから、花火をしながら涙を流した。さっきから、ときどき怯えた視線を寄越す。
 
「きみは、たしか、叶えてほしい願いがあったから、神様に協力していた、って言ってた。
 いつだったかは、覚えてないけど、たしかにそう言ってた。叶えられるようになるかもしれないから、って」

「本当によく覚えてるね。花丸あげる」

 おどけたような言葉にも、どこかびくびくした響きが宿っていた。
 彼女の様子はあきらかにおかしかった。


844 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:54:58 gfyAAu/E

「つまり、きみの願いは、叶わなかったってことか?」

「……まあ、そう、だね。そういうことになるんだと思う。
 つまり、わたしのやってきたことは、まったくの徒労だった、ってことで」

 俺は少し迷ったけれど、結局、訊ねた。

「きみの願いって、なんだったんだ?」

 彼女は答えなかった。少しの沈黙の後、柔らかに溜め息をついて、苦しそうに微笑む。
 それから静かにこちらに向かって歩いてきて、俺の隣に腰を下ろした。

「お兄さん、覚えてる? 森の中の廃墟で会ったときのこと」

 頷く。先輩……部長と一緒に、森を歩いたこと。 
 シロと、着物姿の少女。先輩と一緒に食べたサンドイッチの味でさえ克明に。
 いっそ忘れていたかったと思うくらいはっきりと。

「わたしの友達がね、あそこで死んでしまったの。もうひとり、知らない子もいたけど。
 両方とも、あそこで死んじゃった。わたしたちは、あそこに閉じ込められていたの。
 長い時間、わたしたちはあそこにいたんだけど、でも、あるとき、わたしだけ抜け出すことができた」

「……なあ、それって」


845 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:56:53 gfyAAu/E

「わたしは森を抜けて、電話ボックスから警察に連絡したの。
 小銭はね、友達が拾って、隠してたのをくれた。
 抜け出す機会があったとき、助けを呼ぶのに使えるかもしれないから、取っておいたんだって。
 バス停が近くにあったから、場所を伝えるのは難しくなかった。でも……」

 シロは瞼をぎゅっと閉じた。彼女の膝の上で、小さな拳がぎりぎりと震えている。

「抜け出したことが、急に怖くなったの。黙ってそこで待っていれば、何もかも終わってくれたかもしれないのに。
 それでね、わたしは……戻ったの。元来た道を。置いてきた友達がどうなっているのか、急に心配になったの。
 でも、走って走って建物に辿り着いて、忍び込んで、部屋を覗き込んだときには、もう手遅れだった」

 死んじゃってた、とシロは言った。淡々とした調子で。そういうふうにしか話せないみたいに。

「……あの男の人は、すごく動揺して、混乱してるみたいだった。荒く息を吐いて、体がかすかに震えてた。
 その場に蹲っていてね、必死になって状況を理解しようとしてるみたいだった。
 わたしも、すごく混乱して、声をあげたかったけど、かろうじてこらえてた。
 怒っていたのか、悲しかったのか、怖かったのか、自分でもよく分からない。
 でも、男の人がいつもわたしたちを脅かすのに使ってたナイフが、傍に落ちていたの。結局彼は使わなかったみたいだけど」

 それで、わたしは、とシロは続ける。

「わたしは、ナイフを拾い上げて、それから……」

 それから、と、そこで言葉が途切れた。テレビの電源が落ちたみたいに、続く言葉は失われてしまった。


846 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:58:22 gfyAAu/E

 俺はしばらくなんの言葉も発せなかった。

 さらわれた女の子は三人で、見つかった死体は、犯人のものを含めて三つだった。
 最後の一人は、行方不明。

 犯人の死体には、刺突の痕がいくつも残っていた。
 行方不明になった女の子は、今でも見つかっていない。

「わたしが逃げ出さなければ、あんなふうに殺されなかったはずなんだよ」

 シロの声は震えていた。

「わたしのせいで死んだの。わたしのせいなのに、わたしが生き残ったんだよ」

 そんなわけがあるか、と俺は思った。もし今の話がすべて事実だとしても、シロのせいじゃない。
 強い混乱の中で、俺はたしかにそう思った。でも、きっと、そういう問題ではないのだろう。
 自分で自分に下した有罪判決ほど、覆しがたいものはない。

「そんなの間違ってるって思った。でも、現実に死んでしまっていたんだ」


847 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 01:59:26 gfyAAu/E

 それからのことは、もうよく覚えていない。シロはそう言った。

「でも、そのあとだったはずなの。“神様”と会ったのは」

「……神様」

「うん。神様は、わたしに言ってくれたの。神様は、わたしと同じような目に遭ったんだって言ってた。
 だから、わたしのような人間の為に、力を使いたいんだって。不思議な力があるんだって言ってた。
 わたしは、だから、間違いを正してもらおうと思った。ふたりを生き返らせてって」

「でも、それはできなかった」

「……うん。現に起こったことを変えてしまうのはすごく難しいんだって言ってた。
 もっともっと大きな力が必要になるって。ひょっとしたら、無理かもしれないって。
 そのあと、お兄さんが知ってる通り、わたしは願いを集めるようになった」

 言葉の中に引っかかりを覚える部分があったけれど、情報を整理するのに精一杯で、訊き返すことはできなかった。


848 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/15(土) 02:00:40 gfyAAu/E

「最初は、願いを集めるのに、抵抗なんてなかった。
 誰かの願いを叶えることで力が溜まっていくんだから、それはすごくいいことだって思った。
 でも、段々と分かってきたの。みんな自分勝手な欲望を満たしてるだけなんだって。
 いろんなことをしたし、いろんなことをされた。でも、仕方ないって思った。
 どれだけ苦しい目に遭ったって、当り前なんだって。だって二人はわたしのせいで死んだんだから」

 むしろ、苦しくて当たり前なんだって思った。わたしは苦しむべきなんだって。

 俺は溜め息をついた。

「なあ、きみは、生きているんだよな? 今の話だと、死んでいないはずだ。
 でも、きみの体は? あの事件は五年くらい前に起こったんだろ。どう考えたっておかしい」

 シロは静かに頷いてから、答えてくれた。

「神様と協力するって決めたとき、神様の力を借りるかわりに、こうなったの。
 肉体は成長を止めて、人々の記憶から、わたしという人間が薄れていくって。
 事実の形も、少しずつ歪んでしまうって。だから、家族に会ったって、誰もわたしに気付けないの」

 シロはそのまま黙り込んでしまった。俺はなにを言えばいいんだろう。
 何を言えるんだろう。

 この話を、俺は信じるのか? 荒唐無稽な、でたらめみたいな話を。
 でも、もしこの話のぜんぶが嘘なら……いま、シロの頬を流れている涙も、やっぱり嘘なんだろうか。



854 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:04:53 4R28lbaQ


 シロの体は俺のすぐ隣にある。それはたぶん事実だ。
 空気を伝って彼女の温度が分かるような気さえする。

 彼女はたぶん泣いていたんだけど、目を向けるともう涙の跡すら残っていなかった。
 目が合うと、彼女は微笑んだ。俺は自分がどんな表情を見せるべきなのか決めかねてしまった。

 何かを言いたい気がして口を開いたのに、不思議と何も思いつかなかった。 
 
 うまく整理がつかない。彼女の話が、現実に起こったことと連結してくれない。

 ――でも、もし生きているとしたら、ヒメくんと同い年くらいになりますね。

 俺にとってあの事件は、一時的に割り込んできた非日常でしかなかった。
 近隣で起こったから、多少は不安にだってなったけど、実際に自分の身に降りかかったことではない。
 
 だから、時間が経てば忘れることだってできた。話の輪郭だって、今はぼんやりとしか思い出せなかった。

 でも、シロにとってその事件は終わってなんかいない。
 世界はその日の地続きだった。
 
 そういうことが、この世のどこかで、いつも起こっている。そのくらいのこと、俺だって知っていたはずなのに。


855 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:05:25 4R28lbaQ

 ただでさえまともに動いていなかった俺の頭は、シロの話を聞いてよりいっそう凍てついていく。
 空気が段々と粘ついて、肺から吐き出すことが難しくなる。 
 
 静かに、深く、溜め息をつく。
 
 そして調子を取り戻そうとする。冷静になろうと試みる。
 俺の身に降りかかった出来事ではないんだ、と俺は考えてみる。
 彼女は俺じゃない。物語の中で起こった出来事みたいなものだ。

 そう思わないでどうして生きていけるだろう。
 みんな苦しんでいる。いろんな形で。いちいちその苦しみに共感している余裕なんて誰にもない。
 どこかで折り合いをつけないといけない。

 俺の身に起こったことじゃない。……俺の身に起こったことじゃない。
 
 でもどうしても割り切ることができなかった。どろどろとした何かが胸の内側で溜まっていく。
 だからといって、それをどうこうできるというわけでもない。
 言葉にしてしまうのも、涙にしてしまうのも無責任だ。だって俺は当事者じゃないんだから。

 ただ静かに降り積もっていく。


856 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:06:12 4R28lbaQ

「なあ、シロ」

 俺はごく当たり前のような調子で言った。彼女は普段とは違う、わずかに沈んだ声音で返事をする。

「なに?」

「きみの願いは、死んでしまったふたりを生き返らせたい、だって言ったよな」

「……そう」

「こうも言ってた。"想定外の事実が判明して、願いを集める意味がなくなった"って。
 それって、つまり、きみの願いが叶わないってことか? 願いが叶わないと分かったって意味なのか?」

 シロはもう何かを隠すつもりもないようで、俺の質問に簡単そうに頷いた。

 訊かれれば答えるし、訊かれなければ何も言わない、というような態度。
 億劫そうな、気だるげな仕草。彼女はフローリングの一点を意味もなさそうに見つめていた。
 べつに特別な興味があるわけじゃないんだけど、かといって他の何かを見ていたいわけでもないから、というふうに。
 
 視線すら、居場所を失っているみたいだった。


857 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:07:43 4R28lbaQ

「でも、それっておかしくないか?」

「……なにが?」

「きみは言ってた。"俺にとって都合の良いように、世界を作り変えていた"って。
 世界を作り変えるなんてことができるなら、神様の力はとっくに、死人を蘇らせられるくらいに集まってたんじゃないのか」

「残念だけど」と彼女は静かに首を振って、ばかばかしそうに笑った。

「世界を作り変えたって言い方をすると、たしかにそういうふうに聞こえるかもしれないけどね。
 厳密に言うと少し違う。わたしに変えることができたのは、いくつかの事実と、あとは認識だけ」

「……認識?」

「つまりね、感情や心理を改変する方が、事実を歪めるより簡単なの。
 たとえば、お兄さんが犬を飼っていたという事実を作るのは、それだけですごく難しい。
 犬そのものを作り上げないといけない。ほとんど不可能に近いくらい、難しい。ズルをすればできなくもないけど」

「……じゃあ、認識っていうのは?」

「つまり、"お兄さんは犬を飼っていた"という認識を、お兄さん自身に植えつけるのはすごく簡単なの。
 たとえばこの世界でその認識をお兄さんに植えつけていたとしたら、お兄さんは犬がいないことを不自然だと感じていたはず」

 ……うまく理解できないが、聞いただけの印象で考えてしまうと、本当にこの世界は信用ならないようだ。


858 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:08:34 4R28lbaQ

「でも、逆に言ってしまえばね、わたしはこの世界について、事実を変えることはほとんどしていないの。
 ただ、いろんな人の認識をちょっとずついじくったり、順序を変えたり、そういうことしかしてない。
 この世界でお兄さんの友達ふたりがお兄さんと仲良くできたのも、わたしがそういう認識を植え付けたからなの。
 つまり、お兄さんとお友達は仲直りした、というふうに」

「……じゃあ、たとえば、アメや、先輩や、ヒナのことは、事実じゃなくて認識をいじっていたってことか?」

「そうなる。ショック?」

「それはね。でも、ショックを受けるのも勝手な話だろ」

「でも……」

 シロはそこで、何かを言いかけたのに、結局何も言わなかった。

「なに?」

「言わないでおく。本当は意地悪のつもりだったんだけど、いま聞いても、戸惑うだけだろうから」

「……まあ、いいけど。でも、じゃあ、きみが歪めた事実っていうのは、なんだったんだ?」


859 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:09:29 4R28lbaQ

「本当にささやかな、いくつかの事実だけだよ。自転車の鍵とか、冷蔵庫の中身とか。
 他のことはほとんど何も変えてないんじゃないかな、と思うけど、思い出せないだけかも」

「自転車の鍵って、アメの……」

「そう」

「じゃあ、やっぱり、俺は自転車の鍵を探すのを手伝ったりしてなかったわけだ」

「ん……」

 シロは言いにくそうに唇を歪めた。どう言おうか、というふうに。

「あのね、それ、逆」

「え?」

「お兄さんは本当は手伝ったんだよ。ごく当たり前に」

「……でも、そんな記憶ないけど」

「……それね、わたしはいじってないから、単にお兄さんが忘れてるだけだと思う」

 緊張の糸が微妙に緩んだ。シロは一瞬困った顔をしてから、静かに咳払いをする。


860 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:11:04 4R28lbaQ

「つまり、わたしに変えられる事実なんて、自転車の位置くらいだったわけ。
 それ以外は全部、認識を変えて、その後の世界を変えていたんだよ」

「でも、じゃあ、"自転車の鍵探しを手伝わなかった"世界をわざわざ作ったわけだよな? どうしてそんなことをしたんだ?」

「いろんな可能性を見てみたいって言われたから。最初の頃は、変えられる範囲でやってみようと思ってたんだよ。
 でも……まあ、なんていうか、けっこう体力いるし、面倒だし、認識だけでもなんとかなりはじめたから」

 面倒と言われてしまうと身も蓋もない。

「逆を言えば、きみは“事実”に関しては、ほとんど手を加えていないってこと?」

「うん。……そうなるね」

 そこまで訊いてから、俺はなんとなく違和感を覚えた。また。何度も同じようなところに引っかかる。
 けれど、その違和感については一度保留し、俺はいいかげん話を進めることにした。

「まあ、とにかく、きみにも死んだ人を蘇らせることまではできなかった、っていうわけか」

 だから、シロは願いを集めるのをやめてしまった。神様の願いを集めても、結局成し遂げられないと悟った。


861 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:12:15 4R28lbaQ

 ……あれ?

