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【プロスピA】Vロードの☆7やってると累計ptすぐ貯まっていくな【プロスピパーク】

96: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 16:25:59.18 ID:Gux0tItQ0.net
累計無理だわ
こんな時間取りづらくて正月に向けて貯金する時期にこういうクソイベ仕込むとか死ねや

 

97: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 16:27:31.42 ID:6Qifs0pS0.net
>>96
星7だけやっとけば以外と稼げるでちな今70万

 

99: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 16:30:37.72 ID:WJ2pmQt5d.net
パーク自然回復と強敵でた時にコストが足りない時だけエナ割っていま86万まできたぞ
Vロードは星7でやってる

 

112: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 17:00:21.04 ID:CdDngI5yd.net

みんなパーク累計どんくらい?

こちらは★6で59万

 

116: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 17:01:43.93 ID:i55hJ0vx0.net
>>112
星6で61マンダ
昨日コスト残したまま寝落ちしたからちゃんとやってたらもっといってたかな

 
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123: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 17:19:16.33 ID:n+NNeR8Ga.net
>>112
★5で55万だわ
1.5倍だし、★6よりも育成優先で★5で回すわ
ちょっとぐらいエナ割ることになってもかまへんかまへん

 

124: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 17:23:21.04 ID:7Ymdx0Pwp.net
>>112
ワイニート、240万越え

 

144: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 17:54:37.50 ID:qvi1Eaz00.net
>>112
星6で68万
基本自然回復だけどコストがズレてる時だけエナ割ってる(たぶん20くらい)

 

170: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/12/16(土) 18:33:37.50 ID:dlifmfXF0.net
>>112
☆6に途中から変えて、いま52万
とりあえず目当ての明石取れたからまぁ良しとするか…

 





573573: プロスピAおすすめ記事 573/05/73(火) 05:07:03.00 et
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★1位


★3位

★4位



引用元: http://anago.5ch.net/test/read.cgi/applism/1513355229/

『【プロスピA】Vロードの☆7やってると累計ptすぐ貯まっていくな【プロスピパーク】』へのコメント

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  1. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:55:16 ID:g4MjUzNTE

    へのコメント

    ※画像がある場合はクリックする事で拡大表示されます
    パワ速管理人 : 2017/12/17(日) 10:01:29 ID:I0OTgyMjI
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    匿名 : 2017/12/17(日) 10:03:28 ID:QyMDM0NDg
    結局低弾道弱パワー打者に変えたら簡単に出来るようになった
    最初にパワー系5人並べるのやめてクレメンス

    匿名 : 2017/12/17(日) 10:13:34 ID:Y0NDc2MTI
    皆何で答えてくれへんのか分からんけど、本スレってどこなん?

    ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:52:13 ID:I5NTQzODg
    マリー・アントワネット
    フランス国王ルイ16世の王妃
    曖昧さ回避 「マリー・アントワネット」のその他の用法については「マリー・アントワネット (曖昧さ回避)」をご覧ください。
    マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d’Autriche, 1755年11月2日 – 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。

    マリー・アントワネット
    Marie Antoinette
    ハプスブルク=ロートリンゲン家
    Vigée-Lebrun Marie Antoinette 1783.jpg
    マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)
    称号 フランス王妃
    全名 Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne
    マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
    Maria Antonia Josepha Johanna
    マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ
    出生 1755年11月2日
    神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
    オーストリア帝国の旗 ハプスブルク帝国、ホーフブルク宮殿
    死去 1793年10月16日(37歳没)
    Flag of France (1790-1794).svg フランス共和国、パリ、革命広場
    埋葬 1815年1月21日
    Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス王国、サン=ドニ、サン=ドニ大聖堂
    配偶者 ルイ16世
    子女
    一覧参照
    マリー・テレーズ


  2. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:55:57 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。


  3. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:56:12 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという


  4. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:56:28 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
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  5. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:56:43 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    イキスギィ!


  6. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:56:59 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたというp


  7. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:57:15 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
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  8. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:57:32 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
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  9. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:57:48 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
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  10. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:58:06 ID:g4MjUzNTE

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    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
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  11. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:58:26 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    大草原


  12. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 10:59:38 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    ジャラジャラ


  13. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:00:00 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    kv-2


  14. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:00:16 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという.


  15. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:00:31 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという…


  16. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:00:47 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたといウーっฅ(๑•̀ω•́๑)ฅー


  17. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:01:11 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    マリー可愛すぎ


  18. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:01:27 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    アニオタwwww


  19. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:01:43 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    長谷川


  20. ☆復٩(ˊᗜˋ*)و活☆ : 2017/12/17(日) 11:01:59 ID:g4MjUzNTE

    幼少期・結婚まで 編集

    少女時代のアントーニア
    1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

    当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

    1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

    1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

    宮廷生活 編集
    デュ・バリー夫人との対立 編集

    婚姻の儀式の様子
    結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1][2]

    1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)
    ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

    2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

    結婚生活 編集

    王と王妃の結婚を祝うメダル
    マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる。鍵遊びをよく一緒にしたらしい。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。

    乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)
    母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

    但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
    LL


  21. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:02:16 ID:IwMTMxMzk

    管理人はよ仕事せーや


  22. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:04:39 ID:Q4MjQ3ODY

    ※1
    復活おめでとう㊗️


  23. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:11:49 ID:Q4MjQ3ODY

    ※1
    でも貴方のせいでコメ欄過疎ってますね〜
    早よ消えろや


  24. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:12:41 ID:kyNTQ5ODA

    コピーして貼り付けるだけなのにこれだけかよwwwwwwwwwwwwwwwwww


  25. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:39:02 ID:A5MjQxNTQ

    あああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ?あああああああああああああああああああああああ、あああああああああああああああ石橋杏奈


  26. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:46:06 ID:I5NDc1OTA

    管理人仕事しろ


  27. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:52:05 ID:I5NDA5MDc

    本スレどこか教えてくれませんか?
    なぜ誰も答えてくれないんですか?
    何か触れてはいけない暗黙の了解があるのですか?
    お願いします、教えてください


  28. 匿名 : 2017/12/17(日) 11:56:07 ID:Q4MjQ3ODY

    ※27
    あんなところ行くもんじゃありません
    貴方の為を思って皆無視しているのですよ


  29. 匿名 : 2017/12/17(日) 12:03:08 ID:U3NTI2ODk

    ※27
    プロスピA2chや
    覚悟して行ってらっしゃいw


  30. 匿名 : 2017/12/17(日) 12:37:33 ID:IwNDkyMDg

    ※27
    このインターネット全盛のご時世に、自分で知りたいことを検索することすらできないとかお前の将来が心配だわ。


  31. (′ω‘) : 2017/12/17(日) 14:14:15 ID:E4MDk4MDg

    シュウサイ…


  32. 匿名 : 2017/12/17(日) 16:59:18 ID:g4MjIwODQ

    スレッドがなんだったのか…
    コメントを打ち込んでいて忘れてしまっている。


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