 それっておかしいよな、と俺は思った。なにか、おかしい。
 死んだ人を生き返らせることができない?
 ……でも、“世界は巻き戻っている”。

「なあ、何度も言うようだけど、この世界は繰り返されているんだよな? 巻き戻っている」

「……うん」

「じゃあ、どうして死んだ人を生き返らせることができないんだ?
 時間を巻き戻せるなら、事実を変えるのも簡単だって感じるんだけど」

「それは、願いが混ざっちゃって、事実がいろいろと作り変えられてるから、そう感じるだけ。
 本当は、同じ出来事、同じ世界が、何度も繰り返されているだけだったんだよ。事実を変えることなんてできなかった」

「いや、俺が言いたいのは、つまり……今のきみは、巻き戻しの直後でも、記憶を失っていないじゃないかってことなんだよ。 
 時間を巻き戻して、きみが何かの行動をとれば、誰かが死んだって事実を変えることはできるんじゃないのか?」

 シロは溜め息をついた。俺は自分の言葉を後悔した。それができるなら、彼女がここにいるわけがない。


862 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:12:55 4R28lbaQ

「わたしと出会った当初、神様は世界を巻き戻すことができなかった。
 だから、死んだ二人を生き返らせることはできなかった。この数年で願いを集めて、ようやく巻き戻せるようになった。
 でも、巻き戻せるのは、ほんの短い期間だけ。二週間から三週間……そのくらい」

 五年、願いをかき集めて、やっと三週間。

「時間は絶えず流れ続けるから、願いを集めて、長い時間遡れるようになっても、必要な量はどんどんと増えていく」

 だから追いつけない。ずっと。

「……でも、きみはこうも言ってた。“願いを集めるのに、繰り返しは支障にならなかった”って。
 じゃあ、繰り返しの中で願いを集めれば、そこに遡ることができるんじゃないのか?」

 話しているうちに、俺は段々と混乱してきた。いったい自分が何を言っているのか、よくわからなくなってきた。

「うん。遡ることはできる。でも、無駄なんだよ」

「どうして?」


863 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:15:24 4R28lbaQ

「繰り返しの中でも、願いを集めることはできた。実際、他の力に関しては、徐々にできることも増えていった。
 巻き戻る期間は、たぶん願いを叶えたタイミングで決まってるんだろうね。ずっと二週間から三週間くらい。
 でも、"巻き戻し"っていうのは、結局"巻き戻る"だけなの。
 今日から一週間前に巻き戻ったとしても、今日までのまったく同じ一週間が繰り返されるだけ。
 わたしや神様も、そこからは逆らえない。同じ本を読み返すみたいに、同じ光景が流れ続けるだけなの。
 今は自由に動いているように見えるかもしれないけど、それはあくまで……お兄さんの願いによって、変化が生まれてるからってだけ」

 だから、もしこの繰り返しの中で願いを集めて、過去のある地点まで戻れたとしても、過去を変えることはできない、と。
 俺はどう答えればいいのか分からなかった。シロの言っていることには、なんとなく納得できなかった。
 理不尽な現象を、理屈で理解しようとしても、無駄だというだけかもしれないけれど。

「でもね、それ以上の理由があるの」

 シロは俺の方を見上げて、かすかに微笑んだ。綺麗な微笑。子供みたいな微笑。
 不器用そうな笑顔。

「五年で二週間なら、十年で一ヵ月。じゃあ、六十年で六ヵ月。百二十年でやっと一年。
 わたしはこの何週間かの日々を、そのくらい繰り返さなきゃいけない。繰り返して、誰かの願いを叶え続けなきゃいけない。
 記憶を持っているお兄さんも、司書さんも、それだけの日々を繰り返さなきゃいけない。
 ねえ、お兄さん。わたしが言いたいこと、分かる?」


864 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:16:14 4R28lbaQ


 俺たちはしばらく黙り込んでいた。目も合わせなかった。
 ただどろどろとした沈黙だけが部屋を澱ませていく。

 息の詰まる居心地の悪さをごまかすみたいに、俺は口を開いた。
 何かを言わずにはいられなかった。
 
「なあ、シロ」

「なに?」

「そもそも、世界はどうして巻き戻ってるんだ?」

「分からない?」

「……」
 
 本当はなんとなく、想像できていた。誰が願ったのかは分からないけれど、内容は。
 そうでなければ、シロはこんなふうにはならなかったはずだ。


865 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/17(月) 03:16:58 4R28lbaQ

「……誰かが誰かを生き返らせようとしたんだな」

 シロは頷いた。

「その結果、巻き戻しが起こった」

「そう」

「つまり、誰かの死を否定するために、世界は巻き戻されている。
 巻き戻すことでしか、生き返らせることができなかった」

 シロはまた頷いた。

「でも、それは"巻き戻される"だけで、事実が変えられるわけじゃない」

「そう」

「巻き戻しが起こっても、本来なら、何度も同じ景色が繰り返されるだけだった。そこに変化がうまれたのは……」

「うん。お兄さんと、シショさんの願いの影響。お兄さんの願いを経由して、わたしは世界を変化させることができた。
 シショさんも、記憶の重なりを原因に、少しずつ行動が変えてしまって、かすかに世界に影響を与えている」

 逆を言えば、こうした重なりが起こらないかぎり、シロの願いは叶わないということなのだろう。
 巻き戻したところで、変化はしないのだから。
"死の事実を覆したい"という願いを叶えた結果、巻き戻しが起きた。だからこそ、シロは自分の願いが叶わないだろうことを知った。


 

869 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:05:52 Mil6fbu.


「……訊いてもいいか?」

 シロは静かに頷いた。

「どうして、その話をする気になったんだ?」

「べつに。ただ、わたしにはもう――」

 ――何もかもが面倒になって。シロはそう言って笑った。

 俺は静かに溜め息をついた。それから、どういう言い方をするべきだろう、と考える。
 
「きみには、巻き戻しを止めることはできないのか?」

 彼女は静かに頷いた。

「できない」

「きみが起こしたのに?」

「誰かが願えば別だけどね」とシロは言った。


870 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:07:01 Mil6fbu.

「わたしが自分の思うままに誰かの願いをなかったことにできたら、それは危険だからって神様が言った。
 だからわたしには、最初からその権限は与えられていなかった。話がややこしくなるからって。
 どの願いを叶えるのかを決めることはできたけど……」

「……でも、俺の願い事に関しては、結構いろいろ細工してたんだよな?」

「うん。でも、巻き戻しに関してはできない。お兄さんのお願いは、結局、"見せるだけ"だったから。
 それに、それぞればらばらに細工をしていたわけで、願いそのものをなかったことにしたりはしなかった」

 その点も不思議だったけれど、俺はそれについては何も言わずに言葉を続けた。

「つまり、巻き戻しの願いは、シロの制御下にはなかった?」

「そう。巻き戻しは、勝手に起こったことなの。願いを叶えた結果。
 あの願いの結果、どうなるかはわたしにも分からなかった。叶わないんじゃないかってわたしは思ってた」

「神様の力じゃ、人を生き返らせることはできなかった。
 だから、その"誰か"が生きている時間まで、世界を巻き戻すことで、願いを叶えた。
 それがそういう結果になるなんてことは、きみにも予想できていなかった。こういうこと?」


871 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:08:38 Mil6fbu.

「うん、そういうこと」

「……なあ、シロ」

「なに?」

「おかしくないか?」

 俺と目が合うと、シロは戸惑ったように目を逸らした。

「巻き戻しには、シロや神様だって逆らえない。さっきそう言ってた。
 じゃあ、どうしてシロは俺の願いを叶えることができたんだ? 世界に細工することができたんだ?」

「それは……」

「きみはこう言ってた。巻き戻しの"ついで"に俺の願いを叶えたって」


872 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:09:41 Mil6fbu.

 シロは諦めたみたいに溜め息をついた。

「たしかに、わたしたちは、記憶を引き継いでる。だから、繰り返しの最中、違う行動をとることもできる」

「それっておかしいよな?」

「……」

「だったら、シロの願いだって、叶えられるはずだ。願いを集めるのに、途方もない時間が掛かるとしても。
 本当なら不可能だったかもしれないけど、いま、世界は繰り返しているし、繰り返しの中で願いを集めることもできた」

「無理なんだよ」とシロは首を振った。

「わたしはね、自分の願いを叶えてもらうまで、神様に協力する。そういう約束だったの。
 だから、わたしの願いが叶えられてしまえば、わたしは神様の力を失って、記憶を引き継ぐこともできなくなる。
 期間はもう関係ないんだよ。死を覆す願いが、"巻き戻し"という願いで叶えられてしまうと分かった時点で、もうどうしようもないの」

「……でも、神様には記憶が残ったままだ。だったら」

 シロは短く首を横に振った。

「たぶん、無理だと思う。神様は、願いをきいて、それを叶えたら、おしまい。 
 わたしの願いは、たぶん神様の中では、巻き戻しだけで"叶った"ことになる。
 神様は自分の力を信仰してるの。だから、力が一度出した結果以上のことはしようとしない。
 でも、それは事実でもあるの。わたしや神様は、繰り返しの中で起こっていることに、ほとんど影響を与えられない」


873 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:13:53 Mil6fbu.

「記憶を引き継いでも、わたしは本当に、世界に影響を与えられないんだよ。
 何かしようとしても、自分たちの力じゃどうしようもない。"繰り返し"の原因には、影響を与えられない」

 彼女は小さく首を横に振った。

「それに、わたしの力っていうのは、願いを叶えるためだけにしか使えないの。
 自分のためには、ほとんど使えない。誰かの願いを叶えるためにしか、使えない」

「……それも、やっぱり変だよな?」

「……」

「きみが、さっき俺に見せた映像は、じゃあ、どんな願いの影響で見せたんだ?
 それに、もっと苦しめと言って、俺に繰り返しの記憶を戻したのは、誰の願いを叶えるためなんだ?」

 シロは何も言わなかった。

「きみはこう言ってた。願いは三つ重なってるんだって。逆を言えば、三つだけだ。
 司書さんの願いは、記憶に関するものだけだ。あの人自身もそう言ってた。
 じゃあ、残りのどちらか二つの願いだよな。俺の願いか、もう一人、誰かの願いか」

「……」


874 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:15:39 Mil6fbu.

「俺の願いは、俺自身が思い出せていないからきみの言葉を信じるしかないけど……。
 きみの言葉を信じるなら、たしか、『自分がこうじゃなかったらって世界を見てみたい』、だったはずだ。
 この願いに対して、俺の記憶を蘇らせてしまうのはおかしい。
 べつに矛盾するわけじゃないけど、そんなことをするまでもなく、『世界を見る』ことはできてたから」

「……お兄さん」

「だとすると、俺の記憶を蘇らせたのは、もうひとつの願いのためってことになる」

「お兄さん、わたしは……」

「つまり、この巻き戻しを引き起こした願い。誰かを生き返らせる願い。
 それを叶えるために、きみは俺の記憶を刺激してるんじゃないのか?」

「……」
 
 シロは黙り込んだ。彼女はさっき、「繰り返しの原因に対しては影響を与えられない」と言っていた。
 つまり彼女は、繰り返しの原因に対して影響を与えようと、試みたことがあるのだ。
 
「……神様にはね」

 俯いたまま、シロは口を開いた。


875 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:17:08 Mil6fbu.

「神様には、諦めた方がいいって言われたの。繰り返しが起こるって分かったときにね。
 さっき言ったように、神様は自分の力を信じてるから。
 願いを集めてそういう結果になったということは、それ以上はできないんだって」

「……どういうこと?」

「でも、わたしは、できるはずだって思ったの。だってわたしはちゃんと記憶を引き継いでるんだから。
 だから過去を変えられるはずだって。でも、できなかった。わたしが干渉しようとしても、できなかったの。
 どうしてかは分からないけど、いつも、死んでしまうの。結果だけは変えられないの」

 だから……、と言いかけたところで、彼女は口を噤んだ。

「……だから?」と俺は続きを促す。

「……だから、つまり、わたしの願いが叶っても、そうなるだろうって分かってしまったわけね。
 そうである以上、わたしにはもう、願いを集める理由なんて、本当はなかった。
 だから、嫌気がさして、お兄さんに皮肉や意地悪を言ったりもした。たくさんね。
 自分本位な願いを叶えていい気になってる人なんて、もっともっと苦しめばいいって思った」


876 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:17:48 Mil6fbu.

 まず最初に、繰り返しが起こる。シロはそれによって"誰か"の願いを叶えようとした。
 でも、シロはそこに介入できず、俺の願いを叶えるようになる。……いや、違うか。

 ――お兄さんはまったく無関係の、巻き込まれちゃっただけの、赤の他人だから。
 ――でも、同じ時期に叶えちゃったから、一応様子見してるだけ。

 願いを叶えたのは"同時期"だった。思い出してみれば、奇妙な言い回しだ。今の情報と話が食い違ってる。
 つまり、ああいう言葉が「皮肉」だったという意味か。
 たしかに、彼女はやけに攻撃的だった。最初の頃は。

 でも、途中で変わった。
 単に言葉や態度で俺を攻撃するだけではなく、力を使うようになった。

「たぶん、もう推測できたと思うけど、わたしがお兄さんの記憶を刺激したのは……」

「……三人目の願いを叶えるため?」

 長い沈黙の後、彼女は小さく頷いた。

「わたしには無理だったけど……他の誰かなら、助けられるかもしれないって思った。
 信じてくれるかは分からないけど、わたしだって別に、誰かを不幸にしたかったわけじゃないんだよ」


877 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:18:57 Mil6fbu.

 シロは顔をあげて、こちらを見た。彼女は苦しそうだった。
 話は半分も理解できない。仕組みも、状況も、まったくといっていいほど読み取れない。

 分かるのは、彼女に支配できる領域と、できない領域がある、ということだけだ。

「さっきタイタンが、俺の願いを無効にするように願おうとしたよな。あれを拒んだのは、どうしてなんだ?」

「……お兄さんの願いが無効になったら、お兄さんは巻き戻しの影響を直に受けるんだよ。
 それでも、お兄さんに記憶を植え付けるくらいのこと、わたしにはできるけど……。
 でも、そういうやり方はもう試した。結局ダメだった。"願い"が重複しているからこそ、うまくいく可能性があるの」

 言葉の意味が掴めなかったが、とにかく、質問を重ねた。
 
「……どうしても分からないんだけど、なんでそんな回りくどい手段をとる必要があったんだ?」

 彼女は小さく溜め息をついた。何か言ってくれるかと思ったけど、何も言ってくれなかった。


878 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:19:57 Mil6fbu.

「その"誰か"がどんな死に方をするかは分からないけど、俺の力で歪められるっていうことは、だ。
 つまり、病死なんかではないってことだよな。なにかの事情で突発的に死ぬってことだ」

「……そう、だね」

「じゃあ、きみは俺に、それを阻止するような認識を植え付けてしまえばよかったんじゃないのか?
"何か"が起こるその場に居合わせるようにしてしまえばよかったんじゃないのか?」

 彼女は頷く。

「だから、やったよ」

「……そんな記憶、ないけど」

「この世界で」と彼女は言った。

「この世界で、お兄さんは、たぶんその場に居合わせることになると思う。
 でも、本当は直接的なやり方は避けたかった。いくつかの理由で」

「……どうして?」

 彼女は答えてくれなかった。沈黙が続く。ひっそりとした静寂が、なぜだかいつもよりよそよそしく感じられる。


879 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:20:31 Mil6fbu.

「なあ、シロ。ひょっとして、三人目っていうのは、俺の知ってる奴なのか?」

「……」

「そうだとしたら、繰り返しによって守られてる奴も、俺の知ってる奴なのか?」

 シロは黙り込んだまま、俯いている。肯定、なのだろうか。
  
「シロ」

 縋るような、少し強い調子でそう言ってみる。
 すると彼女は、

「な、なに?」

 と急に顔をあげて、目をぱちぱちさせた。

「……」

「えっと、なんだっけ……?」

「今、ひょっとして寝てた?」

 彼女は気まずそうな顔で俺を見上げた。


880 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/18(火) 03:21:37 Mil6fbu.

「……とりあえず、今日は寝るか」

 なんとも緊迫感のない話だったけど、時計を見るともうだいぶ時間が経っていた。
 話をやめると、シロは途端に船を漕ぎ始め、やがてベッドに倒れ込んだ。

 俺は彼女の体をちゃんとベッドに寝かせ、タオルケットと薄い毛布をかぶせた。
 それから部屋を出る。扉をしめる直前、電気を消しかけて、結局つけたままにした。

 そのまま階段を降り、キッチンへ向かい、水を飲んだ。

 情報が多すぎて整理しきれない。

 でも、分かったことはある。

 この繰り返しの原因は、ある人物の死にある。
 逆を言えば、その人の死さえ避けられるなら、繰り返しは終わる。
 繰り返しさえ終わってしまえば、司書さんも、妙な記憶に苦しめられることはなくなる。

 そこまで考えてから、俺は自分の手が震えていることに気付いた。 
 シロの言葉が正しいなら、近々、俺の目の前で、誰かが死ぬことになるかもしれないのだ。


886 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:13:33 xlx8U5Xo

◇05-01[Subhuman]


 どうしても納得のいかないことがいくつかあったけれど、結局話は終わってしまっていた。
 すぐに眠る気にはなれなかった。俺はリビングのソファでしばらく考えごとをしていた。
 
 考えることはたくさんあったはずなのだ。それなのに、俺の思考の糸はすぐに途切れてしまう。

 ソファのもたれかかっているうちに、よく分からなくなっていく。

 いま手元に存在する感覚。

 何を考えればいいんだろう。シロの思惑とか、現実のこととか、俺の願いのこととか。
 司書さんのこととか、タイタンのこととか、死んでしまう誰かのこととか。

 俺には考えなければならないことがたくさんあるはずなのに。
 頭が働かない。


887 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:14:04 xlx8U5Xo

 シロは、なぜかわからないけど、三人目の願いを叶えたがっている。
 タイタンは、司書さんを助けるために繰り返しをなくしてしまいたい。

 俺は、どうしたいんだろう。

 それが分からなかった。

 そもそも疑問なのだ。

 俺はシロに、"俺がこうじゃなかったら"の世界を見せてほしい、と頼んだらしい。
 でも、よくわからない。どうしてそんなことを頼んだんだ?

 どうして『見せてほしい』だったんだろう。
 どうして『変えてほしい』じゃなかったんだろう。
 
 俺にはよく分からない。どうして俺には元々の世界の記憶がなくなってるんだろう。


888 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:15:01 xlx8U5Xo

 一から全部、誰かにちゃんと説明してほしかった。何が起こったのか。何が起こっているのか。
 そして俺をちゃんと納得させてほしい。結局俺はどうすればいいんだ?

 俺が、シロに願って、自分に都合の良い世界を作ってもらっていたんだとしたら。
 やっぱり俺は、そんな世界を受け入れるわけにはいかない。

 俺は眠ることが好きだし、眠って夢を見ることも好きだ。

 でも、眠りにも倫理がある。都合のいい幻想を現実に持ち込んではいけない。
 その程度の事、俺だって知っていたはずなのに。

 どうして俺は、そんなことを願ってしまったんだろう。
 今はもう、シロに願いを言った自分自身を殴りつけたくてしかたない。

 シロに何を言われたって、こんな願いを受け入れるわけにはいかない。
 帳消ししないといけない。

 でも、シロは願いの取り消しを受け入れてはくれない。"誰か"を助けるために。
 俺は、何をやっているんだろう。


889 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:15:45 xlx8U5Xo

 目を瞑って、意識的に呼吸をする。上手に呼吸をするのはすごく難しいことだ。
 いくらか戸惑いながら、俺は呼吸を徐々に整えていく。適切なテンポを取り戻していく。
 そして瞼の奥に何かの景色を見出そうとする。

 頬の表面は部屋の空気をたしかに感じている。
 その冷たいような、ぬるいような曖昧な空気。

 背もたれに体重を預け、全身から力を抜く。四肢を伸ばし、その重みを意識しようと努める。

 そうしているうちに頭は段々とぼんやりしてくる。自分の意識が今そこにあるのか、分からない。
 けれど感覚は、むしろ鋭敏になっていく。自分の呼吸の音が間近に聞こえる。
 つけっぱなしの換気扇が鳴いている。鳴き声はごくささやかだったはずなのに、気付いてしまうとうるさくて仕方ない。

 ふと目を開くと視界は青かった。暗闇なのだ。リビングに入ってきたとき、灯りをつけなかっただろうか?
 つけなかったかもしれない。俺は右腕を前方に伸ばしてみる。その影すら見えない。

 どうしてだろう、眠れなかった。


890 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:16:49 xlx8U5Xo

 とにかく眠ってしまえばいいのに。朝が来れば、学校へいかなきゃいけない。
 ここがどんなに奇妙な世界でも、その世界にルールというものがあるなら、従うべきなのだ。
 そうしなければ弾かれてしまう。

 俺はもう一度瞼を閉ざした。景色は青から黒へと静かに移行する。
 けれど意識は眠りに落ちていこうとはしなかった。いつまでも現実に縋りついている。
 
 気怠い焦燥が、頭の隅の方で疼きはじめる。
 俺は眠らなければならない。

 とにかく眠ろう。そう試みる。でもダメだ。何かうまくいかない。
 俺はいったい何をやってるんだろう。いったい何をしようとしてるんだろう?
 
 どうして眠れなくなったりするんだ?

 いったい何のせいで?
 
 でも、答えは分かり切っていた。俺は既に眠りの世界にいる。これは明晰夢なのだ。
 俺は夢の中で、夢が夢であることを自覚してしまった。

 だから、夢を現実だと錯誤することもなく、ただ曖昧に微睡んでいる。


891 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:17:31 xlx8U5Xo

 ふと、誰かが俺のことを見ているような気がした。

 それはどことなく非現実的な印象を持つ視線だった。とてもこの世のものとは思えない。
   
 俺は瞼を開いてその視線の元を辿ろうとした。暗闇の中で、視線の主は鈍く光っていた。
 静かな、青ざめた光。鈍い灰色。

 俺を見ていたのはイグアナだった。でも、もちろん真夜中のリビングにイグアナがいるわけがない。
 だからこれは幻覚か、妄想か、一種のイメージでしかない。

 イグアナ。いつだったか、イグアナについての小説を読んだことがある。
 
 主人公は禁猟区の河床で日光浴をしているイグアナを見かける。
 かたちに関してはともかく、主人公はその皮膚の宝石のような輝きに強く惹かれる。

 そして、その皮膚の色彩に惹かれるあまり、イグアナを撃ち殺してしまう。
 その美しい皮膚によって、何かを作ることができるかもしれないと思ったのだ。

 けれど、イグアナの死体が石の上に横たえるのと同時、美しかったその輝きは失われてしまう。
 イグアナの皮膚から星のような色彩は抜け去ってしまう。
 残されたのはただ、コンクリートのかたまりのような、鈍い灰色に成り果てた、むなしい死骸だけだった。

 馬鹿げた話だ。


892 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:18:05 xlx8U5Xo

 俺はイグアナを殺したことがない。見たこともない。
 でも、なぜだろう、イグアナは俺を責めているような気がした。
 
 もちろんそれは錯覚だろう。もう彼の瞳からは感情というものが消え去ってしまっていた。
 彼は既に死んでしまっているのだ。だから俺を責めることも、恨むこともできない。
 美しかった色彩を失い、ただ無感動な灰色の塊になってしまっている。

 こんなつもりじゃなかったんだよ、と俺は言う。
 こんなことになるとは思わなかったんだ、と。

 イグアナは悲しげなまなざしをこちらに向ける。
 でもそれだって俺がそう感じるというだけだ。彼はもう悲しむことすらできない。

 俺はイグアナを見たことがない。でも、殺したことはあるような気がしてきた。
 だからこそイグアナはそこにいるのだ。そこから俺を見るでもなく見ている。
 
 こんなつもりじゃなかったんだよ、と俺はもう一度呟いた。答えはどこからも帰ってこなかった。
 俺はただ、きみに憧れていただけなんだよ。ただきみのようになりたかっただけなんだ。
 取り巻く世界をきみと同じように感じてみたかったんだ。きみから何かを奪うつもりなんてなかった。

 イメージは虚空を舞う空想の断片でしかなく、意味をなさない。
 だから俺の言葉さえ、空疎な言い訳のようにしか響かなかった。
 手のひらで叩けば気持ちのいい音を鳴らしそうなくらい空疎な、意味を持たない言い訳。


893 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:19:20 xlx8U5Xo

 俺は灰色のかたまりでしかないイグアナを静かに見つめた。
 彼は既に意思をもっていないはずなのに、彼の瞳はこちらを見つめているような気がする。

 錯覚だ、と俺は頭の中で念じた。目を閉じてもう一度唱えてみる。錯覚なんだ、と。
 もう一度目を開いたときにはイグアナの姿は消えていた。
 あの土袋のような骸はどこにも転がってはいない。

 それなのに、彼のまなざしは、まだそこに残されているような気がする。

 それはいつまで経っても消えなかった。時計の針の音が柔らかに部屋の中を支配している。
 針は動き続けている。換気扇のうねり。自分が目を開けているのか閉じているのか、よくわからない。
 
 どのくらいの時間が過ぎただろう。
 気付けば部屋の中はかすかに明るくなりはじめていた。カーテン越しに空が白み始めているのが分かる。


894 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:20:28 xlx8U5Xo

 時計の針の音が響き続けている。時が経つにつれ、朝は自らの訪れをひそやかに主張しはじめる。 
 小鳥の鳴き声が換気扇のうねりに混じり始める。
 
 俺は立ち上がってカーテンを開ける。オレンジ色の朝日が空を照らし始めている。
 
 小さく首を振ってから、俺は窓辺から離れてコーヒーをいれた。もう眠ることは諦めてしまった。

 ソファに座り直し、静かに目を瞑る。すると誰かが俺のことを見ている気がする。気配の方を振り返る。

 でもそこには誰の姿もない。
  
 俺は溜め息をついてから、コーヒーを啜る。
 朝の太陽は静かに光を強めていく。俺の体をイメージの世界から暫定的な現実の世界へと引き戻す。

 夢と現実との境界は曖昧だった。俺は眠っていたのだろうか。起きていたのだろうか。


895 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:21:06 xlx8U5Xo

 やがて妹がリビングに現れた。「おはよう」と彼女は眠たげな顔で言った。

「おはよう」と俺は返事をする。コーヒーをもう一度口にする。それは既に冷え切ってしまっていた。

「寝てないの?」

 妹はそう訊ねてきた。どうだろう、と俺は考える。自分でも分からなかった。
 でもどちらでも同じことだ。朝は来てしまったのだ。

「眠れなかったんだよ」

 俺がそう答えると、妹はちょっと困ったみたいな顔をした。

「ばか」

「うん」

「ねえ、あの子、朝起きたらいなかったんだけど、お兄ちゃん知ってる?」

「俺の部屋にいるよ」

 俺の答えに、妹はどこか疑わしそうな顔をした。


896 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:21:55 xlx8U5Xo

「どうして?」

「さあ?」

 はぐらかしたつもりはなかった。本当によく分からなかった
 シロはどうして俺の部屋を訪れたんだっけ? ……ああ、そうだ。灯りがなかったからだ。

 話をしているうちに、また二階から物音が聞こえてきた。
 階段を降りる静かな足音。

 あくびをしながら、シロが姿を現した。

「おはよう」と俺は言った。シロは眠たげに瞼をこすりながら返事をしてきた。

「……おはよう」

 さて、と俺は思った。学校に行く準備をしなくては。
 歯を磨いて顔を洗って制服に着替えろ。鞄の中身を入れ替えて、授業に備えろ。
 
 それ以外にできることなんてないんだ。


897 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:22:34 xlx8U5Xo

 三人でトーストを食べたあと、シロは眠り足りないといって二階へ戻っていった。
 どこで寝る気なのかは知らないし、確認する気にもならなかった。

 妹は気にしていたようだったけど、やがて諦めたようだった。

「あの子、いつまで置いておくの?」

「……いつまで?」

「いつまでも置いておくわけにはいかないでしょ?」

 妹の言葉に、俺はわけもなく悲しくなった。でも、それはその通りだ。

「そのうち勝手に出て行くよ」

 半分本気で言ったのだけれど、妹は少しむっとしたようだった。
 俺は仕方なく立ち上がり、二階へと向かう。


898 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:24:59 xlx8U5Xo

 彼女は俺の部屋のベッドで眠っていた。

「シロ」

 名前を呼ぶと、うとうととしていたシロは、顔をあげてこちらを見た。

「今日はどこかに出掛けるのか?」

「……べつに。わたしにはもう、そんなに、することはないから。
 その日が来たら、お兄さんに、お願いすることがあるかもしれないけど……」

「家にいるんだな?」

「……うん」

「じゃあ、鍵は閉めていくから、もしよそへ行く気になったら、玄関の植木鉢の下に鍵があるから、それで鍵をかけておいてくれ。
 食べ物は冷蔵庫の中にあるものを勝手に食べていい。
 もし食べられそうなものがなかったら、キッチンにカップ麺なんかが置いてあるから、それを」

「ありがとう」とシロはちょっと戸惑ったふうにお礼を言った。俺は頷いた。
 それから間もおかずに、彼女は瞼をとじて枕に頭を下ろす。

「おやすみ」と彼女は呟いた。

「おやすみ」と俺も言った。


899 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/19(水) 02:27:05 xlx8U5Xo

 妹と一緒に家を出て、玄関に鍵をかける。太陽の光は朝よりももっと自己主張を激しくしていた。

 暑いね、なんて妹が言っていた。俺は朝の天気予報で知った今日の予想最高気温を妹に告げた。
 妹はげんなりした表情で空を睨んだ。

 通学路の途中にサクラとユキトが立っていた。おはよう、と彼らは言った。
 おはよう、と俺も言った。

 ユキトはいつもみたいに爽やかな笑顔だったし、サクラはいつもみたいに眠たげなぼんやりとした顔をしていた。

 昨日までと何ひとつ変わってなんかいない。
 この世界の俺には、彼らと過ごした時間の記憶がたしかにある。そういう認識を植え付けられてしまっている。
 だから、彼らと一緒にいることに違和感はない。

 目に映る景色は、昨日までと変わらない。なにひとつ。
 昨日も、俺はふたりと一緒に登下校した。馬鹿な話をしながら。夏の太陽を感じながら。

 変わってしまったのは、俺の目の方なんだろう。
 目の前で起こっているはずのことから、現実感が抜け落ちてしまっていた。
 実感のない現実。

 もし俺の願いを消し去れず、繰り返しだけが終わってしまったら、俺はこの世界に生きていくことになるのかもしれない。
 やっぱり、馬鹿げた話だった。


903 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:32:24 4b0b3ia.


 ユキトとサクラは当たり前のように俺に接した。
 俺たちは当たり前のように並んで歩いて学校へと向かった。

 教室には既に何人かのクラスメイトがやってきていた。俺はいつものように自分の席に向かう。
 タイタンはいない。

 俺は彼と話さなければならないことがあったはずなのだ。
 
 願いのこと。繰り返しのこと。司書さんを繰り返しから解放する方法について。
 でも自分の中でも考えがまとまっていない。
 
 どうして俺がこんな目に遭わないといけないんだろう、と俺は思った。 
 なんて惨めなことを考え方をする奴なんだろう、と俺を見下ろしている俺は思った。
 
 教室の空気はなんとなく静かだった。朝だから? 太陽はうるさいくらいに光をまき散らしているのに。
 
 誰かと誰かがささやき声を交わしている。
 タイタンに会わなければいけない。彼とこれからのことを話したかった。
 できれば彼にすべての判断を委ねてしまいたかった。俺はなにに対しても責任を持ちたくなかった。


904 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:33:34 4b0b3ia.

 俺は鞄を置いて教室を出ようとした。タイタンはどこにいるんだろう?
 図書室? もっと別のところ? まだ学校には来ていないのだろうか?
 そういえば野球部は朝練をやっていなかったっけ? でも彼は、いつも教室にいる……。

 でもとにかく俺は教室を出ようとした。

「どこか行くの?」と後ろからサクラの声が聞こえた。

 俺はどう答えようか迷った。どこに行くと答えればいいんだろう?
 
「図書室」と俺はとりあえず答えた。「また本?」とサクラは呆れたような声をあげた。

 俺は奇妙な苛立ちを覚えた。自分でも驚くくらい強烈な苛立ち。

 どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだ?
 みんな同じような顔をする。理解できないという顔。退屈そうな顔。意外そうな顔。似合わない、というような。
 時には軽蔑するような視線を向けてくる奴すらいる。


905 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:34:09 4b0b3ia.

「何が楽しいの?」なんて訊かれたって分からない。
 その質問に答えられないでいると「それ見ろ」とでも言いたげな、得意げな顔で笑い始める。

 なんでそんな顔をされなきゃいけない?
 おまえが何かを好きだと言ったとき、俺がそんな顔をしたことがあったか?

 俺は好きで本を読んでいるんだ。理解してくれとも共感してくれとも言った覚えはない。
 放っておいてくれ。

 もちろんサクラは俺を責めていたわけではなかった。軽蔑していたわけでもなかった。
 俺がそう感じただけのことだ。

 でも、俺が感じた気持ちは単なる誇大妄想ではない。経験から生まれた反射的な心の動きだ。
 誰にも分からなくても俺はそのことを知っている。
 
 俺はとにかく感情を抑え込んで愛想笑いをしてみた。サクラに何を言ったってどうしようもないことだ。
 誰も誰かを傷つけようとはしていない。それでも誰かが傷つく。
 そんなの誰にも防ぎようがない。俺だって同じことをしている。いつも。絶えず。

 仕方ないことだ。意図したことではなかったのだから。結果的にそうなってしまったというだけで。


906 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:35:37 4b0b3ia.

 教室を出てすぐ、廊下の向こうからアメの姿が見えた。
 
 彼女は俺に気付くと笑った。「おはよう。早いね」と言った。俺も「おはよう」と返す。
 「どこか行くの?」と彼女は訊ねる。「図書室」と俺は答える。それで会話は終わった。

 俺は彼女のことをアメと呼べなかったし、彼女は俺のことをヒメと呼ばなかった。

 彼女は俺に対して何か言いたげにはしていなかった。呼び止めてくることもなかった。
 すれ違うとそのまま教室へと入っていき、今度はサクラやユキトに対して「おはよう」と挨拶した。

 その声が俺にはたしかに聞こえた。なぜだか遠いような気もした。

 虚構と現実。
 
 俺には傷つく権利なんてない。


907 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:36:14 4b0b3ia.


 図書室には司書さんしかいなかった。タイタンの姿はない。

 足を踏み入れるのとほとんど同時に、司書さんはこちらに気付いた。
 目が合うと柔らかに微笑む。壊れやすそうな微笑みだった。突けば割れてしまいそうなくらいだ。

「おはよう。珍しいね、朝から」

「まあ、なんとなく。……タイタンは来てませんか?」

 司書さんはちょっと考えるような素振りで首を傾げた。

「今日はまだ誰も来ていないはずだけど」

「そうですか」

 溜め息をつく。利用者のいない図書室は空虚だった。子供から存在を忘れ去られた隠れ家みたいだ。
 すぐに図書室を出ようかと思ったけれど、なんとなく教室に戻る気にはなれなかった。

 溜め息をつくと、司書さんが「何かあった?」と訊ねてくる。何かあったのはそっちだろう、と俺は思う。


908 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:37:34 4b0b3ia.

「いえ。考えなきゃならないことがあるんですけど、うまくまとまってくれなくて」

「ふうん」

 どうでもよさそうに頷くと、彼女は思いついたように本棚を見回し始める。
 
 それから彼女は図書室の奥の方に走っていった。
 俺は手持無沙汰にあたりを見回しながら、手近にあった椅子に腰を下ろす。

 戻ってきた司書さんは俺に向けて一冊の本を差し出した。

「はい」

「なんですか、これ」

「役立つかと思って」

 にっこりという笑顔で差し出されたのは小林秀雄の「考えるヒント」だった。
 コントみたいな出来過ぎたユーモアだ。

「どうも」と言いながら俺は本を受け取った。なんだか詐欺にあったような気分がした。
 ぱらぱらとページをめくって内容を確かめる。面白そうな本ではある。


909 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:40:48 4b0b3ia.

 ふと開いたページの一節が目に入る。

『東西ベルリンの交通が遮断されているとは、
 かねてから読んだり聞いたりしていたが、行って見ると、やはり異様な感じを受ける』……。

 別のページを開く。こんな一節もあった。

『……物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。
 ……考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常なことである』……。

 たしかに面白そうな本ではあったけれど、残念ながら今の俺には役に立ちそうもなかった。
 俺はもっと初歩的な部分で躓いているのだ。もっと根本的な部分で引っかかっているのだ。

 俺は司書さんに礼を言ってから図書室を出た。
 教室に戻る気にはなれなかった。サクラにも、ユキトにも、アメにも会いたくなかった。


910 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:41:41 4b0b3ia.


 逃げ場所は屋上しか思いつかなかった。
 
 べつに面白くもない場所だ。俺とヒナは、いったいこんな場所で何を話していたのだろう?
 出会ってから、六月のよく晴れたある日まで、毎日のように顔を合わせていたはずなのに。

 俺たちは、そこで何かを話していたはずなのに。

 なにひとつ思い出せなかった。

 愛想なしでぶっきらぼうで、そっけない女の子。
 目が合うと先に逸らしたのはいつも彼女の方だった。

 あの日、ヒナは真剣な表情で俺の方を見た。そして俺のことを好きだと言った。
 俺は戸惑って返事をすることができなかった。彼女はいなくなってしまった。
 
 俺は彼女ともっと話をしたかったはずなのに。
 でも、それができなくなったのは……『有り得たかもしれない可能性のひとつ』でしかなくなってしまったのは……。
 
 どう考えたって、俺自身のせいだ。


911 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:43:29 4b0b3ia.

 俺は自分の心の中が散らかっているのを感じている。

 俺は繰り返しの記憶を取り戻している。だから、その最中に自分が感じたこと、自分が言ったことも覚えている。
 言われた言葉も、繋いだ手のぬくもりも、笑い声も、そのすべてが嬉しかったことも、ちゃんと覚えている。

 アメのことも、先輩のことも、ヒナのことも。

 それは都合のいい幻想だった。単なる夢の中の光景でしかなかった。
 けれど、俺はその夢の中で彼女たちのことを本当に好きだったのだ。

 俺の心は今ひどく散らかっている。ばらばらになって、分裂している。

 俺の中にアメのことを好きだった俺がいる。先輩と手を繋いでいたかった俺がいる。
 ヒナを抱きしめていたかった俺がいる。
 
 それらは感覚や感情を伴った記憶として俺の脳に焼き付いている。
 自分勝手な欲望が行き場を失って胸の内側でわだかまっている。

 手のひらが覚えているのだ。かきむしったって消えてくれない。


912 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/20(木) 00:44:30 4b0b3ia.

 俺は、彼女たちのことを忘れるべきだ。

 自分でさえ気味が悪いと思うようなことだ。
 彼女たち本人からすればもっと気味の悪いことだろう。
 
 俺は早くすべてを忘れてしまいたかった。どうしても忘れたくて仕方なかった。

 耐えきれなくなって右手で拳を作って頭を殴ってみた。最初はうまく殴れなかった。
 段々と力を籠めていく。痛さを増していく。
 それでも無意識が制御しているのだろうか。思い切り殴れはしない。 
 
 忘れろ、と俺は唱える。頬を殴る。軽い、空疎な音がする。
 俺の中身はからっぽなのだ。もう何も残っていやしない。
 右手の爪を立てて逆の手の甲を引っ掻いた。手首を引っ掻いた。血すら流れない。

 俺は壁に自分の体をぶつけた。頭を叩きつけようとしたけれどやめてしまった。
 やめてしまう自分に嫌気が差した。その程度なのだ。
 言い訳がましい自己処罰。もちろん記憶は消えてくれない。

 忘れろ、と俺はもう一度唱えた。忘れろ。おまえは、気持ち悪いんだよ。そう思った。
 気持ち悪い。気持ち悪い。俺が、気持ち悪い。気持ち悪い。消えろ。消えろ。

 ……気持ち悪いんだよ。


914 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:25:40 NsQrW/LQ


 俺は誰かと話している。

「ねえ、ヒメ、聞いてる?」

「聞いてる」

「ホントに? じゃあ、何の話してたか言ってみてよ」

「……」

「やっぱり聞いてなかった」

「……何の話だっけ?」

「だから、お祭り。今年も三人で行こうよ。去年みたいにさ。ダメ?」

「……うん。いいよ」

「よし。じゃあ、ユキトにも確認しておくから」

 サクラなのだ、と俺は思う。彼女はほっとしたような溜め息を漏らす。


915 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:26:17 NsQrW/LQ

「こんな場所にいて、暑くないの?」

 暑さや寒さは、あまり感じなかった。空がある。風がある。街が見える。南の空に太陽が見える。
 屋上だ。

「暑くないよ」

「ふうん。……ねえ、ヒメ、少し話をしてもいい?」

「……どんな?」

「わたしね、ヒメとまた話せるようになって、うれしいよ」

「とつぜん、何?」

「わたし、ヒメのこと、好きだよ。ユキトのことも」

 俺は答えなかった。


916 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:26:53 NsQrW/LQ

「だからね、また三人で一緒にいられるようになって、うれしいよ。
 わたしが変なことしたせいで、もうヒメと話せないんじゃないかって思ってたから」

 本当に不安だったんだよ。彼女はそう言った。

「こんなふうに、三人ずっと一緒にいられたらいいよね。本当に……こんな日が続けばいいのに」

 俺は笑った。それから言葉を口にした。

「嘘つき」

 彼女は息を呑んだ。たぶん傷ついていた。
 けれど、俺は間違っていない。彼女は嘘をついている。

 そのことが、俺にはちゃんと分かる。
 俺だけはそのことを既に知っている。


917 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:27:29 NsQrW/LQ


「今日は部活に出るの?」

 誰かがそう訊ねてきた。チャイムが鳴っているような気がする。
 周囲のざわめき。たぶん、教室だ。俺はきっと座っている。
 
「……部活?」

「部活」

「どうしようかな」

 出たくはなかった。部室にはきっと先輩がいる。
 彼女とは顔を合わせたくない。

「なんだよ、出ないの?」

 誰かは呆れたみたいに溜め息をついた。

「昨日は俺のこと、無理矢理引っ張ってったのに」

「そうだっけ?」

「そうだよ」


918 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:28:52 NsQrW/LQ

 そうだったかもしれない。でも、昨日と今日は、俺の中ではまったく違う。
 断絶がある。

 境目だ。落とし穴みたいなものだ。その日からすべてが入れ替わってしまう。

 そういう日がある。誰にでも降りかかりうる。たまたま俺に降ってきた。
 みんなにあるのと同じように。

「まあ、出ないならいいけど。じゃあ、一緒に帰ろう」

 俺と話しているのはユキトだ。そのことに気付く。

「どうして?」


「どうしてってなに?」

 彼はちょっと戸惑ったふうに笑う。混乱しているようだったが、どちらかというと混乱したいのは俺の方だ。


919 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:29:24 NsQrW/LQ

「……帰らないの?」

「部活に出るよ」と俺は答えた。

「そっか」

 彼はたぶん、俺の様子がおかしいことに気付いていた。
 
「じゃあ、俺は先に帰る」

 彼はそう言って、俺の居る場所から離れていった。
 どこか落ち着かないような素振り。

 俺は深呼吸をしようとするが、呼吸の感覚がうまくつかめなかった。
 現実感がない。


920 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:30:13 NsQrW/LQ


「今日はお友達はお休みですか?」

 誰かが言った。

「そうみたいですね」と俺は答えた。

「残念です」と彼女はさして残念でもなさそうに呟く。

「そうですね」と俺は頷く。

「何かありましたか?」

「何かって、何ですか?」

「何かです」

「どうして?」

「様子が変に見えたから」


921 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:30:47 NsQrW/LQ

「寝惚けているんですよ」

「じゃあ、いつものことですね」

「そうですね」と頷いてから、俺は考え込んだ。
 そうだ、いつものことだ。いつものこと……。

 ここはどこだろう?
 話しているのは誰だ? たぶん先輩だ。

 先輩。

 瞳がとらえている光の輪郭が、少しずつはっきりとし始める。
 かたちに意味が与えられる。俺は視界を取り戻していく。

「……千紗先輩?」

「……え?」

 彼女は心底戸惑ったような声をあげた。冗談でも耳にしたみたいな声。
 その呼び方はどうしたの、とでも言いたげな。俺はごまかすみたいに笑う。

 光が散逸する。景色の輪郭が曖昧になる。目を覆う極彩色の光。
 潰れる。


922 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:31:23 NsQrW/LQ

 彼女は気を取り直すみたいに咳払いをして、話題を変えた。たぶん気味悪がったんだろう。

「もうすぐお祭りですね。ヒメくんは、誰かと行くんですか?」

「お祭り……」

「お祭りです。商店街の」

「お祭り、ですか」

「はい。お祭り。フェスティバル」

「……」

「……カーニバルでもいいですけど」

「……」

「……カーニバルって、もともとは謝肉祭のことを指していたそうですよ」


923 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:33:15 NsQrW/LQ

「謝肉祭?」

 彼女はほっとしたように声の調子を和らげた。表情は分からない。
 視界に映るのは、意味を失い、整合性を失った、光のかけらでしかない。

「はい。謝肉祭。キリスト教のお祭りです」

 そうなんだ、と俺は思った。

「キリスト教では、イースターの四十日前からその当日までの間、獣肉や卵や乳製品を食べるのを禁じるんだそうです。
 それで、その禁止の直前に、肉食と告別するためのお祭りが、謝肉祭だったみたい。
 ……細かい部分は違うかもしれませんし、現在どのようになっているのかは分かりませんけどね」

「……」

「元々の形としては、数日間好き勝手に大騒ぎして、気ままに飲み食いをするお祭りだったらしいです。
 祝祭の最後に、その身勝手なバカ騒ぎの責任を藁人形に押し付けて、火炙りにする……。
 細かなニュアンスは違ってるかもしれませんし、聞いた話自体間違ってるかもしれませんけど、そんな祝祭」

 眠りたいなあと俺は思った。けれど眠れない。


924 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:34:30 NsQrW/LQ


「おかえり」と誰かが言った。当たり前みたいな声。
 
 イグアナが俺を見ているような気がする。

「ただいま」

「どうしたの?」

「なにが?」

「変だよ」

「なにが」

「お兄さん」

 ああ、シロだ。シロだったのだ。

「どこが?」

「……様子が」


925 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:35:36 NsQrW/LQ

「おかしいのは俺じゃない」

 と俺は言った。

「おかしいのは世界の方だ。どうして世界がこんなに簡単に歪んだりするんだ? 
 そんなの間違ってる。誰かの気持ちや願いなんかでどうして事実が変わったりする?
 そんなふうに変わるべきじゃないんだ。欲望や意思なんかで、世界を捻じ曲げちゃいけないんだ」

「でも、それをしたのはわたしたちだよ」

「こんなつもりじゃなかった。こんなことを望んだんじゃない」

「それは起こってしまったことなんだよ。手違いだろうと、何かのすれ違いだろうと、とにかく起こったことなの。
 誰のせいでもないとも言えるし、誰のせいでもあるとも言える。でもそんなのはどうだっていいことだよ」

「俺が悪いのか?」

「そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。でも、それもどうだっていいことだよ。
 お兄さん、わたしが嘘をついた理由も、本当のことを言った理由も、おんなじなんだよ。
 わたしはお兄さんが『知っている』ことにもできるし、『知らなかった』ことにもできる。
 だから、お兄さん。忘れたいなら忘れていいよ。“その日”が来たらちゃんと動けるように、わたしが調整してあげるから」


926 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:37:49 NsQrW/LQ

「間違ってるよ」と俺は言った。でも、誰に言ったのかは分からない。

「間違ってる。そんなふうに都合よく作り変えたって、結局なんの意味もないんだ。
 そういうことを続けているうちに、段々と意味がなくなっていくんだ。
 人間は人形になって、現実が筋書きになる。そんなことをして何かを取り戻しても、価値が薄れていくだけなんだ」

「だったら、わたしたちの価値ってなに?」

「……」

「現実の価値ってなに? ねえ、わたしやあの二人は、いったいなんのために生まれたの?
 ただ誰とも知れない人の慰み者になって、殺されるためだけに生まれたの?
 そうじゃないなら、どうして死んでしまったの? わたしは、間違いを正そうとしただけだよ」

「何かが失われることが悲しいのは、それが取り返しのつかないものだからなんだよ。
 唯一無二で替えのきかないものだからなんだ。簡単に歪められる世界では、幸福さえ意味を持たないんだよ」

「他人事みたいに言うんだね。ああ、でも、そうだよね。――他人事だもんね?」

「……」


927 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:39:11 NsQrW/LQ

「理不尽はありふれてる。悲劇は誰にでも起こりうる。悲しいのは自分だけじゃない。
 相対的に見れば恵まれている。誰だって不幸や苦しみを抱えてる。そうかもしれない。もちろんそうだと思う。
 でも、ねえ、だから受け入れろだなんてことを、わたしの友達に、お兄さんは言える?」

「……」

「悲劇を受け入れなきゃいけないのは、それが変えられないものだからでしょう? 
 わたしは悲劇を覆すだけの力を手に入れようとしてきただけ。……その力を行使しようとしているだけ」

「でも、仕方ないだろ。誰か一人を責めればそれで終わりというわけじゃないんだ。
 足元には深いぬかるみがあって、どれだけ注意深く進んでも足をとられてしまう奴はいる。
 誰だってそうなりうる。“誰だって”だよ。俺やきみだけの話じゃない。誰が加害者で誰が被害者かなんてわかりっこない。
 それが、他人が存在するということなんだと思う。もしそれらを全部なくそうとしたら、世界を滅ぼすしかなくなってしまう」

「人が死んでいるのよ」とシロは言った。

「死んでいるの。それを当たり前のように受け入れる世界なんて、滅んでしまったって別にかまわない」


928 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/21(金) 03:41:03 NsQrW/LQ

 俺は火炙りにされる藁人形のことを考えた。
 誰かの快楽の責任を押し付けられ、声もあげずに燃え尽きるしかなかった藁の人形。
 
「わたしはこんな世界を受け入れるわけにはいかない」

 彼女は笑った。

「全部、忘れていいよ。ごめんね、変なこと思い出させて。そのせいで、だいぶ混乱しちゃったみたいだね。
 でも大丈夫。お兄さんは何もかも忘れて、普段通りに生活していいよ。
 べつに何もかもを覚えていなくていい。普通にしてればいいの。だから、全部忘れて?」

 光。

「わたしの夢に、もう少しだけ付き合ってね」

 ――おやすみ。

 彼女はそう囁いた。視界が緩やかに白く染まっていく。
 光の濁流にのまれて、俺はようやく意識を失うことができた。でも、これでいいはずがない。

 これでいいはずがない。
 それなのに俺の意識は薄れていく。光のかけらが拡散していく。
 意識が失われてしまう。



932 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:24:04 LBExqyM6


 ノックの音で、目が覚めた。
 
「お兄ちゃん、起きて?」

 続く声に、俺の意識は引っ張られる。夢と現実の境目で揺れていた意識が現実へと引きずられる。
 小鳥の鳴き声と、カーテン越しでも刺すように鋭い朝の陽射し。

 瞼を開くと刺さるような光が疎ましく、俺はすぐに目を閉じた。
 柔らかな倦怠感の中の静かな明滅。

 それでも俺は瞼をもう一度開いた。
 景色は鮮やかだったし、感触は複雑だった。俺は上半身を起こして、部屋の中を眺めてみる。

「どうかした?」

 何も答えずにいると、妹はそう訊ねてきて、部屋の中に踏み込んできた。

「……ずいぶん長く眠っていた気がする」


933 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:24:40 LBExqyM6

 いつものことでしょ、という顔で、妹はくすくす笑った。
 それからベッドのそばに近付いてきて、俺の頭をぽんぽんと叩く。

「すごいねぐせ」

「……うん」

 懐かしい匂いがしたような気がしたけれど、その正体はつかめない。
 俺は一度瞼を閉じて、それからもう一度開いてみた。

「目がさめた?」

 と妹は笑った。"どうだろう"、と俺は思った。そして首を横に振った。
 たぶん彼女は冗談だと思ったのだろう、おかしそうに笑った。

「眠い?」と彼女は訊ねた。

「とても」と俺は答えた。答えながらなんとなく窓の外を見ていた。


934 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:25:43 LBExqyM6

「変な夢でも見たの?」

「……変な夢?」

 変な夢? 見たような気がする。見なかったような気もする。
 何度もこんな朝を繰り返したような気がする。

「……今何時?」

「九時半」

「……九時半?」

「あれ、約束は昼過ぎだって言ってたよね?」

「学校は?」

「……また、寝惚けてる」

 妹は俺の方をじとっと睨んだ。何のことか、分からない。思い出せない。


935 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:26:17 LBExqyM6

「ひょっとして、昨日のことも忘れてる?」

「昨日?」

 妹は一瞬だけ、深く傷ついたような顔をした。そういうふうに見えた。
 
「昨日――」

 彼女は何かを言おうとして、結局口を噤んだ。
 俺は強烈な後ろめたさを覚えたけれど、肝心の昨日のことが思い出せたわけではない。

「昨日……?」

 思い出そうと試みる。でも、妹は俺が"思い出そうとしている"ことに気付いて、いっそう傷ついたように見えた。
 傷ついている、というか。

 泣きだしてしまった。


936 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:27:33 LBExqyM6

 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、彼女は俯いた。手のひらで瞼を覆って。
 どうすればいいのか分からなかった。

 どうして妹が泣いたりするんだろう?
 文脈を考えれば原因は明らかだ。彼女は俺が“忘れている”ことを悲しんでいる。
 
 でも、俺は思い出せない。なにひとつ。昨日に関する俺の記憶は奇跡的なくらいまっさらだった。

 俺はどうすればいいのか分からなかった。
 けれど、“俺”は、妹の頭の上に手を伸ばした。

「うそだよ、ごめん。覚えてるよ」
 
“俺”はそう言った。俺はひどく驚いた。それは奇妙な感覚だった。
 俺は俺として、ちゃんと自分の体を操っていた。自分の目を動かしていた。映る景色を受け止めていた。

 それなのに、急に、体が言うことをきかなくなってしまった。

 俺はなにも言おうとなんてしてない。腕を動かそうとなんてしなかった。
 でも、“俺”は勝手に声を出した。“俺”は妹の頭を撫でていた。


937 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:28:17 LBExqyM6

「ごめんな、変な冗談言って。ちゃんと覚えてるよ」
  
“俺”はちょっと戸惑った風に謝った。でも俺はなにも覚えてなんていない。

「きらい」と妹は言う。

「どうして変な嘘つくの?」

 妹は涙をこぼしながら、恨めしくこちらを睨みながら、それでもほっとしたような顔をしている。
 目は、合っている。彼女は“俺”の方を見ている。それなのに、彼女は俺を見てはいない。

 何が起こっているのか分からない。それなのに、“俺”は言葉を重ねる。

「ごめんな」

 俺の意思とは無関係に。

「……ばかなの?」

 そんな、“俺”に対して、妹は心を許している。涙の跡を残したまま、困ったように笑う。
“俺”の言葉に一喜一憂している。安堵している。


938 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:29:04 LBExqyM6

「覚えてるよ」と“俺”は言う。

「全部覚えてる」
 
 でも俺はなにひとつ思い出せない。

「不安にさせないでよ」と妹は言った。
 それから俺の手のひらを掴んで、自分の頬に寄せる。
 
 その感触も、温度も、ちゃんと俺に伝わっている。目が光を捉えるのと同じように、耳が音をつかまえるように、鼻が匂いを感じるように。
 でも、その感覚は、たぶん、俺のものではなかった。
 
「ごめん」

「もういいよ」と言って、妹は“俺”の方を見上げながら、柔らかく笑った。

 綺麗な微笑みだった。そんな表情を、俺は見たことがないような気がする。


939 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:29:44 LBExqyM6


 何が起こっているのかよく分からないまま、“俺”はベッドを抜け出し、着替えを始めた。
 妹は慌てて部屋を出て行く。その姿を見送ってから着替えるのを再開する。

 着替えを終えた後、“俺”はカーテンを開ける。夏の陽射し。既に太陽は中天に昇っている。
 俺は眩さに目を細めたけれど、それは俺ではなく“俺”がしたことだったのかもしれない。
 少なくともカーテンを開けたのも、着替えたのも俺ではない。

「さて」と“俺”は言う。俺は続く言葉にかすかな期待をした。
 ひょっとしたら“俺”は、俺に対して何か語り掛けてくれるのではないか、と。
 そして自分自身について説明し、俺の今の状況について説明してくれるのではないか、と。

 でも続く言葉はそうじゃなかった。

“俺”は静かに深呼吸をした。深く息を吸い込んで、吐き出した。それから十秒ほど、窓の外をじっと睨んでいた。

「がんばろう」

 と“俺”は呟いた。本当に独り言のように。
 でも俺は、そんなことを言おうとしてはいない。


940 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:30:56 LBExqyM6

「起きたみたいだね」

 部屋の扉が軋んで、シロが現れた。シロ。シロだ。シロがいる。
 シロ。……シロが、どうしたというんだろう?

「おはよう、シロ」と“俺”はごく当たり前のように挨拶をした。

 どうして俺は、今、シロの存在に驚いたんだろう。

 シロが、どうかしたんだろうか?
 彼女はただの、親戚の子だ。休み中だけ、うちに遊びに来ているだけの。
 細かな事情は忘れてしまったけど、とにかく彼女はうちに滞在している。

 俺の認識は、ちゃんとそう言っている。

「今日は友達とお祭りに行くんだっけ?」

「うん。シロも一緒に行く?」

“俺”は俺の意思を無視して、当り前のように返事をした。
 
「わたしがいたら、邪魔でしょう?」

「そんなことないよ。べつに。シロが人見知りするっていうなら、無理しなくてもいいけど。
 でも、せっかくのお祭りだし、家にいるだけってのもつまらないだろ」


941 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/24(月) 01:32:27 LBExqyM6

「……どうしようかな」

 シロは困ったように考え込む。ごく普通の小学生の女の子みたいな無邪気な仕草で。
“みたいな”も何も、シロはごく普通の小学生の女の子なんだけど。

「まあ、考えておいてよ」

 と“俺”は言った。それからシロの頭を撫でた。どうやら“俺”は誰かの頭を撫でる癖があるらしい。
 指先を、シロの髪がくすぐる。感触は俺にもちゃんと分かる。

「……髪、気安く触らないで」

 シロは拗ねたような、困ったような声をあげた。俺は彼女のそんな仕草を意外に感じた。
“俺”は「ごめん」と謝りながらからかうように笑う。「もう」、とシロはそっぽを向いて溜め息をつく。

 誰か、説明してくれ。そう怒鳴ろうとした。けれど俺の喉は俺の支配下にはないようだった。
 俺は操縦桿を奪われたのだろうか。それとも、もともと操縦桿を握っていると錯覚していただけだったのだろうか。

 この状況はいったいなんなんだ?
 俺は悪い夢でも見ているのか? それとも気でも違ったのか?

 問いが発せない以上、答えが返ってくるはずもなかった。


944 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:02:03 KLiDvTc.


"俺"は俺という意識を置き去りにして勝手に生活を始めた。

 妹は当然みたいにトーストを焼いて"俺"に差し出した。
"俺"はそれを受け取って礼を言って食べ始めた。
 
 俺はブルーベリージャムの気分だったけど"俺"はチョコレートクリームをトーストの表面にたっぷり塗りたくった。
 チョコレートの甘味が口の中に放り込まれる。
 気の乗らない食べ物を無理やり食べさせられている。

 けれど"俺"は実にうまそうにトーストを食べているようだった。

「もっと焼く?」

「うん」

「コーヒーは?」

「飲む」

「はいはい」
 
 妹は笑っていた。


945 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:02:35 KLiDvTc.

 トーストを食べ終えて、"俺"はリビングのソファに腰かけてコーヒーを飲んだ。
 ついこの間俺がそうしていたのと同じように。当然似たような視界だ。

 俺は"俺"が身動きを取らないのをいいことに、自分で自分の体を動かしてみようとした。

 けれど体はまったく動かなかった。ときどき勝手に身じろぎをするくらいだ。
 手足や首や肩、指先に至るまで、俺の意思がまったく体に伝わっていない。

 この状況はいったいなんなんだろう? と俺は考える。"考える"ことができるのを不思議だと思う。
 肉体を操ることはできなくなっているのに、思考はできる。こんな奇妙な話もない。

 いったいなぜ、俺はこんな状況に立たされているんだろう。
 誰のどんな意思で? どんな必然性があって?


946 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:03:20 KLiDvTc.

 おい、と俺は声をあげようとしたが、声は出せなかったので、結局頭の中で呟くだけにした。

 いったい何が起こっているんだ? 俺はそう自分に訊ねてみた。
 
"俺"はリモコンを操作してテレビの電源をつけた。朝のワイドショーを見ながら退屈そうにあくびをした。

 俺はここにいる。俺の体の中に居る。でも、俺の体を動かしているのは俺じゃない。
 じゃあ誰なんだ?

 誰かが俺に成り変わって生活しているのか?  
 俺じゃない誰かが俺のふりをして?
 
 おい、と俺は頭の中でもう一度言った。おまえは誰だ、と。体を操っているおまえは誰だ、と。
 答えはやっぱりなかった。聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。

 何度か試したけれど、結局変化は訪れなかった。

 世界がひっくりかえってしまったような気がした。
 今まで俺の体を動かしていたのが、俺ではなかったような気さえしてくる。
 体を動かしている"誰か"と、俺の行動や意思が、偶然重なっていただけだったのかもしれない。

 世界がひっくりかえるような衝撃を受けたはずなのに、俺の体はまったくダメージを受けずに平然としていた。
 まるで俺自身の意識なんて、背中に貼りついていた意味のない"視点"か何かでしかなかったみたいに。


947 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:04:43 KLiDvTc.

"俺"は妹がいれてくれたコーヒーを飲みながら妹に何かを言った。
 俺は自分の口が勝手に動く感覚が無性に怖くなった。

 落ち着け、と俺は自分に――俺という意識に言い聞かせる。
 
 少し経ってからようやく、状況を冷静に分析しようとすることができた。
 
 とにかく、俺の体は勝手に動いている。俺の意思とは無関係に。
 そして、俺は俺の身体の中に、いまだ宿っている。感覚だってちゃんと存在している。

 なぜこんなことになっているのかは分からない。
 身動きだってとれない。でも、妹はごく当たり前みたいに、"俺"に接している。
 気付く様子はまったくない。

 俺はもう一度体を動かしてみようとしたけれど、できなかった。


948 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:06:39 KLiDvTc.

 溜め息をつこうとしたができなかったので、頭の中で「ふー」と呟いた。
 
 考えているうちに妙な度胸がついて、とにかくこの状況を見定めてやろうという決意ができた。
 とにかく起こっていることにとことん付き合ってやろうと。
 
 もしこれが夢や妄想や幻覚の類だったら、なにも恐れることはない。時間が経てばやがては醒めるだろう。
 逆にこれが実際に起こっている不条理な出来事だったとしても、身動きもとれないのではしかたない。
 とにかく俺には状況が変化するのを待つしかなかった。

 そうと決めてしまえば、"俺"が何かの行動を起こしたり言葉を放ったりするのが待ち遠しくさえ思えた。
 そういうところからわずかなりとも違和感のようなものを手に入れられれば、この状況を掴むヒントにもなるかもしれない。

 けれど"俺"はコーヒーをひとりで黙って飲むだけで、何も言わなかった。

 まあいいさ、と俺は思った。妹としていた会話を考えると、"約束"が昼過ぎにあるらしい。
 そしてどうやら今日は"お祭り"らしい。たぶん、サクラやユキトとの約束のことだろう。

 俺にはちゃんと、約束を交わした記憶が残っている。サクラに誘われたのだ。
 どうしてその出来事から今までの記憶が欠けているかは分からないが……思い出せないものは仕方ない。

 とにかく昼過ぎまで待てば、状況はなにかしら動くのだ。
 時計を見たかったが、"俺"は俺の意思ではまったく動いてくれなかった。


949 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:08:14 KLiDvTc.

 いったいいつまでこの状況が続くのかと思うとイライラしたけれど、とにかく今は眺めることしかできない。
 こうなってしまうと時間の流れがいやに遅く感じられた。

 ふと後ろから声が聞こえた。

「お兄さん、約束、何時だっけ?」

「昼過ぎかな」、と"俺"は答えた。

「そう」と答えたのは、たぶんシロだ。

「行く気になった?」

「そういうわけじゃないけど。……わたし、ちょっと散歩してくる」

「いってらっしゃい」

 言いながら、"俺"は振り返った。シロは毒気を抜かれたような顔で溜め息をついている。
 出来の悪いホームドラマでも見せられているような気分だった。


950 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:09:59 KLiDvTc.

"俺"はコーヒーを飲み干すとカップを流し台に持っていった。
 それからふと何か思い立ったのか、階段へと向かい、二階にあがる。

 自室に辿り着くと、入口に立って部屋の中を見回し始めた。

 部屋の中は、よく見ると奇妙に片付いていた。
 本は本棚の中にジャンルごとに分けられ、文庫別に、作者のアイウエオ順に並べられていた。 
 映画のDVDも綺麗に整頓して並べられていたが、そこには特に規則性はない。

 床に散らかっていた衣服はどこにも見当たらない。
 クローゼットの中の箪笥に畳んでしまいこんだのかもしれない。
 
 事物は適度に整理され、実用に応じて取り出しやすいように配置されていた。
 きわめて実務的な整頓の仕方だった。

 抽象的な概念や思想を差し挟む猶予がないくらいにシンプルな整え方。
 言ってしまえばごく普通の男子高校生の部屋のように。

 もちろんそれは少しも奇妙なことではない。
 俺はごく普通の男子高校生だったし、そうである以上俺の部屋がごく普通の男子高校生的であるのは自然なことだ。


951 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:11:45 KLiDvTc.

 問題は、俺がこの部屋に居心地の悪さを感じているというところだ。

 どうしてだろう、ここは俺の部屋なのだ。ちゃんと。そこに間違いはないはずだ。 
 それが勝手に変化しているから? 覚えもないのに片付けられているから?
 それだけではないような気がする。

"俺"はしばらく部屋の入口から内部の様子を見回していた。
 ベッドや床や本棚やクローゼットや壁、窓にカーテン。視点はさまざまな場所をさまよった。

 そして"俺"はひとつ頷く。満足げというのとは違うが、何かに納得しているように。

 さっき生まれたはずのわずかの度胸は、既にほとんど機能していなかった。
 自分がいったい誰なのか、それを不安に思ってしまった。

 それから"俺"は溜め息をついた。ひどく憂鬱そうな溜め息。頭痛を堪えるような。
 もちろん頭痛なんてなかった。俺にはちゃんとそのことが分かる。

「大丈夫」と"俺"は呟いた。いったい"俺"は……何を考えているんだろう?


952 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:12:45 KLiDvTc.

 不意に、後ろから声が掛けられた。

「どうしたの、お兄ちゃん」

「ああ、いや」

 首は勝手に振り返り、口は勝手に動いて返事をした。
 
「まあ、いろいろね」

 いかにも「何事もない風を装った声」だった。自分が発したものではないと思うと、途端にその胡散くささが分かる。
 妹は何も言わずに、"俺"の目を見た。それから不安そうに笑う。

「お兄ちゃん、最近、ちょっと変わったよね」

 ……"変わった"?

「そう?」


953 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:13:32 KLiDvTc.

「うん。なんか、明るくなった。昨日だって……」

 妹は何か言いかけたけど、結局最後まで言わなかった。昨日何があったって言うんだ?

「前まで暗かったみたいな言い方だ」

「違うの?」

 妹はクスクス笑った。"俺"も困ったみたいに笑った。俺は笑えなかった。

「それって、お姉ちゃんたちの仲直りしたから?」

「どうかな」

 俺はそのやりとりを他人事のように聞いている。


954 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:14:27 KLiDvTc.

「ねえ、前までの俺はそんなに暗かった?」

 どうかな、という顔で妹は考え込んでしまった。その表情は、ちゃんと俺が知っている妹のものだ。

「暗いっていうか、変だった」

「どんなふうに?」

「なんかね、ずっと考え込んでるみたいな感じ」

「……ふうん」

「自覚なかった?」

「そんなには」


955 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:15:07 KLiDvTc.

「でも、最近は明るくなったよ。元に戻ったみたいに」

 妹はそう言った。俺はその言葉に大きなショックを受けた。

 待てよ、と俺は言おうとした。嘘だろ。

「そっか」

「うん。今のお兄ちゃんの方が好きだよ」
 
 言ってしまってから、彼女は口に出したことを後悔するみたいに視線をさっと逸らした。

「そっか」と"俺"は嬉しそうな声を漏らした。

「……うん。よく笑うようになった」

「前までは、笑わなかった?」

「笑ってたけど、無理してる感じだった。追いつめられてるみたいな。でも、今は、落ち着いてる。
 お兄ちゃんが笑ってると、わたしも安心できる」

 俺は溜め息をつこうとしたができなかった。思わず自嘲の笑みをこぼしそうになったけれどこぼせなかった。
 もしこの状況に何者かの意図が介在しているとしたら、と俺は考える。
 そいつはよっぽど、俺のことが嫌いだったに違いない。


956 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:16:39 KLiDvTc.


 昼過ぎに玄関のチャイムが鳴った。
 俺は身動きのとれない状況に退屈しはじめていたが、"俺"はずっとソファーでぼんやりしていた。

"俺"が立ち上がって玄関に向かうと立っていたのはサクラとユキトの二人だった。
 俺のふたりの友人が、俺ではない"俺"に話しかける。

「やあ」とサクラは当たり前みたいな顔で挨拶した。

「やあ」と"俺"は返事をした。

「ちゃんと起きてたね。寝てるかと思った」
 
 ユキトはからかうみたいに笑った。"俺"も応えるみたいに笑った。 
 
「俺だっていつまでも寝てばかりじゃないよ」と"俺"は言う。そうかよ、と俺は思う。
 二人は顔を見合わせて笑った。


957 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:18:21 KLiDvTc.


 夕方まで、"俺"たち三人と妹はどうでもいいような雑談をしていた。
 休みに入ってすぐで気分が高揚しているのかもしれないが、誰も彼もが楽しそうだった。
 
 サクラは私服姿だった。祭りだからといって浴衣を着たりはしないらしい。
 どうしてか、と"俺"は訊ねた。

「見てみたかった?」

 とサクラは意地悪そうに笑う。

「ちょっとね」と"俺"は言う。

「そっか。じゃあ着てくればよかったかな」

 ユキトと"俺"は顔を見合わせて笑う。俺は身体の感覚から"自分"が笑ったことを察知する。


958 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:20:04 KLiDvTc.

 夏の日没は遅いから、四時を過ぎてもあたりはまだ明るかった。
 シロはその頃になってようやく散歩から帰ってきた。

「遅かったね」と妹は言う。

「ちょっとね」とシロは言う。

「どこにいってたの?」と"俺"が訊ねる。

「散歩」とシロは言う。

「だれ?」とサクラ。

「親戚の子。休み中こっちにきてるんだ」"俺"だ。

 こんな馬鹿げた状況で繰り広げられる日常会話が、俺にはなんだか間抜けに聞かれた。
 そんなことより俺が変なんだよ。変だろ? 変なはずなんだよ。誰か気付けよ。

 でも誰も気付かなかった。


959 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:20:58 KLiDvTc.


 結局シロと妹も"俺"たちについてきて、全員でバスに乗って祭りに行くことになった。
 
 サクラもユキトも大勢の方が楽しいだとかなんとか言っていた。
 体がもうひとつあったら俺だって混ぜてもらいたいくらいだ。

 バスにはたくさんの人が乗っていた。
 ぎりぎり"俺"たち全員が座れるだけの席は空いていたけれど、それでほとんど満席になってしまった。

 空いている席に最初にシロと妹が座った。その後ろの二つの席も空いていた。
 そちらにはサクラが最初に座った。ユキトは"俺"の方をちらりと見てから当たり前のようにサクラの隣に座る。

"俺"は空席を探したが、ほとんどの席が埋まってしまっていた。
 別に俺としては"俺"が立っていようが座っていようがどうでもよかったが、"俺"はきょろきょろと辺りを見回す。

 やがて、声が掛けられた。

「ヒメくん」

「……部長?」

 たしかに声の主は部長だった。俺は"俺"よりも少し早く彼女の存在に気付いた。


960 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:22:17 KLiDvTc.

 部長は手招きしていた。どうやら彼女の座っている席の隣が空いているらしい。

"俺"は少しの逡巡(……したのだろう)の後、結局彼女の隣の席に腰かけた。
 扉が閉まり、バスが発車する。サクラやシロたちとは離れた席に座ってしまったせいで、互いに声も聞こえない。

「部長もお祭りですか?」

「はい。ヒメくんは、佐藤くんと一緒みたいですね」

「ええ、まあ、あとは妹とか、親戚の子とか」

「ふうん。わたしは友達と待ち合わせしてるんです」
 
 部長は私服姿だった。彼女もまた浴衣を着てはいなかった。
 俺はそこから何かしらの意味を見つけ出そうとしたけれど、残念ながら何のヒントにもならなかった。

「休み中は、部活に顔を出すんですか?」

「一応、出れる限りは出ようと思ってますよ。ユキトの奴も、誘えるかぎりは誘うつもりです」


961 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:22:59 KLiDvTc.

「そうしてください。休み明けには文化祭もありますから」

「なにかやるんですか?」

「部誌を作ります。……休み前に説明しましたよね?」
 
「……そうでしたっけ」と"俺"はちょっと困ったような返事をした。
 人の話を聞かない奴だ。俺にも覚えはなかったけれど。

「部誌か……」

"俺"は考え込んでしまった。何を考えてるんだろう? どうせくだらないことを考えてるに違いない。

「ヒメくんは、何か書きますか?」

「自由参加なんですか?」

「できれば参加してほしいですけどね。でもみんな好き勝手に書くでしょうし、好きなものを書けると思いますよ」

"俺"はまた黙り込む。


962 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:23:58 KLiDvTc.

「小説はどうですか? このあいだ、見せてくれたみたいな奴」

 俺はちょっと緊張した。"このあいだ見せた"って、何の話だ?

「ああ、いや、あれは……あれは、人に見せられるようなものじゃないですよ」

「わたしには見せてくれたじゃないですか。……わたしは人じゃないと?」

「そういう意味ではなくて。あれは、なんていうか……恥ずかしいんです」

「でも、面白かったと思いますよ。"箱"の話」

 俺は強烈な不快感を覚えた。どういうことだ? と自問する。
 俺は部長にあの小説を見せたりしていない。

「『「木の船」のための素描』みたいで」

「……そんなにいいもんじゃないです。あれは、愚痴みたいなもんです」

 何を言っているんだ? こいつは……。あれは俺が書いたんだ。
 どうしておまえがそんなことを言える?


963 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:25:23 KLiDvTc.

「じゃあ、次に何か書くとしたら。どんなのを書きますか?」

"俺"はまた考え込んでいるようだ。

「思いつきでもいいですよ」

「……じゃあ、こういうのはどうですかね。ある高校生の男女ふたりがいるんです。
 男の方は女の方が好きなわけですが、気持ちを伝えられずにいる」

「……はあ。どうして伝えてないんです?」と部長はちょっと呆れたみたいな顔で相槌を打った。

「さあ?」と"俺"は無責任に首を傾げた。

「そうだな。きっと勇気がないんじゃないですか。それまでの関係が壊れるのが怖いとか。
 あるいは過去に手ひどい恋愛を経験していたとか、容姿にコンプレックスがあるとか。なんでもいいんですけど」

「……それで告白しないわけですか?」

「それまでは。でも、男の方は、そういう関係が嫌になってしまうんです。それで勇気を振り絞って告白する」

「どうして急に?」

「……まあ、何かのきっかけがあるんですよ。そうだな。女の周りに他の男子がうろつくようになって不安になるとか。
 もしくは、もともとなんとかしたいと思っていたところに、何かの機会があってデートに誘ってしまうとか」


964 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:26:15 KLiDvTc.

「何かの機会?」

"俺"は少し黙った。また考えているみたいだ。

「たとえば、近隣で夏祭りがあるんですよ。今日みたいに。それで、きっかけを欲しがっていた男の子は、女の子を祭りに誘う」

「デートの誘いですね?」

「そうです。そして、その祭りか何かで気持ちを伝えようとするわけです」

「それでどうなるんです?」

「お祭りに行くんですよ、二人で」

「それで?」

「男が告白するんです。帰り際にでも」

「……それで?」

「女の子はそれを受ける。ふたりは付き合うようになる」

「……そのあとは?」

「"そのあと?"」と"俺"は不思議そうに繰り返した。


965 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:27:17 KLiDvTc.

「ありませんよ、そのあとなんて。そこで終わりです。ハッピーエンド。
 付き合っていなかった男女が付き合う。それだけです。それ以上は蛇足ですよ。全部、蛇足です。
 余計なもの。不要な描写。物語はそこで区切られて、ふたりは手でも繋いで、それでおしまい」

「……女の子は男の子が好きだったんですか?」

「たぶん、そうだったんじゃないですかね」

「どうして?」

「"どうして?"」と"俺"はまた不思議そうに繰り返す。

「人を好きになるのに理由なんていらないでしょう」と"俺"は一般論を言う。
 部長は押し黙ってしまった。

「何かのきっかけがあったのかもしれないし、単に話が合って、一緒にいるのが心地よかったのかもしれない。
 とにかく"彼女"は"彼"が好きで――二人は相思相愛だった。相思相愛の二人が結ばれる。
"そのあと"なんて、書いたって仕方ないでしょう? 男の子が勇気を振り絞った。それが報われた。それだけです」

"俺"はやけに饒舌だった。
 その口ぶりにはどこかしら皮肉めいたものが含まれているような気もしたが、よくわからない。


966 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:28:03 KLiDvTc.

「ひとつ、訊いてもいいですか?」
 
 と部長は言った。

「どうぞ」と"俺"は促す。

「その話、おもしろいんですか?」

「さあ?」と"俺"はまた無責任に首を傾げた。

「……最近、ヒメくんは明るくなりましたよね」

 部長は急に話を変えた。
"俺"は戸惑ったようだったけれど、俺は驚かなかった。なにせ会話に参加していないから。

「……そうですか?」

「はい。とてもいいことだと思いますよ。話しやすくなりました」

 にっこり笑う。俺はその言葉に少しだけ傷ついた。"俺"がどう思ったのかは知らない。


967 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:30:03 KLiDvTc.


 バスが目的地に辿り着いて、大勢の人が一斉に吐き出された。
 
「それじゃあ、わたしは待ち合わせがあるので」と言って、部長はあっさりと去って行った。
 ユキトやサクラにも挨拶をして。

「俺たちも行くか」と"俺"は言った。

「うん」と頷いたのはサクラだった。

 不意に、手のひらに何かの感触が触れる。
 
"俺"は自分の腕を見下ろす。その先にはシロの手があった。
 シロが"俺"の手を握っていた。
 
 彼女はこちらを見上げている。……なんだ?
 なにか、変だ。

 シロの表情は、なんだか不安げだった。怖がっているみたいな。
 それと同時に、もっと別の感覚がよぎった。


968 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/26(水) 01:30:52 KLiDvTc.

"俺はこいつを知っている"、と俺は思った。
 いつだったか、こんなふうに、こいつは俺のことを見上げていたことがある。
 俺の手を握ったことがある。
 
 懐かしさ? 罪悪感? よく分からない心の動きに支配されて、俺は記憶を探ろうとする。
 けれどなにひとつ思い出せなかった。

 落ち着けよ、と俺は頭の中で言う。親戚の女の子なんだ。こんなふうに手を繋いだことくらいきっとあるはずだ。
 なにも不思議なことじゃない。そのはずだ。

 俺は記憶のぐらつきに眩暈を起こしそうだったが、現実には"俺"の体は平然としていた。

「どうした?」なんてシロに向けて笑いかけている。

 シロは自分が"俺"の手を握っていることに初めて気付いたみたいな顔をして、恥ずかしそうに顔を俯けた。
 俺の意識はその光景を不自然なものとして受け止めたけれど、彼女は普通の女の子なのだ。そういう顔くらいするだろう。

「なんでもない。行こう?」

 シロは笑う。そして、"俺"たちは並んで歩き始めた。人波の中へ。



971 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:27:53 3hWNNZ.A

 
「ねえ、お兄さん」、とシロは言った。

「なに?」と"俺"は訊ねた。

「わたしね、思い出したことがあるの」

"俺"たちの声は、祭りの雑踏に飲まれて掻き消えてしまいそうだった。

「思い出したって、何を?」

「お兄さんの願いについて」

「……何の話?」

"俺"は怪訝そうな声をあげた。本当に何の話なのか分からないらしい。
 俺もまた、シロが何を言い始めたのか、理解できなかった。
 
 ……咄嗟には。

 じくじくと、意識が歪められていく。


972 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:28:35 3hWNNZ.A

「わたし、ずっと不思議だったの。お兄さんが"自分に都合の良い世界"を望んだとしたら。
 ……それを願ったなら、どうして、お兄さんは、"都合の良い世界"の中で、あんなに苦しんでいたのか。
 自分に向けられる好意を信じずに、自己嫌悪を繰り返していたのか」

"俺"は黙った。とにかく最後まで訊いてから、判断する気になったらしい。

「だってそうでしょう? お兄さんは最初、心の底から自分に向けられる好意を喜んでいなかった。
 本当は、そんなのおかしいの。だってわたしは願いを叶えていたんだから。 
 最初はうまくいかなかったのかと思ったけど……ひょっとしたら、って思った」

「……」

「わたしの役割は、人の願いをきくこと。訊き出して、叶えること。
 つまり……スイッチを押す役目なの、わたしは。あくまで叶えるのは神様。本当はね。
 神様は余計なことをしなくても大丈夫って言ってたけど、わたしはそんなのずるいって思ったから……。
 せっかく力ももらえたわけだし、協力してあげようって思ったの。言いたいこと分かる?」


973 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:29:14 3hWNNZ.A

"俺"は首を横に振った。「何を言っているのかわからない」と思っていることだろう。

「つまりね、願いを叶える力には二種類あるの。願いを叶えると決めた瞬間に起きる、"神様の力"と……。
 力を与えられたわたしが自分の意思で変化を起こす、"わたしの力"。
 繰り返しは、"神様の力"ね。記憶も、"神様の力"だけど、繰り返しの中で維持できるのは、"わたしの力"」

 俺の頭が、ぎりぎりと軋みをあげていく。でもそれは錯覚だ。
“俺”は平然と立っている。軋みを感じているのは、俺だけだ。

「でも、お兄さんの願いをきいたとき、"神様の力"は起こらなかった。
 神様自身も、どんなことが起きるのか、いつも予測できないみたいだったけど、こんなことは初めてだって言ってた。
 だからわたしは仕方なく、"わたしの力"でお兄さんの願いを叶えてあげてたの」

「……さっきから、何の話をしてるか、分からないんだけど」

"俺"たちは他の連中から随分離れたところを歩いてしまっている。
 前の方からサクラが俺たちのことを呼んだ。妹がどこか落ち着かなさそうなようすでこちらを見ている。

 俺はシロのさっきの言葉の意味を考える。"神様の力"と"シロの力"?


974 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:29:49 3hWNNZ.A

 とっさに揺さぶられた記憶に、また意識が軋み始める。
 シロは"俺"の中に俺がいることに気付いている。

 何度も何度も同じことを繰り返してきた。記憶を思い出しては失ってきた。
 そんなふうな繰り返しの中で、俺はついに体を動かすことすらできなくなってしまった。
 
「いいかげんにしろよ」と俺は言おうとしたが、残念ながら喉も口も従ってはくれない。

 どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
 俺が何をしたっていうんだ?

 シロはその声が聞こえたみたいに言葉を続けた。

「"願い"っていうのは、"言葉"なんだよ」

 どうしてだろう、シロは怯えているような気がした。
 違和感。彼女は、何かに気付いたのだろうか。

「"言葉"を、わたしが聞く。わたしはそれを"解釈"する。その解釈を、"神様の力"で実現してもらう。そういう構造。
 でも、これは、間違っていたのかもしれない。……どうしていままで気付かなかったんだろう」


975 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:30:41 3hWNNZ.A

 俺は、自分がいつか考えたことを、思い出す。今になって。
 
"話者が語ろうとする「もの」「こと」は、代理物としての「言葉」という形をとる"

"言葉は言葉として他者の耳に入ったとき、話者の元から離れ、聞き手のものになる"

"聞き手は言葉を自分なりに咀嚼し、理解し、納得する"

"話者と聞き手との間には、「言葉」という一見同一のものを隔てた、大きな断絶が走っている"

 間違っていたのかもしれない、とシロは言った。どういう意味だろう。
 彼女はなにに気付き、なにに怯えているんだろう。

「わたしのせいなのかもしれない」とシロは言った。

「うまく叶えられなかったかと思ってたお兄さんの願いは、叶ってたのかもしれない」

「……ねえ、置いてかれそうだよ」

"俺"はそう言った。シロは柔らかく笑って短く首を横に振る。
 騒がしい雑踏を"俺"たちは並んで歩いた。手を繋いだまま。


976 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:31:38 3hWNNZ.A


"俺"たちは当たり前みたいに夏祭りを堪能していた。
 リンゴ飴やら綿菓子やらお好み焼きやらの夜店。
 
 知り合いに会ったり会わなかったりしながら、人ごみの中を歩いた。
 べつに何ということはなくても、いつもと違う光景だというだけで、みんな態度がおかしかった。
 はしゃいでいた。

 けれど俺には、そういう光景が、なんだかけばけばしい電飾のようで、不愉快に見える。
 外側から見れば――と俺は考える。
 ――だいたいのものは不愉快に見えるものかもしれない。

 歩き疲れてみんなで少し休んでいると、シロが金魚すくいの店の方をじっと見つめていることに、俺は気付いた。
 けれど"俺"は疲れていたし、ユキトやサクラと話していたしで気付かない。

 視界の隅に、たしかに映っているはずのシロの表情を気に掛けない。
 そういうものかもしれない。

「金魚すくいしたいの?」とシロに訊ねたのは妹だった。

 シロは一瞬、きょとんとした顔をする。意外そうな。


977 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:32:12 3hWNNZ.A

「……べつに、そういうわけじゃ」

 けれど視線は金魚の方を向いていた。横で会話を聞いていた“俺”が財布を取り出した。
 それからシロの背中を押す。

「いいからやって見なよ」

「いいって」

「せっかく来たんだし、何もせずに変えることないだろ」
 
 シロは諦めたみたいに溜め息をついた。“俺”と妹とシロが金魚すくいの屋台に向かう。

 財布を取り出して“俺”は金を払う。シロは仕方なさそうに網を受け取る。

 三人で屈みこんで、取りやすそうな金魚を選ぶ。

 シロは真剣な顔つきで金魚を選んでいた。 
 妹はその様子を楽しそうにながめている。


978 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/28(金) 00:32:50 3hWNNZ.A

 なんとなく、分かった。
 
 サクラが笑って、ユキトが笑って、妹が笑って、ひょっとしたらシロも笑う。
 そんな世界があるとしたら、それは俺が“こうじゃなかった”世界なんだ。

 いじけてばかりで、無責任で、身勝手で、優柔不断。
 そんな俺みたいな存在は、いない方がマシだった。

 だから、本当の意味で俺にとって都合の良い世界を作ろうとすると、俺という人間を世界から追い出さざるを得ない。

 余計者、邪魔者。

 そもそもからして、そうだったのだ。
 俺がいなければ、母が死ぬことはなかった。
 俺がいなければ、サクラとユキトは何も気にせずに付き合うことができた。
 
「いなければよかった」はすぐに幾つも思い出せるのに、「いてよかった」と思えることはまったく思い付けない。

 幸い、“俺”は上手くやれるみたいだ。いろんなことを。
 だったら彼に任せて、俺は消えてしまいたかった。
 俺よりも俺をうまくこなせる“俺”に全部を任せてしまいたかった。

 網は少しだけ金魚の重みに耐えたけれど、結局すぐに破けてしまった。



983 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:10:44 Trg2spo.


 ビニールに入れられた金魚を店主から受け取ると、シロはしばらくじっとその金魚の目を見つめていた。
 物言いたげなふうに。それに気付いたんだろう。"俺"はどうしたのかと彼女に訊ねた。

「かわいそうだね?」

 とシロは言った。
 たしかにね、と俺は思った。たぶん妹も"俺"も思ったことだろう。

 それからシロは、なにかに気付いたみたいに辺りをきょろきょろと見回し始める。

「……あの二人は?」

"俺"は首を巡らせて、さっきまで全員で休んでいた場所に視線を向けた。二人の姿はない。

「はぐれちゃったね」、と妹は言った。"俺"は首を横に振ったようだった。

「いいんだよ、これで」

「……どういう意味?」とシロは訊ねる。

「最初からこういう予定だったんだよ」

「……予定?」と今度は妹が首を傾げる。


984 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:11:22 Trg2spo.

「ユキトと示し合せてたんだ。二人きりになれるように」

「……それ、どういうこと?」

 シロが"俺"の方を睨んだ。"俺"は当たり前のように答えた。

「つまり、二人きりになりたいって言ってたから」

 俺は答えを訊くより先に、その言葉を想像してしまっていた。
 
「それって……」

 妹が、ちょっと戸惑った感じで"俺"を見上げた。たぶん"俺"は笑った。

「告白したいんだってさ」

「……いいの?」

 妹は当たり前みたいに問い返す。

「いいのって?」

「だって、お兄ちゃんも、お姉ちゃんのこと……」


985 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:12:18 Trg2spo.

「ユキトもそう思ってたみたいだけど」と"俺"は言った。

「べつに俺はサクラのことを異性として好きだったってわけじゃないよ。元々。
 居心地がよかったのはたしかだけど、それはユキトも含めてのことだし。サクラだってそうだと思うよ。
 ただ、なんていうか、無条件で傍にいてくれる相手がいるっていうのが嬉しかっただけだ」

 妹は何かを言いたげな顔をした。"俺"の言葉は、まるで俺自身の言葉みたいに聞こえた。

「……でも、そんなことになったら、今まで通りではいられないんじゃない?」
 
「だからって、いつまでも一緒にいるってのも変な話だろ。
 それに、もし二人が付き合うことになったって、距離を作るような奴らじゃない。
 自然と距離が開けたって、べつに喧嘩するわけじゃないんだ」

 妹は俯いて何かを考え込んでしまったようだ。
"俺"の言葉を聞きながら、自分がしたことについて考えた。


986 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:13:41 Trg2spo.


 俺がユキトとサクラを避けるようになった理由は、"俺"の言葉と、まったく同じだった。
 ユキトがサクラに好意を抱いていたことは知っていた。それを隠そうとしていることにも気付いていた。
 サクラもまた、ユキトのことが好きだった。ずっと昔から。俺はちゃんと知っていたのだ。

 小学六年の、バレンタインの日のことを思い出す。
 三人で集まっていたとき、サクラは俺たち二人に義理チョコを渡してきた。
 俺たちは当たり前みたいに受け取ってはしゃいでいた。

 サクラがその後、俺の目を避けて、ユキトにもうひとつ、別のチョコを渡していたこと。
 見て見ぬふりをしたけれど、俺はずっと前から知っていたのだ。
 ユキトともサクラも、互いの気持ちには気付いていなかったみたいだけど。

 俺はずっと知っていた。知ったうえで、見て見ぬふりをしていたのだ。
 ぬるま湯の関係で居続けたくて。

 でも、ユキトが変化を求めていることも、サクラが揺らいでいることも、なんとなく分かっていた。


987 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:14:27 Trg2spo.

 こうすればよかったんだな、と俺は思った。
"俺"がしたように、ユキトとちゃんと話をして、示し合わせて、機会を与えてやればよかったんだ。
 そうすれば、いつか終わるとしても、ちゃんと関係を続けていくことだってできたんだ。

 たとえ関係が変わったとしても。
 あんなふうに、避けたりしたのは、どう考えたって失敗だった。

 俺はただ、ふたりが離れていくことを肌で感じて、それを恐れていた。
 それでも、その事実をどうにかして受け入れないわけにはいかなかった。
 ずっと変わらない関係なんてありえないから。

 俺はふたりを失うのが怖かった。
 自分の居場所をなくして、ひとりぼっちで放り出されるのが不安だった。

 自分一人で新しく誰かと関わっていけるなんて思えなかった。
 自分がひとりぼっちになってしまうような気がした。
 
 俺はひとりが怖かった。


988 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:15:05 Trg2spo.


「……待ってよ」、と、シロが言った。

「待って」と繰り返す。妹も"俺"も、言葉に吸い寄せられるようにシロの方を見る。
 彼女はビニールの中で泳ぐ金魚を指先に提げながら、混乱したような顔をする。

「そんなの、聞いてない」

「……シロ?」

 何の話をしているのか、というふうに、"俺"は彼女の名前を呼ぶ。

「そんなの、頼んでない。そんなふうにしてなんて、言ってない。わたしは……」

"俺"と妹は顔を見合わせた。シロの様子が目に見えて変わっていく。
 
 ぎりぎりと、頭は記憶を絞り出していく。彼女の力について。繰り返しについて。俺は思い出していく。
 これまでのことを、全部、思い出せている。
 だから俺には、彼女の混乱の理由がよく分かった。

「何を言っているんだ?」と"俺"は言う。けれど無駄だ。
 肉体を操っている"俺"は、繰り返しの記憶を持っていない。


989 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:15:45 Trg2spo.

「どうしてこうなるの?」とシロは言った。それから俯いて、泣きだしそうな顔をする。
 
「シロ、どうした?」

"俺"は訊ねた。妹も、心配そうな顔で彼女を見ている。
 夏祭りの人ごみは、俺たちを差し置いて楽しげだった。

 子供のはしゃぐ声があちこちから聞こえる。
 
「……あの二人から、離れちゃダメなんだよ」

 シロは、泣いているように見えた。

「……シロ?」

「……このままじゃ、死んじゃう」

"俺"は真面目な声で問い返す。シロの言葉はまともじゃなかったけど、シロの態度も普通じゃなかった。
 不穏で、根拠のない言葉。そのはずなのに、"俺"はそれを笑い飛ばしもしない。

「死ぬ? ……誰が?」


990 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:16:27 Trg2spo.

「――ゆき兄が、死んじゃう」

 ゆきにい、とシロは言った。"ゆき兄"。
 その呼び名は、俺を混乱させた。

 ゆき兄。ユキトのことだ。どう考えても。それは分かる。ユキトが死ぬ?
 俺の頭の中の、奇妙に冷静な部分が、静かに情報を連結させた。

 このタイミングでユキトが死ぬということは、シロが回避しようとしていたのは、ユキトの死だったということか。
 だとすれば、この繰り返しは、ユキトの死によって起こっていたのか。
 ユキトが死ぬ?

 どうして?

「どうして? わたしはちゃんと、こうならないようにしていたはずなのに……」

「落ち着け、シロ。おまえ、何を言ってるんだ?」

"俺"はシロに冷静になるように促す。俺は必死に、自分自身で肉体を動かそうとする。
 けれど自分の意思じゃ指一本動かせない。


991 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:17:16 Trg2spo.

「やっぱり、わたしのせいなの? わたしが――」

「――落ち着けって!」

"俺"は怒鳴った。シロは怯えたように身を竦ませて、"俺"を見上げる。

「いったいどうしたんだ? ゆき兄ってのはユキトのことか?」

 シロは"俺"の目を見つめながら、苦しそうに頷く。

「ユキトが死ぬって、どういうことだ?」

「……このままじゃ、そうなるの。ゆき兄は、今日、死ぬはずなの。
 だからわたしは、"はる兄"の願いと、"さくら姉"の願いをうまく重ねて、それをなかったことにしようって思った」

 ――さくら姉の願いによる"繰り返し"に、はる兄の願いをうまく誘導すれば、事実を変えられるかもしれないって。
 ――ゆき兄さえ生き延びてくれれば、世界の"巻き戻し"も起こらないはずだから、そういう形で世界が確定するって。
 ――だから、ゆき兄が生き延びることを、はる兄が望んでくれたら、世界はそういう形に進むはずだって思った。
 ――"ゆき兄が生きている世界"は、"はる兄にとって都合の良い世界"でもあるはずだから……。

 でも、と彼女は続けた。

 ――でも、わたしは間違えてたのかもしれない。


992 : 以下、名無しが深夜にお送りします :2014/03/29(土) 04:18:19 Trg2spo.

「……話はまったく分からないけど、とにかくユキトが危ないってことか?」

"俺"は、そう訊ねた。シロはおとなしく頷いた。

「タチの悪い冗談じゃないんだよな?」

 シロは再び頷く。

「……じゃあ、わけが分からないけど、とにかくふたりを探そう。そう遠くには行ってないはずだし」

 シロは、怯えたみたいに、"俺"を見上げた。

「……ねえ、はる兄」

「それ、俺のこと、なんだよな?」

"俺"は戸惑ったように首を傾げる。

「なにも、思い出さないの?」

「なにもって、なんのこと?」

「わたしは、さっきからずっと、繰り返しのこと、思い出してもらおうとしてるのに――どうして、思い出さないの?」